表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

399/402

第397話 難攻不落は、牢獄であった

西暦1556年7月21日(弘治二年・文月二十一日ごろ)

筑前国 立花山城―香椎宮

立花山城の包囲が始まって、ひと月が過ぎていた。

夏草は伸び、蝉はうるさく鳴き、山の緑は濃さを増している。だが、立花山の内側にいる者たちの顔色だけは、日に日に青く、薄くなっていた。

狂犬お市様の包囲は、世に言うような厳重な完全包囲ではなかった。

山をぐるりと幾重にも囲み、隙なく見張りを置き、出入りを一切許さぬ――そういう“普通の籠城戦”の包囲ではない。

押さえていたのは、立花山へ続く表の登り口、裏の抜け道、兵が通れそうな獣道、その要だけである。山全体を鎖で縛るのではなく、逃げる者が自然に転がり落ちていくように道を押さえていた。

つまり、山から滑り落ちれば逃げられる。

だが、帰れない。

それが、狂犬お市様の狙いだった。

立花方は、最初それを甘いと見た。

「完全包囲ではない」

「難攻不落の立花山城ぞ」

「大友の大軍ですら跳ね返した城じゃ」

そう息巻き、籠城に入った。

だが、後詰めのない城で、補給もないまま長く籠もることが、どれほど無意味か。彼らは途中でようやく思い知ることになる。

難攻不落とは、攻めにくい城である。

だが同時に、自分も逃げにくい城でもある。

つまり――

牢獄だった。

しかも、ただの牢獄ではない。

城下の村が消え、町が消え、人が消えていくのを、城の上から見せつけられる牢獄である。

あれほど煙の立っていた村が、静かになる。

あれほど人声のしていた道が、空になる。

荷を引く者、子を背負う女、鍋や鍬を担いだ男たちが、海辺へ列をなし、移民舟へ乗り込んでいく。

最初は、城兵たちも見下ろしながら笑っていた。

「逃げるか」

「勝手に逃げよ」

「城があれば、また戻ってくる」

だが、五日、十日、半月と過ぎるうちに、その笑いは消えた。

戻ってくる者がいない。

村に火も灯らぬ。

家畜の鳴き声も、子の泣き声も、朝の炊煙もない。

ただ、空の家と荒れ始めた畑だけが残る。

城兵たちは兵糧を細く長く食べていた。

粥をさらに薄くし、干物を小さく裂き、塩も節約する。だが、腹が減るより先に心が痩せていった。

「……殿」

ついに家臣の一人が、立花鑑載の前で膝をついた。

「なんじゃ」

鑑載の声にも、もう張りがない。

「降伏いたしましょう」

その一言で、部屋の空気が止まった。

「何を申す!」

別の家臣が怒鳴ろうとしたが、その声にも力はない。

膝をついた家臣は、顔を上げずに続けた。

「万が一、狂犬が兵を引こうとも……」

そこで一度、言葉を詰まらせる。

「城下に、もう人がいませぬ」

鑑載の肩が、ぴくりと揺れた。

「村が消え、町も消えました。殿」

「……」

「この城を守り切っても、何を守ったことになるのでしょう」

部屋のあちこちで、視線が落ちた。

誰も反論できなかった。

立花鑑載は、しばらく無言だった。

それから、ふいに顔を覆った。

はらはらと涙が落ちる。

「なんじゃ……」

震える声だった。

「なんじゃこの戦は……」

誰も答えない。

「常識外れではないか」

涙が止まらぬ。

「大友の大軍も跳ね返す城ぞ……」

その声は、怒りなのか悔しさなのか、自分でも分からなくなっているようだった。

「狂犬は……狂犬は……」

それ以上、言葉にならない。

普通の戦ではなかった。

城を攻めるのではなく、城の意味を殺す戦だった。

立花は、そのことを見誤った。

難攻不落を信じ、籠城の形だけをなぞり、普通の戦と同じだと思った。

それが、墓穴だった。

やがて、降伏のために家臣たちが下山し始めた。

一人、また一人と。

城主に代わって頭を下げるために。

その頃、立花鑑載は寝込んでいた。

体ではなく、心が先に崩れていた。

その同じ頃。

香椎宮の裏では、まったく別の静けさがあった。

「これと、これを混ぜるのじゃ」

狂犬お市様が、袖を軽く捲って畑の中にしゃがんでいた。

足元には、生薬の苗。

香椎宮の裏手に作り始めた生薬畑である。

相手をしているのは、香椎宮の神官たちだった。

「姫様、これは風邪に効くので?」

「効く」

お市様は即答する。

「じゃが、量を間違うな。苦くなりすぎる」

「は、はい」

「あと、煎じる時は水をけちるな」

神官たちは、真剣に頷いていた。

お市様は、薬草を摘み上げながら言う。

「風邪薬は、これからもっと要る。博多は大陸に近い流感や感冒の人が増えるからの」

それから、神官の一人をじっと見た。

「よいか。暴利は取るなよ?」

「はっ」

「薄利多売じゃ」

「はっ!」

そこへ、ばたばたと足音が近づいてきた。

「姫様!」

藤吉郎である。

汗をかき、息を弾ませながら、それでも顔は明るい。

お市様が、振り向いた。

「どうした」

藤吉郎は、すぐに膝をついた。

「立花が降伏いたしました」

神官たちが、思わず顔を見合わせる。

藤吉郎は続けた。

「城主は、心を病んでおるとのこと」

お市様は、少しだけ目を細めた。

「……承知」

その一言に、余計な感情はなかった。

勝った、と喜ぶでもなく、侮るでもない。

「でかした」

藤吉郎にそう言って、すぐに続ける。

「労ってやれ」

「はっ」

「責めるな。追い詰めるな」

「はっ!」

そこまでは、慈悲だった。

だが、その次の瞬間には、もう狂犬の顔に戻っていた。

「藤吉郎!」

「はっ!」

「残りの城は、もらいうけよ」

「御意!」

「即座に撤収!」

その声で、周囲の兵が動き出す。

お市様は、もう次を見ていた。

「高橋! 先鋒!」

高橋鑑種が、はっと顔を上げる。

「伊万里に全速前進じゃ!」

その名が出た瞬間、元就がわずかに眉を動かした。

島井と神屋の若い二人――宗室と宗湛も、息を呑む。

お市様だけは、港と地の匂いと交易の流れを見ている。

朝鮮の布。

朝鮮の鉄の石。

明の陶磁器。

南蛮の欲。

それらが交わる先に、何かまだ見ぬ産業の種があると、獣みたいな勘で嗅ぎ当てているのだ。

「島井と神屋も連れてこい!」

お市様は、その若い二人を指さした。

「わらわに遅れるな!」

そう言うなり、もう走り出していた。

畑から。

香椎宮の裏から。

本陣へ。

その先の海へ。

慶次が笑いながら追う。

「姫様、待て待て、早い!」

権六が槍を担いで駆ける。

「急げ!」

藤吉郎も、苦笑しながら立ち上がった。

「また始まったな……」

元就は空を見上げ、髭をしごく。

「立花が落ちたその足で、もう伊万里か」

小さく、しかしどこか感心したように笑った。

「やはり、狂犬じゃの」

香椎宮の裏手には、さっきまでのお市様の指先が触れていた生薬が、夏の日差しを浴びて揺れている。

戦の終わりと、次の産業の始まりが、同じ瞬間に重なっていた。

狂犬お市の戦とは、そういう戦だった。

祐筆桃の日記

弘治二年 文月二十一日(西暦1556年7月21日)

立花山城、ついに降伏。

ひと月の包囲で、城兵は逃亡し、家臣は降伏を願い、城主立花鑑載殿は心を病んだとのこと。

難攻不落とは、つまり牢獄である。姫様の言う通りだった。

その時、姫様は香椎宮裏で生薬畑を作り、神官たちに風邪薬の処方を教えていた。

しかも「暴利は取るな、薄利多売じゃ」と言っていた。

どこにいても姫様は姫様である。

降伏の報を聞いた途端、姫様は即座に撤収を命じ、高橋殿を先鋒に伊万里へ向かうと決めた。

島井殿と神屋殿も連れていくとのこと。

まだ誰も知らぬが、姫様はもう次の商いの匂いを嗅いでいるのだと思う。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ