第391話 博多を壊し、富の流れを変える姫
西暦1556年7月8日(弘治二年・文月八日ごろ)
筑前国 香椎宮 本陣
香椎宮の本陣は、その日だけ少し空気が違っていた。
戦の緊張ではない。
斬り合いの気配でもない。
もっと静かで、もっと重い――
金と国の話が始まる気配だった。
博多から、ついに来たのである。
博多商人会合衆の代表。
島井宗信と神屋紹策。
そしてその後ろには、若い二人。
島井宗室と神屋宗堪。
父の背を追うようにして、しかしどこか違う目をした若者たちだった。
本陣に通された四人は、一瞬だけ息を呑んだ。
鎧に身を固めた狂犬家臣団。
その中央。
狂犬ブラックの着物。
艶やかな化粧。
ぱっちりとした目。
戦中とは思えぬ姿で座る――
狂犬お市様。
島井は、汗を拭いながら頭を下げた。
「お初にお目にかかります」
神屋も続く。
「博多より参りました」
お市様は、軽く顎を引いた。
「うむ」
それだけだった。
だが、その一言で場の空気が締まる。
島井が、覚悟を決めたように口を開いた。
「本日は、お願いに参りました」
「申してみよ」
お市様は、まったく表情を変えない。
「……博多の、移民政策を」
一瞬、言葉が詰まる。
それでも、続けた。
「止めていただきたい」
本陣の空気が、ぴたりと止まる。
神屋が横から言葉を足した。
「このままでは、町が死にます」
島井が続ける。
「博多は、長く商いで栄えてきました」
「姫様も、これを壊すより――」
一瞬、言いよどむ。
それでも言った。
「税をお取りになった方が、よろしいのでは」
神屋がすぐに頭を下げる。
「納税、申し上げます」
その言葉に、家臣団の何人かがわずかに目を細めた。
――来たか。
誰もがそう思った。
これが、お市様の狙いだったのではないかと。
博多を追い込み、
移民を流し、
商人を揺らし、
そして最後に――
「税を払うから許してくれ」
と言わせる。
元就が、髭をしごきながら、静かに息を吐く。
(落ちたな)
そう思った、その時だった。
お市様は、あっさりと言った。
「税など、要らぬぞ?」
空気が、ひっくり返った。
島井も神屋も、一瞬理解できなかった。
「……は?」
お市様は、少しだけ首を傾げた。
「聞こえなんだか?」
「税は要らぬ」
その声は、静かだったが、はっきりしていた。
「わらわは、自前で稼いでおる」
家臣団の何人かが、内心で苦笑する。
出た。
お市様の理屈である。
お市様は、さらりと続けた。
「わらわの毎年の小遣い、百萬貫じゃ」
島井と神屋の顔が、引きつる。
「それで、税がいるのか?」
言い返せる者はいなかった。
だが、お市様の話は、そこでは終わらない。
「税ではない」
少しだけ声が低くなる。
「民の話じゃ」
その一言で、空気が変わった。
お市様は、ゆっくりと言葉を重ねる。
「わらわの両国の民は、税は取らぬ」
「水田一割、畑は無税」
「飢えぬようにする」
「売られぬようにする」
「捨てられぬようにする」
その目が、まっすぐ島井と神屋を射抜いた。
「そのために、国を作り替える」
「博多も、例外ではない」
島井の喉が、わずかに鳴る。
お市様は、そこで少し身を乗り出した。
「その方らに聞く」
「お主らは商人じゃな」
「筑前の民に、仕事を作っておるか?」
その問いは、鋭かった。
神屋が口を開こうとして、止まる。
お市様は続ける。
「筑前の民が作り、生産し、加工した品を」
「明や朝鮮や南蛮へ売り、銀や銭を持ち帰っておるか?」
沈黙。
それを見て、お市様はあっさり言った。
「違うの」
「お主らは」
指で机を軽く叩く。
「輸入代理」
「中間の卸売り」
「中継交易」
「瀬取り」
一つひとつ、言葉が落ちる。
「銀を外へ出す仕組みじゃ」
「日の本の富を、外へ流しておる」
島井の顔が、青くなる。
神屋は、拳を握っていた。
だが反論は出ない。
事実だったからだ。
その空気の中で、お市様は突然、紙束を取り出した。
「ほれ」
机に広げる。
「見よ」
それは、見慣れぬ帳面だった。
島井宗信の目が、釘付けになる。
神屋紹策も、思わず身を乗り出す。
「……これは」
お市様は、楽しそうに言った。
「わらわの帳簿じゃ」
「分かるかや?」
沈黙。
だが、後ろにいた若者二人が、同時に息を呑んだ。
宗室と宗堪である。
「……これ」
宗室が震える声で言う。
「貸しと借りが、分かれている」
宗堪が続く。
「……全て、繋がっている」
お市様は、にやりと笑った。
「そうじゃ」
「貸借対照表」
「複式簿記」
「富のありかが、すべて分かる」
島井と神屋は、ただ立ち尽くしていた。
だが、息子たちは違った。
目が、輝いている。
お市様は、それを見逃さなかった。
「分かる者は、分かるようじゃの」
そして、すっと身を引く。
「出直してこい」
「税は要らぬ」
「博多は作り変える」
その声は、冷たくもあり、どこか優しかった。
「博多は、新たな産業の受け皿になる」
「それだけじゃ」
そして最後に、静かに言った。
「ついてくる者だけ、救う」
「わらわは、慈悲のお市じゃからな」
一拍置く。
その目が、鋭くなる。
「ついてこぬなら」
「無限地獄を味わうがよい」
「狂犬お市が、相手してやろう」
沈黙。
島井宗信と神屋紹策は、震えていた。
商人として、初めて味わう敗北だった。
だが――
後ろの若者二人は、違った。
帳簿を見つめたまま、震えている。
恐怖ではない。
歓喜だった。
(これが、次の商いか)
狂犬家臣団は、その様子を黙って見ていた。
同情もある。
だが、それ以上に納得があった。
――姫様だからな。
元就だけは、じっと考え込んでいた。
髭をしごきながら、小さく呟く。
「……悪辣すぎる」
だが、すぐに続けた。
「それでいて、慈悲か」
誰にも聞こえぬ声で。
「閻魔と菩薩が、同居しておる」
そして、苦く笑った。
「わしでもやらぬ」
香椎宮の外では、また人が動いている。
戦は、まだ終わっていない。
だが、国の形は、もう決まり始めていた。
祐筆桃の日記
弘治二年 文月八日(西暦1556年7月8日)
本日、博多商人会合衆より島井宗信殿、神屋紹策殿が来陣。
納税を申し出て、移民政策の停止を願い出た。
姫様は「税はいらぬ」と一蹴。
民の話をし、博多を作り変えると断言した。
さらに、商人の仕組みを見抜き、「富を外へ流している」と指摘。
自らの帳簿(貸借対照表・複式簿記)を見せつけた。
島井殿と神屋殿は震えていたが、息子二人は帳簿を見て喜んでいた。
世代の違いが見えた気がする。
元就殿は「悪辣すぎて慈悲」と言っていた。
私も、そう思う。




