第392話 革新という名の握手、そして五郎左の胃袋
西暦1556年7月15日(弘治二年・文月十五日ごろ)
肥前国 大村領 玖島城・今富城・好武城周辺
戦国の海を、派手な帆で切り裂く織田船団。
その動きは、もはや「早い」という言葉では足りなかった。
――速すぎる。
そう評するしかない。
信長様は、有言実行の塊である。
思いついたらやる。
やると言ったらやる。
しかも、その速度が常軌を逸している。
「まさか、ここまでとは……」
と、誰もが思う間もなかった。
大村への上陸は、静かだった。
だがその夜。
信長様は、いきなり動いた。
「行くぞ」
その一言だけである。
織田の兵は、夜の海を渡り、闇に紛れて上陸。
そのまま一気に、玖島城へ。
見張りは気づいた時には遅かった。
門が開く前に、内側から崩れる。
森可成が先陣を切り、
「開けぇ!」と叫ぶより早く、門が割れ、火が上がり、城は落ちた。
一夜である。
翌日。
信長様は、何事もなかったかのように言った。
「次だ」
今度は北上。
今富城。
これもまた、速かった。
敵が「玖島が落ちた」と理解した時には、すでに織田軍は城下に現れている。
包囲、突撃、崩壊。
――落城。
間を置かない。
そして今。
織田軍は、好武城を囲んでいた。
城主、大村純忠。
その男は、すでに戦う気を失っていた。
あまりにも早すぎる。
あまりにも理解が追いつかない。
夜に一つ城が落ち、
翌日にもう一つ落ち、
次には自分の城が囲まれている。
これを「戦」と呼んでいいのかすら分からなかった。
城内の空気は重い。
だが、その中で純忠は、決断した。
「……開く」
門を。
降伏である。
好武城の門が、ゆっくりと開いた。
その先に立つのは――
狂犬ではない。
だが、別種の化け物。
織田信長。
純忠は、進み出て膝をついた。
「……降伏、いたします」
信長様は、それを見て、満足そうに頷いた。
「うむ」
軽い。
あまりにも軽い。
だが、そこからの言葉は、さらに予想外だった。
「有馬を誘え」
純忠が、顔を上げる。
「……は?」
信長様は、当然のように言った。
「お主ら、キリスト教仲間であろう」
純忠の目が見開かれる。
信長様は、妙に優しい顔で続けた。
「仲間は大切にせよ」
帰蝶様の額が、ぴくりと引きつる。
信長様はさらに踏み込んだ。
「分かるぞ」
ぐっと拳を握る。
「世を革新したいのじゃな?」
その一言で――
純忠の中の何かが弾けた。
「……はい!」
声が震える。
だが、それは恐れではない。
「革新でございます!」
目に涙が浮かぶ。
「世をデウスの天国に!」
周囲の家臣がざわつく。
「私は――」
純忠は、拳を握りしめた。
「ローマに行きたい!」
静寂。
織田家臣団の何人かが、空を見た。
長秀は、すでに嫌な予感しかしない顔をしている。
だが――
信長様は、深く頷いた。
「うむ」
完全に理解した顔である。
「分かるぞ!」
純忠の目がさらに輝く。
「革新じゃな!」
「はい!」
「俺も、日々革新に努めておる!」
二人の間に、妙な一体感が生まれる。
森可成が、小声で言う。
「……分かり合っておる」
長秀は、こめかみを押さえた。
(なぜだ)
純忠は、涙を流しながら言った。
「有馬、必ず誘いまする!」
「うむ!」
「ローマに行きます!」
「よい!」
「革新を!」
「革新じゃ!」
そして――
がしり、と。
二人は固く握手を交わした。
涙と笑顔の、謎の同盟成立である。
帰蝶様は、完全に表情を管理していた。
だが、その目は語っている。
(何を言っているのですか、この人たちは)
一歩前に出る。
そして、いつものように翻訳した。
「……いいですか」
家臣団が一斉に姿勢を正す。
「殿は、あれです」
もう誰も驚かない。
「ですが、要点は簡単です」
帰蝶様は、冷静に続けた。
「大村家は降伏し、織田に従属」
「有馬家も同様に取り込む方針」
「宗教は黙認」
「交易路と港の確保」
「以上です」
完璧な翻訳だった。
森可成が深く頷く。
「分かりやすい」
長秀は、心の底から同意した。
(本当に助かる)
だが、その直後だった。
信長様が、くるりと振り向いた。
「五郎叉!」
嫌な予感が的中する。
長秀が、静かに答える。
「はっ」
信長様は、にやりと笑った。
「大村を任せた!」
――出た。
丸投げである。
長秀は、一瞬だけ天を仰いだ。
そのまま、静かに頭を下げる。
「……承知いたしました」
内心では、完全に別のことを思っていた。
(またか)
胃が、きりきりと痛む。
だが、それでもやるしかない。
城の管理。
兵の配置。
民の統制。
港の整備。
交易の設計。
宗教の扱い。
全部である。
帰蝶様が、ちらりと長秀を見る。
「大丈夫ですか」
「……慣れております」
「そうですか」
「……はい」
その声は、少しだけ遠かった。
信長様は、すでに次を見ている。
海の向こう。
さらにその先。
風は止まらない。
だが、その風に振り回されながらも、確実に形を作っていく者たちがいる。
それが、織田家だった。
祐筆桃の日記
弘治二年 文月十五日(西暦1556年7月15日)
信長様、大村に上陸後、玖島城を夜襲で落とし、翌日に今富城を落とし、現在好武城を包囲。
あまりに早すぎる。
大村純忠殿は降伏。
しかしその後が意味不明だった。
信長様が「革新」を語り、純忠殿が「ローマに行きたい」と泣き、二人で握手していた。
帰蝶様がすべて翻訳してくれたので、ようやく理解できた。
大村は織田の配下となり、有馬も取り込む方針とのこと。
その後、丹羽長秀殿に丸投げ。
長秀殿は、顔色が悪かった。
胃が痛いらしい。
だが誰も助けない。
それが織田家である。




