第9話 灰狼の夜
鐘が、乱打されていた。
村の入口が見えたとき、アルクとリーナは走っていた。夕暮れの空は暗い紫に沈み、柵の向こうで松明の火が慌ただしく揺れている。祈りの鐘ではない。叩きつけるような、不規則な警鐘だった。
「リーナ!」
柵の内側から、オットーが叫んだ。杖を握った手が震えている。
「早く入れ。門を閉める!」
二人が滑り込むと同時に、太い閂が下ろされた。リーナの肩が激しく上下している。籠の中の銀露草は、無事だった。
「北の森から来る。数は分からん。ヨルグたちが柵を固めておる」
「どのくらいで」
「半刻もない」
老人はアルクを睨んだ。
「お前は家にいろ。母親の傍で、戸を閉めて動くな。わしらの邪魔をするな」
アルクは頷いた。それが、最も合理的な行動だった。
家に戻ると、セレナが寝台の上で身を起こしていた。顔は蒼白だったが、目は静かだった。
「聞こえたわ。鐘が」
「母さん、寝てて」
「横になっていたら、余計に落ち着かないのよ」
リーナは戸に閂を渡し、窓の板戸を下ろした。それから、水桶を抱えて、炉の傍に座り込む。手が、まだ震えていた。
アルクは壁に背をつけ、目を閉じた。
視界が切り替わる。受動傍受。外の通信の揺らぎを、ひとつずつ拾う。村の北の森に、九つの信号があった。一定の間隔で、一斉に止まり、一斉に動く。十一秒。昼間に谷で見た一体と同じ周期が、九体分。群れではなく、ひとつの機械だ。
彼らは、扇状に広がっていた。北の柵に向かって、ゆっくりと。
柵の北側には、見張りが三人。視界には、人間の体温が小さな点で浮かんでいる。そのさらに外側に、もうひとつ、点があった。
小さい。熱が高い。動いている。
――子供?
アルクの心臓が、跳ねた。
点は、柵のすぐ外の見張り小屋に向かって、走っていた。両腕に何かを抱えている。形からすると、布の包み。食べ物かもしれない。
「ピップ」
声に出していた。リーナが顔を上げる。
「ピップが、北の外にいる」
「え?」
「見張り小屋の方へ、一人で。お父さんの夜食を運んでる」
リーナの顔から色が消えた。
アルクは戸を開けた。止める声が背後で聞こえたが、足は止まらなかった。脛が痛んだ。構わなかった。
北の柵は、松明の列で赤く照らされていた。ヨルグが、弓を構えて立っている。その周りに猟師が五人。全員が、森の暗がりを睨んでいる。
「ヨルグ!」
男が振り向いた。眉が吊り上がる。
「何をしている。戻れ!」
「北の外に、子供がいる。ピップだ。見張り小屋へ向かっている」
「馬鹿を言え。あの子は、母親と家に」
「いない。私には、見える」
「見える?」
ヨルグの顔に、露骨な疑いが浮かんだ。
「昨日から、お前の話は出来すぎている。今度は何を見たと言う。魔物を連れてきたのも、お前じゃないのか」
時間が、削られていく。アルクは歯を食いしばった。
そのとき、森の闇が動いた。
松明の光が届く限界に、灰色の影が浮かんだ。一つ、二つ。琥珀色の目が、揃って光る。瞳孔のない目が、十一秒ごとに、一斉に瞬いた。
「来た……」
猟師の一人が呻いた。弓が引き絞られる。放たれた矢が闇に消え、ガン、と乾いた音を立てた。弾かれた矢が地面に落ちる。
「装甲だ。通らん!」
「射ち続けろ!」
叫びが飛び交う。狼が、ゆっくりと距離を詰める。
ヨルグの手が、止まっていた。
アルクは気づいた。この男は、矢を番えたまま、一歩も動かない。唇が、震えながら動いている。
「同じだ」
かすれた声だった。
「あの夜と、同じ形だ。扇に広がって、囲んで、止まって、一斉に」
「ヨルグ」
「妻が、死んだ。息子もだ。夜、扉が破られて、俺は矢を持っていたのに、動けなかった。何もできなかった」
男の目は、アルクを見ていなかった。ずっと遠くの、過去の闇を見ていた。憎しみの底にあったものが、剥き出しになる。それは、恐怖と後悔だった。
「俺は、また」
その肩を、アルクは掴んだ。
「違う。今は違う。ピップが外にいる。あなたの助けが必要だ」
ヨルグの目が、焦点を結んだ。
その瞬間、背後で悲鳴が上がった。
「ピップ! ピップがいない!」
女の声だった。ピップの母親だ。髪を振り乱して駆けてくる。
「あの子、おとうさんの夕飯を持って出ていったの! 扉が開いてて!」
ヨルグの顔が歪む。小屋には、ピップの父が詰めているはずだった。その息子が、パンを抱えて、あの暗がりの中にいる。
柵の外で、小さな光が揺れた。ピップの持つ角灯だった。見張り小屋の戸口に立ち、彼は不思議そうに、闇を見つめている。
「帰って来いって、言えばいいのに!」
母親が叫ぶ。だが、距離がある。声は届かない。
その横を、風のように駆け抜けた影があった。
「リーナ!」
アルクの叫びが、夜に吸われた。彼女は柵の隙間に手をかけ、止める猟師の腕を振り払って、外へ飛び出した。栗色の髪が、松明の光に翻る。
「リーナ、戻れ!」
「ピップ! こっちに来て! 早く!」
その声に、少年が振り向いた。同時に、彼の背後、暗がりの奥で、琥珀色の目が一対、ゆっくり光った。
アルクの頭の中で、数字が回った。九体。装甲、矢は通らない。彼我の距離、四十メートル。リーナの足、ピップとの距離は十五メートル。到達時間。狼の速度。
計算結果は、はっきりしていた。
間に合わない。
ここで動かないのが、合理的だ。力を使えば、露出する。マザー・スフィアに、座標が知れる。数万年ぶりに戻る場所さえ、失うかもしれない。観察者として、ここで見ているだけでいい。
合理的な判断だった。
それなのに、足が、すでに地面を蹴っていた。
柵を越える。脛の傷が裂ける感覚があった。痛い。構わない。走る。自分の足音が、心臓の音と混ざる。
リーナがピップを抱き上げた。少年が目を見開く。背後に、灰色の影が迫る。
狼が、跳んだ。




