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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第392話 風を読んで走るうつけ、錨を下ろす帰蝶

西暦1556年7月12日(弘治二年・文月十二日ごろ)

肥前国沖―平戸・五島・九十九島方面

連合に加わった戦国大名たちは、皆ひとつのことだけは深く骨身にしみて理解していた。

――狂犬お市様の近くで何が起きているかを、誰より早く知れ。

それが、生き残るために必要な知恵だった。

お市様は、思いついたら即やる。

やるだけでなく、人も銭も船も仕様書も動かす。

昨日まで空き地だった場所が、今日は町割りされ、三日後には家が建ち、七日後には商いが始まっている。そんな女を相手にする以上、情報で遅れたら、その瞬間に一手も二手も置いていかれる。

だから景虎姉上は、お市様の側で常に情報を拾い、自らの頭で咀嚼しながら、越後へ手紙を飛ばしていた。

元就も同じだ。

髭をしごき、目を細め、お市様の言葉の先を読み、本国の隆景や元春に、治水だの港だの農政だの、いかにも地味だが後々効く指示を出し続けていた。

北条は北条で、風魔小次郎が毎日のように手紙を送っている。

武田は武田で、真理姫が嬉々として報せを書き、甲斐へ飛ばしていた。

皆、狂犬の側の情報を拾う。

皆、狂犬の一手先を読みたがる。

だが、その中でひとりだけ――

いや、ひと組だけ、明らかに読み方が違う者たちがいた。

織田家である。

正確に言えば、信長兄上と帰蝶様だった。

信長様は、常人とは違う。

もはやこれは家臣団の共通認識であり、織田家の一種の自然災害でもあった。

戦国の天災。

音速の中二病。

うつけを極めた革新の塊。

それが織田信長である。

連合の法が定められた時、諸将の多くは「誰と手を組み、どこまでが味方で、どこからが敵か」を読んだ。

だが信長様が最初に読んだのは、そこではなかった。

「連合以外は切り取り次第」

その一文を、誰よりまっすぐに、誰より勝手に、誰より大胆に解釈したのである。

尾張はすでに、妹――狂犬お市様のやり方を見て、かなり変わっていた。

税は軽く。

農は厚く。

商いは広く。

人は増やし。

兵站は切らさず。

信長様は、「面白い」と思ったものは真似るのが早い。

そして、真似るだけで終わらず、必ずどこか自分流に捻じ曲げる。

尾張の政は、丹羽長秀に丸投げされた。

いつものことである。

「五郎叉、任せた」

その一言で、丹羽長秀は尾張の商業も農業も、ほぼ一人で回すことになった。

米。

塩。

布。

鍛冶。

港。

街道。

「狂犬堂を真似よ」

信長様はそう言ったが、真似る方はたまったものではない。

長秀は昼も夜もなく帳面を抱え、蔵を回り、町人をなだめ、百姓に説明し、職人に銭を出し、時に自分で土を踏んだ。

その苦労の甲斐あって、尾張はじわじわ豊かになっていった。

だが、信長様はそこで満足しない。

「船を作るぞ」

そう言ったかと思えば、狂犬堂に借金して、カラベル十隻、キャラック十隻を造らせた。

しかも、ただの船ではない。

帆が派手だった。

とにかく派手だった。

赤。

黒。

金。

紫。

白地に大胆な紋。

海に出たら遠目にも「何か変なものが来た」と分かるくらい、派手である。

丹羽長秀は、造船費の帳面を見て天を仰いだ。

「殿……」

「なんだ、五郎叉」

「なぜ、帆をそのような色に」

「決まっておろう」

信長様は、当然のように言った。

「かっこよいからだ」

長秀は、もはや何も言えなかった。

だが、その派手な船団は、実際に強かった。

帰蝶様を伴い、信長様は平戸を平定し、そこから五島列島をぶち抜いた。

島を押さえ、港を確保し、物資の流れを奪う。

そして、その勢いのまま九十九島を抜け、佐世保を押さえ、大村へ迫ろうとしていた。

海の上の織田軍は、陸の織田軍とは少し違う。

軽く、速く、派手で、そして妙に勢いがある。

その先鋒に立つのが、森可成だった。

織田家臣団きっての先鋒。

攻めの三叉。

突っ込んで、斬って、また突っ込む。

海に出ても、その性格は変わらない。

その横で、なんでも丸投げされる男、米五郎左こと丹羽長秀が、胃を痛めながら船団の進路と補給と帳面を見ていた。

風の強い日だった。

派手な帆が、大きく膨らんでいた。

船腹は波を切り、甲板には織田の旗がひるがえる。

その先頭の船の舳先で、信長様は両腕を広げていた。

「五郎叉!」

船団中に響く声である。

長秀が、またかという顔で見上げる。

「はっ」

信長様は、海風に髪をなびかせながら、目をきらきらさせて叫んだ。

「風が俺を呼んでいる!」

家臣団が、一斉に静かになる。

森可成は、いつものことだという顔だ。

だが新しく海軍に組み込まれた者たちは、「また始まった」と目をそらしている。

信長様はなおも続ける。

「わが青春の織田船団よ!」

長秀のこめかみがぴくりと動く。

「ここも俺の海だ!」

海である。

誰の海でもない。

だが信長様は本気でそう思っていた。

「自由の海をゆくのだ!」

「……」

「戦友よ! 俺とともに進め!」

森可成が、なぜか少し嬉しそうに槍を掲げる。

「世を革新するぞ!」

沈黙。

風だけが、帆を鳴らしている。

そのままでは家臣団が固まったままで終わるので、ここで動くのが帰蝶様だった。

帰蝶様は、もう完全に慣れていた。

信長様の横に立ち、軽く息を吐く。

それから、戦国の言葉に翻訳した。

「いいですか」

声はよく通る。

家臣たちの顔が一斉に向く。

「殿は、あれです」

一瞬、空気が緩む。

長秀が、内心で深く頷く。

それ以上でも以下でもない。

あれ、なのである。

帰蝶様は、きっぱりと言った。

「ですから、家臣団がしっかりするのです」

森可成が背筋を伸ばす。

長秀は、はいはいという顔で帳面を閉じる。

水夫たちも、妙に納得して頷いている。

帰蝶様は、さらに続けた。

「私が、殿の錨です」

その言葉に、何人かが顔を上げた。

帰蝶様は、にこりともせず言う。

「心配しないで、よいですね」

「「はっ!」」

今度は、返事が揃った。

そう。

信長様は風である。

止まらぬ。

読めぬ。

急に向きを変える。

だが、その風を海でひっくり返らせずに済んでいるのは、帰蝶様がいるからだった。

さすが、マムシ道三の娘である。

腹が据わっている。

頭が回る。

そして、肝心なところで夫を一番上手く扱う。

信長様は、そんな帰蝶様をちらりと見て、満足そうに笑った。

「さすが帰蝶」

帰蝶様は即答した。

「はいはい。ですから、殿はそのまま立っていてください。落ちないでください」

「落ちぬ」

「本当にですか」

「たぶん」

「殿」

「なんだ」

「それでは困ります」

長秀が、横で小さく笑う。

帰蝶様のこういう所に、どれだけ家臣団が助けられているか分からない。

船団は、なおも前へ進む。

平戸を越え、五島を押さえ、九十九島を抜け、佐世保を抑えたその先で、大村を狙う。

風を読み。

潮を見て。

港を奪い。

町を押さえる。

狂犬お市様が陸で町と人の流れを組み替えるなら、信長様は海で風と港を押さえている。

そしてそのどちらも、連合の一手だった。

遠く香椎宮では、お市様がまた畑を見ているかもしれない。

その時、信長様は海の上で腕を広げている。

似ているようで、少し違う。

違うようで、どこか同じ。

織田兄妹とは、そういう二人だった。

祐筆桃の日記

弘治二年 文月十二日(西暦1556年7月12日)

連合諸将は皆、お市様のそばの情報を誰より早く集めようとしている。

景虎様、元就殿、風魔小次郎殿、真理姫様、皆まめに手紙を飛ばしている。

その中で、信長様だけは少し違う。

連合以外は切り取り次第と、誰より勢いよく解釈し、尾張を軽税にし、丹羽長秀殿に丸投げし、自らは船を作って海へ出た。

しかも船の帆がやたら派手らしい。

平戸を平定し、五島を抜け、佐世保を押さえ、大村へ向かっているとのこと。

相変わらず早い。

そして案の定、信長様は海の上で訳の分からぬことを叫んでいたらしい。

それを帰蝶様が、戦国の言葉に翻訳して家臣団へ伝えていた。

「殿はあれです。家臣団がしっかりするのです。私が殿の錨です」

名言だと思う。

帰蝶様がいなければ、織田家はたぶんどこかで空へ飛んでいく。

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