08.軽装で登山は良くないと思う
ユースケは自分の名前が通じると、それ以上は何も言わなくなってしまった。
突如現れた人間の名前が一人分わかったところで、何も状況は好転しない。
ナルミはどうすべきか考えるのだが、何も思い浮かばなかった。
しかしフォルテナはそうではなかったらしい。
いきなり交渉役を任されて初めこそは狼狽えてしまっていたが、今は落ち着きを取り戻している。
さすがは偉大なる王、グラヘルの娘である。
「父上、殺してしまいましょうか?」
ナルミは驚いてフォルテナを見た。
冗談なのか本気なのかわからないが、あまりにも短絡的過ぎだ。
呆気にとられたのは兄のリーベルも同じようだったが、彼はすぐに気を取り直して妹を宥め始めた。
「フォルテナ、短気は良くないよ。話を聞いて……もわからないな。そうだ、他の倒れている人にも話を聞いてみようよ」
「わかってる。もちろん冗談よ」
ナルミは安堵した。フォルテナならやりかねないのだから。
そんな自分の子どもたちの様子を見ていたグラヘルはふっと笑い、ようやくフォルテナに助け舟を出すことにしたらしい。
こんなときでも自分の子どもの成長を確認しているとは、呆れた男だと、ナルミは頭を抱えたくなった。
グラヘルはゆっくりと倒れている女性に近づいていき、腰を屈めた。
それを護衛の一人が咎める。
「陛下、何があるかわかりませんよ!」
「問題ない。何かあってもお前たちが守ってくれるのだろう?」
「そうですが、あなたという方は……」
彼もそれ以上は何も言わず、嘆息してはいるものの言われたとおりに何があっても守れるようにと構えた。
「お嬢ちゃん、俺の言っていることがわかるかい?」
グラヘルに声を掛けられた女性は四つん這いになっているのだが、彼女はグラヘルに顔を向けただけで何も答えない。というより苦しそうだった。
「まさか高山病か?」
グラヘルの言葉に辺りを見回せば、確かに突如現れた人間の誰もが苦しそうにしている。平気そうにしているのは目の前のユースケともう二人、グラヘルより少し背が低いくらいで、横幅はグラヘルより遥かに大きい小山のような大男と、唯一この中では年齢が上であると思われる、無精ひげを生やした無表情の男だけである。
ユースケも自分以外のほとんどの者が具合を悪くしていることに、今やっと気づいたらしく驚いたようにまた大声で騒ぎ始めた。
その大声で具合の悪い者たちが余計苦しんでいるのだが、当人はそれには気付かず、むしろそれとは別の何かに気付いた風で、突如更なる大声で叫び始めた。
さすがに堪らなくなったナルミはユースケに近づいていき、その口を鎧を纏った手で塞いだ。
ユースケは目をぱちくりと瞬かせているのだが、意図を察したらしく大きく頷いてみせる。
ナルミが手をどけると叫ぶことはやめたのだが、今度はなにやら考え込み始めた。
「父上、やっぱり殺しませんか?」
「抑えろ」
グラヘルはどうすべきか悩んでいるようだった。
この突如現れた病人の集団を助けるべきか放っておくべきか。少なくとも敵意を向けてこないなら、グラヘルを含めここにいる誰もが無暗に殺したりはしない。
だが助けるとなると話は違ってくる。言葉も通じない、どこから来たのかもわからない、こんな得体の知れない集団を助けることに賛同するものは少ないだろう。
「グラヘル様、助けてあげてもいいんじゃないですか? こんな若い女の子、じゃなくて男女を見殺しにするのは可哀想ですよ」
すでに警戒態勢を解いたオルクスが軽い調子で言った。
「貴様の目的は女であろうがっ! 陛下、なりませんぞ。こんな得体の知れない集団を助けるわけには」
オルクスを注意したのはグラヘルの護衛隊の中では一番の年長者であるドラズであった。小男であるが樽のような胴体に、丸太のように太い手足を生やしたような体つきで、関係ないが前髪から頭頂部にかけて髪がない。ナルミを除けばグラヘルに次ぐ武人である。
一同が話し合っている間に、ユースケは大男のところまで行っており、何かを相談しているようだった。
すると二人は頷き合って、倒れている女性を一人の肩に左右それぞれ一人、一人につき二人ずつ抱え始めた。
初めから助けは求めていないらしい。自分たちで何とかするということだろう。
だがそれは無理な話だ。
確かに高山病は高度を下げることにより緩和するが、ここは標高5000メートルの山であり、簡単に下りられるものではない。その上、この山にも“魔物”が存在する。病人を連れて歩き回るなど、自殺行為に等しい。
ナルミが心配していると、二人はすぐに戻ってきた。さっきとは表情が明らかに違う。
大男は今にも泣きだしそうな顔で、ユースケはどうやら怒っているようだった。
ユースケはグラヘルの下まで行くと、女性二人を優しく地面に寝かし、すぐさまグラヘルに詰め寄った。
何事かわからない大声で騒ぎ立てており、俄かに護衛隊の間に緊張が走る。
しかしグラヘルは下がるように手で合図した。ユースケの何を言っているかわからない言い分を聞くつもりだ。
ユースケは何やら一生懸命山頂の下の方を指差している。そしてそのあとにグラヘルを指差した。
ナルミはユースケが何を訴えているのか気になり、彼の指差す方向を見ると、そこにいた、というよりはあったのは先ほど戦闘になって討伐した“農牧の民”の戦士の死体である。
ユースケはその死体の山を一生懸命指差し、そのあとにグラヘルを指差しているのだ。
何を聞きたいかは一目瞭然だった。
『お前が殺したのか?』
もちろん嘘を吐く理由はなく、グラヘルは頷いた。
「こりゃあ面倒なことになったな」
オルクスが溜息を吐いて言った。
「何がだ? 彼奴は農牧の民の死体を見て激高しておる。つまりは奴らの仲間だということではないのか?」
ドラズが怒ったように訊くとオルクスはかぶりを振った。
「農牧の民なら俺たちに襲い掛かって来るか、すぐさま逃げ出すかだろ。あの髪が長い男、そもそも殺ったのが俺たちだってわかってねぇ。ということはだ、俺たちのことも農牧の民のことも知らないってことじゃねぇか」
「そんな馬鹿な……!」
ドラズの言うとおりこの大陸に住む者なら農牧の民とナルミたち“狩猟の民”が争い合っていることを当然知っている。
つまりそれを知らないということは、この大陸以外の場所から来たということになるだろう。
確かにあんな空間が歪んで人が現れる異能など、見たことがない。
本当に何者なのか、ナルミが不思議に思ってユースケを見ていると、彼はさんざん大声で何か叫んだ挙句、急に静かになるとゆっくりと腰を下ろし、拳を自分の正面に構えた。
見たことのない構えだが、何をしようとしているのかはわかる。グラヘルに戦いを挑むつもりなのだ。
ユースケからは静かな闘気が感じられた。
すぐさまグラヘルの護衛団が臨戦態勢に入った。
ドラズはグラヘルの前に立ち、ユースケからグラヘルを守る構えだ。
「お前たち、武器を下ろせ。この坊主は俺と一対一の闘いが望みらしい。どういうつもりかは知らんが面白ぇじゃねぇか」
グラヘルは嬉しそうだった。
グラヘルに決闘を申し込む者などまず存在しない。ナルミたちにとって彼は王であるし、農牧の民にとってはどんな卑怯な手を使ってでも討ち取りたい敵の総大将なのだ。
しかしグラヘルを闘わせるわけにはいかない。
「ダメ。私が闘う。万が一もある」
グラヘルやドラズに代わり、ナルミがユースケの前に立った。
王に万が一のことがあっては、というのは建前で、単にこの男に興味があったのだ。見たことのない異邦人であり、知らない言語を使い、見たことのない構えをとる。
手合わせすればもしかしたら何かがわかるかもしれない。
「そりゃ狡くないか?」
グラヘルが何か言っているがナルミはそれを無視し、漆黒の鎧を脱ぎ始めた。
拳と拳での語り合いに、鎧は不要だ。
ナルミが鎧をすべて外した時、ユースケは構えを解いていた。
驚いたようにナルミを見ており、謝罪するように頭を下げ、顔を上げるとかぶりを振る。
ユースケの言語は理解できないし、そもそも今彼は何もしゃべっていない。
でも何が言いたいかは分かった。
『女とは思わなかった。悪いが女とは闘えない』
ナルミはそれに対する答えとして、まずは自分を指差し言った。
「ナルミ」
ユースケは一回で聞き取れたようで、こちらを指差して「ナルミ?」と聞き返してくる。
ナルミは頷くと、今度はユースケを指差し「ユースケ」と言った。
ユースケも頷き、満足そうに自分を指差して「ユースケ」、ナルミを指差して「ナルミ」と言ってくる。
ナルミも同じことをし、にっこりと微笑んで見せた。
「うぉっ、ナルミが笑いやがったぞ!」
「あー、ナルミ、殺すなよ」
オルクスが驚き、グラヘルが変な忠告をしている。
二人とも失礼だなと思いつつも、ナルミは次の瞬間、右拳をユースケの顔面に叩き込んでいた。




