第398話 銭の山を嗅ぎ当てる姫
西暦1556年7月29日(弘治二年・文月二十九日ごろ)
肥前国 伊万里
狂犬お市様の動きは、やはり早かった。
立花が落ちた。
そう聞いた次の日には、もう伊万里へ転戦している。
戦国の大名が城を一つ片づけたあと、兵を休め、荷を整え、周辺を固め、次の一手をゆっくり考える――そんな“普通”は、この姫にはない。
終わった瞬間に、次である。
先鋒として先に走ったのは、高橋鑑種。
そして、前田利家、前田慶次。
三人は、カラベル二隻で昨夜のうちに伊万里へ向かっていた。
しかも、それだけではない。
高橋軍三百。
水陸機動兵団四百。
それを先行させ、海から上がり、空白になった土地を埋めるように走らせたのである。
その頃の伊万里周辺は、ほとんど空っぽに近かった。
松浦党は、まず信長様に平戸、五島、佐世保で叩き潰され、さらに糸島半島から唐津へ転戦してきた景虎姉上に、残りまで容赦なくしばき回されていた。
残党は、波多城と岸岳城に籠もり、息も絶え絶えである。
つまり、伊万里はぽっかり空いた。
その空白へ、狂犬の先鋒が滑り込む。
高橋鑑種は、海から上陸した時、しばらく無言だった。
伊万里の浜は静かだった。
警戒すべき兵影は少ない。
山城にも、まとまった守備は残っていない。
利家が、馬上から辺りを見回して笑った。
「なんや、拍子抜けやな」
慶次も、槍を肩に担いだまま空を見た。
「景虎姉上が、唐津でよほど松浦をしばいたんだろうさ」
高橋は、少しだけ苦笑した。
「ありがたい話ですな」
そうして三人は、ほとんど空き城同然となった山城を、次々と回っていった。
攻めるというより、受け取るに近い。
「開けい」
「……はい」
「降るか」
「降ります」
そんな調子である。
だが、お市様から下された命令だけは、妙に具体的だった。
黒髪山を占領しろ。
南の泉山を占領しろ。
利家は、その時から首を傾げていた。
「ただの山やろ?」
慶次も頷く。
「どう見ても、ただの山だな」
高橋鑑種だけは、少し慎重だった。
「姫様が言う以上、何かあるのでしょうが……」
だが、その“何か”が分からない。
それでも命令は命令である。
三人は黒髪山へ兵を入れ、狂犬旗を立てた。
泉山にも兵を送り、狂犬旗を立てた。
村々を回り、治安を落ち着かせ、村役たちに名乗りを聞き、年寄りから山の水と道の話を聞く。
やっていることは、いつもの狂犬軍らしく、戦と行政の中間みたいなものだった。
高橋は、村の者に言った。
「騒ぐな」
「今日から狂犬領だ」
利家は、それを横で見ながら笑う。
「高橋殿、もうすっかり馴染んどるな」
「雇われた以上、働かねば」
「真面目やなあ」
慶次が、木陰であくびをしながら呟く。
「景虎姉上が唐津で松浦をしばき回してるから、こっちは楽だな」
それは本音だった。
伊万里は、戦場でありながら、まだ本格的な戦場にはなっていない。
空白地帯に旗を立て、道を押さえ、山を取る。
その地味さが、かえって不気味でもあった。
二日後。
ようやく、狂犬お市様の本隊が到着した。
浜に舟がつき、兵が次々に上がる。
九鬼水軍の船影。
水陸機動兵団。
火縄銃兵。
雑賀衆。
川浪衆。
その真ん中を、愛馬豊臣号にまたがったお市様が現れた。
黒髪が風に揺れ、目だけがやけにぎらぎらしている。
しかも今日は、妙に機嫌がいい。
三人は、すぐに前へ出て報告した。
「姫様、黒髪山、泉山とも占領済みです」
「守備も少し置きました」
「周辺の村も押さえております」
お市様は、ぱっと顔を輝かせた。
「よくやった!」
そのまま馬を降りる。
そして三人の前へずんずん進むと、一人ずつ手を取った。
「高橋!」
ぶんぶん振り回す。
「日本一の手柄ぞ!」
「は、はっ……!」
高橋は完全に面食らっている。
次は利家。
「利家!」
またぶんぶん振る。
「さすがじゃ!」
「姫様、腕が抜ける!」
最後は慶次。
「慶次!」
「おう」
「いかすではないか!」
「褒め方が雑だなあ!」
だが、お市様は心底嬉しそうだった。
三人は、顔を見合わせた。
そこまで褒められるようなことをした覚えがない。
ただ山に旗を立て、村を治めただけである。
利家が、素直に口にした。
「姫様」
「なんじゃ」
「黒髪山と泉山を占領して、守備は置きました」
「うむ」
「……でも、ただの山ですよ?」
慶次も続ける。
「金や銀でも出るのか?」
お市様は、それを聞いて、にやりと笑った。
だが答えない。
その代わりに、後ろに控えていた神屋宗湛を呼んだ。
「宗湛!」
「はっ!」
「伊万里の港を整備せよ」
「は、はい」
「商館を開設する」
「承知いたしました」
宗湛は、まだ新参の御用商人直参である。
だが、もう仕事は飛んでくる。
お市様は、さらに続けた。
「商館の周りは、伊万里川から水堀を引け」
宗湛が固まる。
「……み、水堀、でございますか」
「そうじゃ」
「なぜ」
「いるからじゃ」
あまりにも当然のように言うので、逆に誰も突っ込めない。
宗室が横で、そっと帳面に書き込んだ。
意味は分からない。
だが、後で意味が出てくるのがこの姫のやり方だと、もう学び始めている。
そしてその直後。
お市様は、いきなり豊臣号の向きを変えた。
「泉山、行くぞ!」
その声に、全員が一斉に顔を上げる。
「島井!」
「は、はい!」
「ついてこい!」
島井宗室が慌てて走る。
お市様は、馬首を泉山の方へ向けながら叫んだ。
「銭の山じゃ!」
その一言に、場がしんとなった。
利家が、目を瞬かせる。
「……銭?」
慶次が、槍を肩に担ぎ直す。
「だから何やねん、その山」
高橋も、思わず泉山の方を見る。
緑の山。
ただの山。
少なくとも、彼らにはそうしか見えなかった。
お市様だけが、違っていた。
その目は、山を見ていない。
その山の下に眠る何かを見ているようだった。
「全軍前進じゃ!」
お市様の声が飛ぶ。
「伊万里港へ守備二百置け!」
「残りは、ついてまいれ!」
兵たちが、どっと動く。
高橋が、慌てて馬を返す。
利家と慶次も笑いながら続く。
宗室と宗湛は、意味が分からぬまま必死で追う。
家臣団の誰にも、まだ分からない。
だが、お市様だけは違う。
鉄か。
布か。
器か。
港か。
川か。
すべてを見て、繋がる先の“まだ無い富”を嗅ぎ当てる。
それが、狂犬お市という女だった。
祐筆桃の日記
弘治二年 文月二十九日(西暦1556年7月29日)
伊万里へ転戦。
高橋鑑種殿、前田利家殿、慶次殿が先鋒として入り、黒髪山と泉山を占領し、村々を押さえていた。
景虎様が唐津で松浦をほぼ片づけていたため、伊万里は驚くほど空っぽだったらしい。
姫様は本隊到着後、三人を大いに褒めた。
だが三人とも「ただの山ですよ?」という顔をしていた。
その後、神屋宗湛殿に伊万里の港整備と商館設置を命じ、さらに伊万里川から水堀を引けと指示。
その意味は、まだ誰にも分からない。
そして姫様は、泉山へ向かいながら「銭の山じゃ」と叫んでいた。
たぶん、また姫様だけが何か見えている。




