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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第395話 藍の町娘、博多を買う

西暦1556年7月20日(弘治二年・文月二十日ごろ)

筑前国 香椎宮 本宮本陣

午後の香椎宮は、じっとりと暑かった。

海から吹く風はある。

だが、夏の湿気をはらんだ風で、涼しいとは言い難い。

蝉の声が木立の上から降ってきて、本陣の白砂に揺れる陽炎が、いっそう人の気を散らした。

そんな午後、香椎宮本宮の本陣へ、博多会合衆の代表がやって来た。

先頭に立つのは、島井宗信。

そして、神屋紹策。

二人だけではない。

今日はその後ろに、博多会合衆の有力者たちがぞろりと従っていた。

博多の町を支えてきた商人たちが、自ら頭を下げに来たのである。

その時点で、勝負はついていた。

立花山は飢え。

村々は消え。

職人と船乗りは流れ。

博多の町そのものが、じわじわと空洞になり始めている。

商人は銭に敏い。

だからこそ、最後に頭を下げる時期も早い。

だが、香椎宮本陣に入った彼らは、そこで思わず足を止めた。

「……」

誰も、すぐには口を開けなかった。

家臣団も、同じだった。

理由は、ひとつ。

その場に座っていた狂犬お市様の姿が、あまりにも予想外だったからである。

午前中まで、あれほど黒衣だの狂犬ブラックだの、戦場の姫様らしい格好をしていたのに、今日は早着替えだった。

身にまとっているのは、藍色の狂犬織。

そこに、しっとりとした紫の帯。

化粧も違う。

いつもの、戦場で人を威圧するような華やかな化粧ではない。

頬も唇も少しやわらかく、目元もきつすぎず、どこか親しみやすい。

まるで――

町娘。

そう見えた。

しかも、その町娘が、世界一の美貌を持っているのだから、破壊力がひどい。

家臣団は、思わずぽかんと口を開けていた。

彼らですら、こんな格好のお市様を見るのは初めてだった。

博多商人たちも、しばし固まった。

お市様は、その全員の顔をぐるりと眺めてから、くすりと笑った。

「罪なおなごですまぬの」

その第一声で、慶次が危うく吹き出しそうになる。

お市様は、いつも通りだった。

「普通の娘でも可愛かろう」

少し帯を整える。

「世界一の美女じゃ」

そして、楽しそうに顎を上げる。

「ゆるせ」

本陣の空気が、そこでようやく動いた。

島井宗信が、ひとつ深呼吸をして前へ進む。

そして、深々と頭を下げた。

「博多会合衆は」

声に、もう迷いはなかった。

「狂犬お市様に従います」

神屋紹策も、同じように頭を下げる。

「何なりと、お申しつけください」

全面降伏だった。

誰の目にも、それは明らかだった。

お市様は、にやにやと笑っている。

勝った時ほど、すぐには褒めぬ。

すぐには受け入れぬ。

必ず、その先を見せる。

狂犬お市のいつものやり方である。

「うむ」

それだけ言って、少しだけ自分の袖をつまんだ。

「わらわが着ているのは、狂犬織じゃ」

博多商人たちが、自然とその藍の布を見る。

上質で、艶がある。

肌触りまで良さそうだった。

お市様は続けた。

「博多は、韓布は輸入しとるかの」

島井がすぐに答える。

「しております」

「鉄も」

「はい」

「明から陶磁器も」

「はい」

お市様は、満足そうに頷いた。

「そうじゃろうの」

そして、少し前へ身を乗り出す。

「韓布は上質じゃ」

「じゃが、朝鮮は染物が弱い」

その一言で、商人たちの目つきが変わった。

この姫は、どこを見ているのか。

何を考えているのか。

それを知った時の商人の顔である。

お市様は、ゆっくり言った。

「ならば」

「博多で染めたらよい」

沈黙。

だが、その沈黙は理解の沈黙だった。

「明に売る」

「南蛮に売る」

「朝鮮から鉄の石を輸入したら、どうする?」

神屋紹策が、思わず口を開きかける。

だが答えが追いつく前に、お市様が言った。

「溶かす。」

「鍛冶で、製品になる前の鉄まで仕上げる」

「そこからさらに売る」

言葉が、商人たちの胸へひとつひとつ落ちていく。

「加工し」

「生産し」

「輸出し」

「銀を蓄える」

島井宗信の喉が鳴る。

お市様は止まらなかった。

「銀は銀のまま売るな」

「宝飾品にせよ」

「西洋食器に加工せよ」

「南蛮は、銀の値段より高く買う」

そこまで言って、少しだけ笑う。

「当たり前じゃ。加工しておるのじゃから」

本陣に、静かな熱が生まれ始めていた。

元就が、また髭をしごく。

その横で、藤吉郎はすでに顔つきが変わっている。

狂犬家臣団の者たちには分かっていた。

姫様は今、博多商人を叱っているのではない。

次の商売の骨組みを見せているのだ。

お市様は、そのまま声を低くした。

「民は」

「子供を売らなくてすむ」

「仕事があるのじゃから」

その言葉に、商人たちの顔が少しだけ曇る。

お市様は見逃さなかった。

「分かるじゃろ?」

「そちたちは、人身売買をしていなくとも」

一拍置く。

「間接的には、しておる」

その一言は、重かった。

誰も口を開かない。

島井も神屋も、博多の商いがどこで銭を生み、どこで誰が削られているか、知らぬわけではない。

だが、それを真正面から言い切る者は少ない。

お市様は、静かに続けた。

「悪いことは言わぬ」

「仕方ないと、思うな」

その目が、まっすぐ商人たちを射抜いた。

「なんとかするのが」

「力ある者の勤めじゃ」

その場にいた誰もが、息を呑んだ。

戦場で刀を振るうだけが力ではない。

商いを動かすこと。

人を飢えさせぬこと。

子を売らせぬこと。

それもまた、力なのだと。

お市様は、にたりと笑う。

さっきまでの町娘みたいな顔が、ほんの少しだけ狂犬の顔に戻った。

「分かったら」

軽く指を振る。

「わらわについてこい」

そして、きっぱり言った。

「さらに稼がせてやるぞ」

その瞬間だった。

博多商人たちの目の色が変わった。

恐れだけではない。

屈服だけでもない。

欲が灯った。

それでよかった。

お市様は、それを見ていた。

恐れだけで従う者は、長く使えない。

だが、欲を持ってついてくる者は、よく働く。

島井宗信が、深く頭を下げた。

「……承知いたしました」

神屋紹策も、遅れて頭を下げる。

「博多、作り変えます」

後ろの商人たちも、次々に続いた。

お市様は、その様子を見て満足そうに頷いた。

「うむ」

横では、狂犬家臣団が静かにその場を見守っていた。

誰も笑わない。

誰も茶々を入れない。

今、目の前で起きているのは、城一つ落ちるより重いことだと分かっていたからだ。

元就は、髭をしごきながら考えていた。

悪辣。

確かにそうだ。

人を動かし、町を削り、追い込み、最後に降らせる。

それだけ見れば、間違いなく悪辣である。

だが。

その先に置いているものは、慈悲だ。

飢えぬ国。

売られぬ子。

捨てられぬ老人。

仕事のある町。

元就は、心の中でだけ呟いた。

(やはり)

(閻魔と菩薩が、同居しておる)

そして、少しだけ苦く笑う。

(わしでも、やらぬ)

香椎宮の夏の風が、藍色の袖を揺らした。

お市様は、その風の中で、博多商人たちを見下ろしていた。

町娘のような格好をしていても、やはりそこにいるのは狂犬お市である。

町を殺すのではない。

町を作り変える。

そのために、いったん壊す。

そして、自分の手で組み替える。

それが、この女のやり方だった。

祐筆桃の日記

弘治二年 文月二十日(西暦1556年7月20日)

午後、博多会合衆の代表、島井宗信殿と神屋紹策殿が、複数の商人を引き連れて香椎宮本陣へ来た。

姫様は、藍色の狂犬織に紫の帯、町娘のような化粧で現れた。

家臣団も博多商人も、しばらくぽかんとしていた。

博多会合衆は全面降伏。

だが姫様は、ただ降伏を受け入れるのではなく、韓布の染め直し、鉄石の加工、銀の高付加価値化まで話し、博多を新しい産業の受け皿に作り変える道を示した。

しかも最後は「ついてこい、さらに稼がせてやるぞ」で締めた。

商人には、たぶんこれが一番効く。

悪辣であり、慈悲でもある。

やはり姫様は、普通の大名ではない。

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