第397話 難攻不落は、牢獄であった
西暦1556年7月21日(弘治二年・文月二十一日ごろ)
筑前国 立花山城―香椎宮
立花山城の包囲が始まって、ひと月が過ぎていた。
夏草は伸び、蝉はうるさく鳴き、山の緑は濃さを増している。だが、立花山の内側にいる者たちの顔色だけは、日に日に青く、薄くなっていた。
狂犬お市様の包囲は、世に言うような厳重な完全包囲ではなかった。
山をぐるりと幾重にも囲み、隙なく見張りを置き、出入りを一切許さぬ――そういう“普通の籠城戦”の包囲ではない。
押さえていたのは、立花山へ続く表の登り口、裏の抜け道、兵が通れそうな獣道、その要だけである。山全体を鎖で縛るのではなく、逃げる者が自然に転がり落ちていくように道を押さえていた。
つまり、山から滑り落ちれば逃げられる。
だが、帰れない。
それが、狂犬お市様の狙いだった。
立花方は、最初それを甘いと見た。
「完全包囲ではない」
「難攻不落の立花山城ぞ」
「大友の大軍ですら跳ね返した城じゃ」
そう息巻き、籠城に入った。
だが、後詰めのない城で、補給もないまま長く籠もることが、どれほど無意味か。彼らは途中でようやく思い知ることになる。
難攻不落とは、攻めにくい城である。
だが同時に、自分も逃げにくい城でもある。
つまり――
牢獄だった。
しかも、ただの牢獄ではない。
城下の村が消え、町が消え、人が消えていくのを、城の上から見せつけられる牢獄である。
あれほど煙の立っていた村が、静かになる。
あれほど人声のしていた道が、空になる。
荷を引く者、子を背負う女、鍋や鍬を担いだ男たちが、海辺へ列をなし、移民舟へ乗り込んでいく。
最初は、城兵たちも見下ろしながら笑っていた。
「逃げるか」
「勝手に逃げよ」
「城があれば、また戻ってくる」
だが、五日、十日、半月と過ぎるうちに、その笑いは消えた。
戻ってくる者がいない。
村に火も灯らぬ。
家畜の鳴き声も、子の泣き声も、朝の炊煙もない。
ただ、空の家と荒れ始めた畑だけが残る。
城兵たちは兵糧を細く長く食べていた。
粥をさらに薄くし、干物を小さく裂き、塩も節約する。だが、腹が減るより先に心が痩せていった。
「……殿」
ついに家臣の一人が、立花鑑載の前で膝をついた。
「なんじゃ」
鑑載の声にも、もう張りがない。
「降伏いたしましょう」
その一言で、部屋の空気が止まった。
「何を申す!」
別の家臣が怒鳴ろうとしたが、その声にも力はない。
膝をついた家臣は、顔を上げずに続けた。
「万が一、狂犬が兵を引こうとも……」
そこで一度、言葉を詰まらせる。
「城下に、もう人がいませぬ」
鑑載の肩が、ぴくりと揺れた。
「村が消え、町も消えました。殿」
「……」
「この城を守り切っても、何を守ったことになるのでしょう」
部屋のあちこちで、視線が落ちた。
誰も反論できなかった。
立花鑑載は、しばらく無言だった。
それから、ふいに顔を覆った。
はらはらと涙が落ちる。
「なんじゃ……」
震える声だった。
「なんじゃこの戦は……」
誰も答えない。
「常識外れではないか」
涙が止まらぬ。
「大友の大軍も跳ね返す城ぞ……」
その声は、怒りなのか悔しさなのか、自分でも分からなくなっているようだった。
「狂犬は……狂犬は……」
それ以上、言葉にならない。
普通の戦ではなかった。
城を攻めるのではなく、城の意味を殺す戦だった。
立花は、そのことを見誤った。
難攻不落を信じ、籠城の形だけをなぞり、普通の戦と同じだと思った。
それが、墓穴だった。
やがて、降伏のために家臣たちが下山し始めた。
一人、また一人と。
城主に代わって頭を下げるために。
その頃、立花鑑載は寝込んでいた。
体ではなく、心が先に崩れていた。
その同じ頃。
香椎宮の裏では、まったく別の静けさがあった。
「これと、これを混ぜるのじゃ」
狂犬お市様が、袖を軽く捲って畑の中にしゃがんでいた。
足元には、生薬の苗。
香椎宮の裏手に作り始めた生薬畑である。
相手をしているのは、香椎宮の神官たちだった。
「姫様、これは風邪に効くので?」
「効く」
お市様は即答する。
「じゃが、量を間違うな。苦くなりすぎる」
「は、はい」
「あと、煎じる時は水をけちるな」
神官たちは、真剣に頷いていた。
お市様は、薬草を摘み上げながら言う。
「風邪薬は、これからもっと要る。博多は大陸に近い流感や感冒の人が増えるからの」
それから、神官の一人をじっと見た。
「よいか。暴利は取るなよ?」
「はっ」
「薄利多売じゃ」
「はっ!」
そこへ、ばたばたと足音が近づいてきた。
「姫様!」
藤吉郎である。
汗をかき、息を弾ませながら、それでも顔は明るい。
お市様が、振り向いた。
「どうした」
藤吉郎は、すぐに膝をついた。
「立花が降伏いたしました」
神官たちが、思わず顔を見合わせる。
藤吉郎は続けた。
「城主は、心を病んでおるとのこと」
お市様は、少しだけ目を細めた。
「……承知」
その一言に、余計な感情はなかった。
勝った、と喜ぶでもなく、侮るでもない。
「でかした」
藤吉郎にそう言って、すぐに続ける。
「労ってやれ」
「はっ」
「責めるな。追い詰めるな」
「はっ!」
そこまでは、慈悲だった。
だが、その次の瞬間には、もう狂犬の顔に戻っていた。
「藤吉郎!」
「はっ!」
「残りの城は、もらいうけよ」
「御意!」
「即座に撤収!」
その声で、周囲の兵が動き出す。
お市様は、もう次を見ていた。
「高橋! 先鋒!」
高橋鑑種が、はっと顔を上げる。
「伊万里に全速前進じゃ!」
その名が出た瞬間、元就がわずかに眉を動かした。
島井と神屋の若い二人――宗室と宗湛も、息を呑む。
お市様だけは、港と地の匂いと交易の流れを見ている。
朝鮮の布。
朝鮮の鉄の石。
明の陶磁器。
南蛮の欲。
それらが交わる先に、何かまだ見ぬ産業の種があると、獣みたいな勘で嗅ぎ当てているのだ。
「島井と神屋も連れてこい!」
お市様は、その若い二人を指さした。
「わらわに遅れるな!」
そう言うなり、もう走り出していた。
畑から。
香椎宮の裏から。
本陣へ。
その先の海へ。
慶次が笑いながら追う。
「姫様、待て待て、早い!」
権六が槍を担いで駆ける。
「急げ!」
藤吉郎も、苦笑しながら立ち上がった。
「また始まったな……」
元就は空を見上げ、髭をしごく。
「立花が落ちたその足で、もう伊万里か」
小さく、しかしどこか感心したように笑った。
「やはり、狂犬じゃの」
香椎宮の裏手には、さっきまでのお市様の指先が触れていた生薬が、夏の日差しを浴びて揺れている。
戦の終わりと、次の産業の始まりが、同じ瞬間に重なっていた。
狂犬お市の戦とは、そういう戦だった。
祐筆桃の日記
弘治二年 文月二十一日(西暦1556年7月21日)
立花山城、ついに降伏。
ひと月の包囲で、城兵は逃亡し、家臣は降伏を願い、城主立花鑑載殿は心を病んだとのこと。
難攻不落とは、つまり牢獄である。姫様の言う通りだった。
その時、姫様は香椎宮裏で生薬畑を作り、神官たちに風邪薬の処方を教えていた。
しかも「暴利は取るな、薄利多売じゃ」と言っていた。
どこにいても姫様は姫様である。
降伏の報を聞いた途端、姫様は即座に撤収を命じ、高橋殿を先鋒に伊万里へ向かうと決めた。
島井殿と神屋殿も連れていくとのこと。
まだ誰も知らぬが、姫様はもう次の商いの匂いを嗅いでいるのだと思う。




