第394話 笑う姫、沈む筑前、そして次の海
西暦1556年7月20日(弘治二年・文月二十日ごろ)
筑前国 香椎宮 本陣
その朝、狂犬お市様はやけに機嫌がよかった。
香椎宮の広縁に座り、届いたばかりの手紙を読みながら、朝から何度も笑っている。
兵たちは、ああ今日は姫様がご機嫌な日だな、とすぐに分かった。ご機嫌な日の姫様は、だいたい誰かの運命が大きく動く日でもある。
「兄上、やりおったのう」
お市様は、楽しげに手紙をひらひらさせた。
その差出人は、言うまでもなく織田信長である。
「何と書いてあるのです?」
桃が筆を整えながら尋ねると、お市様は声を弾ませて読み上げた。
「“大村、有馬を従属させたった!”」
慶次が、すでに笑いを堪えている。
お市様はそのまま続けた。
「“大村、有馬はローマに行き宣教師になるらしい!”」
権六が、真顔のまま一度だけ瞬きをした。
「“世の中は革新に満ち溢れている!”」
元就が、ゆっくり髭をしごく。
「“俺の青春の織田艦隊は、止まらない!”」
そこで慶次が、とうとう吹き出した。
「青春て」
お市様も、けらけらと笑う。
「兄上らしいのう」
すぐ横には、もう一通、別の手紙が置かれていた。
今度は帰蝶様からである。
お市様は、そちらも丁寧に開いた。
文字は端正で、落ち着いていて、読みやすい。信長の手紙とは、あらゆる意味で正反対だった。
「“妹お市へ。旦那はアレであるから、勘弁してね”……くくっ」
お市様が肩を震わせる。
「姉上は、よう分かっておるの」
本陣にいた狂犬家臣団の面々も、つい遠い目になった。
織田家臣団に、深い同情が湧く。
森可成。
丹羽長秀。
そのほか、信長という嵐に毎日晒されている家臣たち。
慶次が空を見上げた。
「気の毒にのう」
権六も、真顔で頷く。
「帰蝶様がおらねば、今ごろ海の上で全員泣いております」
そのやり取りを聞きながら、元就だけは少し呆れた顔で髭を撫でていた。
「……常識はないのか」
「爺」
お市様が笑う。
「兄上に、常識を求めるな」
「それもそうか」
元就は、あっさり引き下がった。
その時、外から足音がした。
桃が顔を上げる。
兵が平伏して告げた。
「申し上げます! 高橋鑑種殿、藤吉郎殿とともに参陣!」
本陣の空気が、すっと変わる。
お市様の目も、すぐに仕事の顔になった。
「通せ」
しばらくして、藤吉郎が、いつもの軽い足取りで入ってくる。
その後ろに、高橋鑑種がいた。
痩せたわけではない。
だが、追い詰められた者の顔だった。
大友から離れ、秋月が落ち、雷神戸次鑑連が南から迫る。
西からは景虎が港を削り、東ではお市が人と商いを根こそぎ奪っていく。
盤面は、もう詰んでいた。
高橋鑑種は、深く頭を下げた。
「……高橋鑑種、参上仕りました」
藤吉郎が、横でにやりと笑う。
「姫様、高橋殿、分かっておられました」
「分からねば、ここへ来ぬ」
お市様は、あっさりと言う。
高橋は、おそらく本領安堵を願って来た。
これまでの戦国なら、それが普通だった。
だが、お市様は、その一歩先を行く。
「高橋」
「はっ」
「お主、本領安堵を望むか」
鑑種が、わずかに顔を上げた。
「……望まぬと言えば、嘘になります」
「正直でよい」
お市様は、ふっと笑った。
「じゃが、それでは足りぬ」
高橋の表情が止まる。
お市様は、まっすぐに言った。
「本領分の銭で、お主をわらわの直参にする。」
一瞬、時が止まった。
高橋だけでなく、周囲の家臣団まで、一拍遅れてその言葉を呑み込む。
直参。
しかも、本領そのものではなく、本領分の銭で。
これは、土地をただ守らせるのではない。
その力と働きそのものを、狂犬お市が直接買い上げるということだ。
高橋の目が揺れた。
「……直参」
「そうじゃ」
「この高橋を……」
「雇う」
あまりにも簡単に、お市様は言った。
「戦の際は、先鋒を任せる」
その一言に、高橋鑑種の胸に、一気に血が通う。
本領を守るだけではない。
戦う場所を与えられる。
名を立てる場所を与えられる。
しかも、狂犬お市の直参。
それは、追い詰められた武将にとっては、ほとんど救いだった。
高橋は、深く深く頭を下げた。
「……ありがたき幸せ」
声が、震えている。
本気だった。
だが、その様子を見ていた狂犬家臣団の面々は、別の意味でちょっと困っていた。
――先鋒?
誰も口には出さない。
だが思っていた。
お市様が最前線に立つのに、先鋒とは何だ。
慶次が、必死に口元を押さえている。
権六は、真顔を崩さぬまま、少しだけ肩を震わせた。
桃も筆を動かしながら、内心では高橋に同情していた。
元就は、そのあたりを全部飲み込んだ上で、また髭をしごいた。
「……悪辣じゃの」
「慈悲じゃ」
「両方じゃ」
お市様は、にやりと笑う。
高橋は、まだその境地に気づいていない。
ただ感動し、平伏していた。
藤吉郎が、その横顔を見て、少しだけ肩をすくめる。
「高橋殿、うちの姫様は、雇うと言っても普通の雇い主ではありませぬぞ」
「承知の上にございます」
「そうですか」
「はい」
藤吉郎は、それ以上何も言わなかった。
この男も、結局は姫様に拾われた側だ。
拾われる側の気持ちは、よく分かる。
本陣の外では、蝉が鳴き始めていた。
筑前は、もう落ちたも同然だった。
立花山は動かない。
いや、動けない。
人は消え、食い物は尽き、山の中でただ腹を空かせている。
もはや、戦というより、終わりを待っているだけに近い。
桃が、新しい書付を差し出した。
「姫様」
「なんじゃ」
「本日午後。博多商人会合衆、降伏のご挨拶に参るとのこと」
お市様は、ふうん、と小さく返した。
驚きはない。
想定の内だ。
立花山が死に、博多が膝をつく。
そこまで見えていたからこそ、お市様は先に高橋を拾い、次の手を打っている。
お市様は、立ち上がって海の方を向いた。
遠くに、夏の光を跳ね返す海が見える。
その先にあるもの。
その先で組み替わる流れ。
その先でまだ動く港。
お市様の目は、もう筑前の後ろを見ていた。
「……次じゃの」
誰にともなく、そう呟く。
高橋を拾った。
立花は終わり。
博多は午後に頭を下げる。
なら、その次はどこか。
香椎宮の風が、黒髪を揺らした。
狂犬お市様は、海を睨んだまま、静かに笑っていた。
祐筆桃の日記
弘治二年 文月二十日(西暦1556年7月20日)
本日、姫様は朝から大変ご機嫌だった。
兄上信長様から、大村と有馬を従属させたとの手紙が届いたためである。内容は相変わらずよく分からなかったが、勢いだけはあった。
帰蝶様からも「旦那はアレであるから」と、とても優しい手紙が届いていた。
全面的に同意する。
高橋鑑種殿が、藤吉郎殿の調略に応じて来陣。
本領安堵かと思いきや、姫様は「本領分の銭で直参にする」と言い、さらに先鋒を任せると仰せになった。
高橋殿は感動していたが、狂犬家臣団は少し同情していた。
姫様の前で先鋒とは、たぶん普通の意味ではない。
筑前は、ほぼ落ちた。
立花山は飢えて動けず、午後には博多商人が降伏の挨拶に来る。
姫様は、もう次の海を見ていた。




