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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第396話 博多の若鷹、狂犬の懐へ飛び込む

西暦1556年7月20日(弘治二年・文月二十日ごろ)

筑前国 香椎宮 本宮本陣

博多会合衆の降伏は、あっけないほど静かに終わった。

島井宗信と神屋紹策が、香椎宮本陣の床几の前で文書に名を書き入れ、会合衆の面々もそれに続いた。誰も声を荒らげず、誰も泣き叫ばず、ただ長く続いた博多の商いの流れが、そこでひとつ向きを変えた。

桃は、それを見届けると、丁寧に文書を乾かし、折り、書箱へ納めた。

墨の匂いが、まだ薄く残っている。

「これで、調印は済みました」

桃が顔を上げると、博多の商人たちは、ぞろぞろと本陣を去っていくところだった。島井宗信も神屋紹策も、去り際には肩が落ちていたが、どこか腹を括った顔でもあった。負けはした。だが、道は残された。狂犬お市がそうしたからだ。

その背中が見えなくなってから、桃はふと気づいた。

「……あれ?」

本陣の板敷きの端。

まだ、二人残っていた。

若い男である。

島井宗信の息子、島井宗室。

神屋紹策の息子、神屋宗湛。

二人とも、博多の会合衆が去ったあとも動かず、その場に膝をついたままだった。

桃が、少し首を傾げる。

「いかがされましたか?」

柔らかく問う。

「皆、もう帰られましたよ?」

だが二人は、返事をするより先に、板敷きへ手をつき、そのまま地へ額がつくほど深く頭を下げた。

「狂犬お市様の」

宗室の声が、わずかに震えている。

「御用商人になりとうございます」

宗湛も続ける。

「何でも商いさせていただきます」

さらに、もう一度頭を下げる。

「何卒、よろしくお願いいたします」

「何卒……!」

本陣の空気が、一瞬だけ変わった。

慶次が、おや、という顔をする。

権六は、腕を組んだまま少し目を見開いた。

元就は、髭をしごきながら、面白いものを見る目になっている。

藤吉郎が、ん? と鼻を鳴らした。

「ほう」

少しだけ天井を見る。

「これは……」

その顔は、何か昔を思い出している顔だった。

お市様は、しばらく二人を黙って見ていた。

それから、何も言わずに立ち上がる。

つか、つか、と歩く。

迷いのない足取りで、二人の前まで来た。

しゃがみ込む。

そして、静かに言った。

「顔を上げよ」

二人は、恐る恐る顔を上げた。

その目の前に、世界一の美女の顔があった。

しかも、距離が近い。

近すぎる。

夏の光を受けた肌。

涼やかな目。

町娘のような藍の装いの残り香。

近くで見ると、破壊力がさらに増す。

宗室も宗湛も、一瞬で心臓が跳ね上がった。

(近い)

(近い近い近い)

二人とも、博多の町でそれなりに美しい女は見てきた。

遊女も、町娘も、武家の姫も遠目には見たことがある。

だが、こんなものは知らない。

宗湛の喉が、ごくりと鳴る。

宗室は、顔が熱くなるのを必死で隠した。

お市様は、その反応を見て、にやりと笑った。

「ほーーーーー」

変なところで、妙に感心した声を出す。

「久しぶりじゃの」

後ろにいた藤吉郎へ振り返る。

「藤吉郎!」

「はい」

「久しぶりじゃな」

「何がでございます」

お市様は、楽しそうに指で二人を示した。

「わらわに自ら売り込んでくるやつじゃ」

その言葉で、藤吉郎もようやく腹の底から笑った。

「ああ……!」

ぽん、と膝を叩く。

「確かに」

お市様は、懐かしそうに言う。

「そちや、寧々、まつ以来じゃの」

本陣の何人かが、なるほどという顔をした。

そう。

この姫の周りには、拾われてきた者が多い。

だが、自分から飛び込んできた者は案外少ない。

自分の値を、自分の口で売り込む。

それは商人としては当然のことでも、戦国の大名相手にはなかなか出来ることではない。

お市様は、二人を見て満足そうに頷いた。

「気に入った!」

そこで、宗室と宗湛は、ぱっと顔を上げた。

お市様は、実に豪快に言い放った。

「今日から、御用商人直参じゃ」

場が、しんと静まる。

そして、その次の一言で、さらに静まった。

「わらわの小遣い、預けるゆえ」

一拍。

「倍にしてや」

豪快である。

いや、豪快を通り越していた。

宗室と宗湛は、完全に引きつった。

「……は?」

「いや、それは……」

宗室が思わず声を漏らし、宗湛も言葉を失う。

だが、お市様は不思議そうに首を傾げた。

「ん?」

「できぬのか?」

その問いが、恐ろしいほどまっすぐだった。

二人が口ごもると、お市様はあっさり追撃する。

「藤吉郎なら、三倍にすると言うぞ?」

藤吉郎が、すぐに胸を張る。

「言いますな」

「寧々など、黙って二倍にするぞ?」

桃が、思わず目を伏せた。

事実だからである。

お市様は、なおも笑顔だった。

「期待しておる」

「ふたりなら、最低でも倍にはできるの」

そして、軽く手を打つ。

「頼んだ」

またしても――

丸投げである。

本陣の空気が、妙に優しくなった。

慶次は、笑うのを堪えて肩を震わせている。

権六は真顔のまま、二人に少し同情した目を向けていた。

元就は髭を撫でながら、半分面白がり、半分感心している。

宗室と宗湛は、その場で固まっていた。

頭の中では、いろいろなことが一斉に駆け巡っていた。

(御用商人直参)

(それはすごい)

(いや、すごいどころではない)

(小遣いを預ける?)

(倍にしろ?)

(最低で?)

(失敗したらどうなる?)

(いや、これはもしかして)

(人生の分かれ道では?)

(たぶん、今、踏み込んではいけない場所に踏み込んだのでは?)

宗湛が、心の中で呟く。

(……失敗したかも)

宗室も、同じことを思っていた。

だが、同時に、胸の奥では、別の熱も燃えていた。

面白い。

怖い。

だが、面白い。

この女の懐に飛び込めば、博多では見たことのない商いが見える。

この女の帳簿の先にあるものを、自分の手で触れるかもしれない。

それは商人として、あまりに抗いがたい誘惑だった。

お市様は、そんな二人の顔を見て、にこにこと笑っていた。

「剛毅剛毅」

楽しそうに言う。

「博多の商人にも、かぶくやつはおるもんじゃな」

その言葉に、藤吉郎が深く頷いた。

「よい目です、姫様」

「そうじゃろう?」

「ただ」

「なんじゃ」

「ふたり、今、かなり引いております」

お市様は、宗室と宗湛の顔を覗き込んだ。

「そうか?」

二人は、慌てて首を振った。

「い、いえ!」

「ありがたき幸せにございます!」

「よろしい」

お市様は、満足して立ち上がった。

「では、まずは博多の染物からじゃな」

「鉄も見よ」

「銀もじゃ」

「南蛮も明も、朝鮮も、ぜんぶ見よ」

「わらわが使えると思ったら、次を任せる」

さらりと言う。

それがまた、怖い。

だがもう、二人には分かっていた。

ここで逃げれば、一生後悔する。

ここで飛び込めば、一生忙しい。

おそらく後者の方が、面白い。

そう思ってしまった時点で、もう狂犬に染まり始めているのだろう。

お市様は、そんな二人を見て、最後までにこにこしていた。

夏の風が、藍の裾を揺らした。

香椎宮の空は高く、蝉の声がうるさい。

そして今日もまた、狂犬の国に、二人の新しい直参が増えたのである。

祐筆桃の日記

弘治二年 文月二十日(西暦1556年7月20日)

博多会合衆の降伏文書は無事調印され、代表たちは帰っていった。

だが、島井宗室殿と神屋宗湛殿だけが残り、姫様の御用商人になりたいと願い出た。

姫様は大変ご機嫌で、二人を気に入り、その場で御用商人直参にした。

さらに、小遣いを預けるから倍にしろと命じた。

当然、また丸投げである。

二人とも、顔が引きつっていた。

だが同時に、嬉しそうでもあった。

博多の商人にも、思い切って狂犬の懐へ飛び込む者はいる。

良いことだと思う。

たぶん、忙しくなる。

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