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堕天のアルケー  作者: 山本田38ページ
第1章 降肉
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第9話 灰狼の夜

 鐘が、乱打されていた。


 村の入口が見えたとき、アルクとリーナは走っていた。夕暮れの空は暗い紫に沈み、柵の向こうで松明の火が慌ただしく揺れている。祈りの鐘ではない。叩きつけるような、不規則な警鐘だった。


「リーナ!」


 柵の内側から、オットーが叫んだ。杖を握った手が震えている。


「早く入れ。門を閉める!」


 二人が滑り込むと同時に、太い閂が下ろされた。リーナの肩が激しく上下している。籠の中の銀露草は、無事だった。


「北の森から来る。数は分からん。ヨルグたちが柵を固めておる」


「どのくらいで」


「半刻もない」


 老人はアルクを睨んだ。


「お前は家にいろ。母親の傍で、戸を閉めて動くな。わしらの邪魔をするな」


 アルクは頷いた。それが、最も合理的な行動だった。


 家に戻ると、セレナが寝台の上で身を起こしていた。顔は蒼白だったが、目は静かだった。


「聞こえたわ。鐘が」


「母さん、寝てて」


「横になっていたら、余計に落ち着かないのよ」


 リーナは戸に閂を渡し、窓の板戸を下ろした。それから、水桶を抱えて、炉の傍に座り込む。手が、まだ震えていた。


 アルクは壁に背をつけ、目を閉じた。


 視界が切り替わる。受動傍受。外の通信の揺らぎを、ひとつずつ拾う。村の北の森に、九つの信号があった。一定の間隔で、一斉に止まり、一斉に動く。十一秒。昼間に谷で見た一体と同じ周期が、九体分。群れではなく、ひとつの機械だ。


 彼らは、扇状に広がっていた。北の柵に向かって、ゆっくりと。


 柵の北側には、見張りが三人。視界には、人間の体温が小さな点で浮かんでいる。そのさらに外側に、もうひとつ、点があった。


 小さい。熱が高い。動いている。


 ――子供?


 アルクの心臓が、跳ねた。


 点は、柵のすぐ外の見張り小屋に向かって、走っていた。両腕に何かを抱えている。形からすると、布の包み。食べ物かもしれない。


「ピップ」


 声に出していた。リーナが顔を上げる。


「ピップが、北の外にいる」


「え?」


「見張り小屋の方へ、一人で。お父さんの夜食を運んでる」


 リーナの顔から色が消えた。


 アルクは戸を開けた。止める声が背後で聞こえたが、足は止まらなかった。脛が痛んだ。構わなかった。


 北の柵は、松明の列で赤く照らされていた。ヨルグが、弓を構えて立っている。その周りに猟師が五人。全員が、森の暗がりを睨んでいる。


「ヨルグ!」


 男が振り向いた。眉が吊り上がる。


「何をしている。戻れ!」


「北の外に、子供がいる。ピップだ。見張り小屋へ向かっている」


「馬鹿を言え。あの子は、母親と家に」


「いない。私には、見える」


「見える?」


 ヨルグの顔に、露骨な疑いが浮かんだ。


「昨日から、お前の話は出来すぎている。今度は何を見たと言う。魔物を連れてきたのも、お前じゃないのか」


 時間が、削られていく。アルクは歯を食いしばった。


 そのとき、森の闇が動いた。


 松明の光が届く限界に、灰色の影が浮かんだ。一つ、二つ。琥珀色の目が、揃って光る。瞳孔のない目が、十一秒ごとに、一斉に瞬いた。


「来た……」


 猟師の一人が呻いた。弓が引き絞られる。放たれた矢が闇に消え、ガン、と乾いた音を立てた。弾かれた矢が地面に落ちる。


「装甲だ。通らん!」


「射ち続けろ!」


 叫びが飛び交う。狼が、ゆっくりと距離を詰める。


 ヨルグの手が、止まっていた。


 アルクは気づいた。この男は、矢を番えたまま、一歩も動かない。唇が、震えながら動いている。


「同じだ」


 かすれた声だった。


「あの夜と、同じ形だ。扇に広がって、囲んで、止まって、一斉に」


「ヨルグ」


「妻が、死んだ。息子もだ。夜、扉が破られて、俺は矢を持っていたのに、動けなかった。何もできなかった」


 男の目は、アルクを見ていなかった。ずっと遠くの、過去の闇を見ていた。憎しみの底にあったものが、剥き出しになる。それは、恐怖と後悔だった。


「俺は、また」


 その肩を、アルクは掴んだ。


「違う。今は違う。ピップが外にいる。あなたの助けが必要だ」


 ヨルグの目が、焦点を結んだ。


 その瞬間、背後で悲鳴が上がった。


「ピップ! ピップがいない!」


 女の声だった。ピップの母親だ。髪を振り乱して駆けてくる。


「あの子、おとうさんの夕飯を持って出ていったの! 扉が開いてて!」


 ヨルグの顔が歪む。小屋には、ピップの父が詰めているはずだった。その息子が、パンを抱えて、あの暗がりの中にいる。


 柵の外で、小さな光が揺れた。ピップの持つ角灯だった。見張り小屋の戸口に立ち、彼は不思議そうに、闇を見つめている。


「帰って来いって、言えばいいのに!」


 母親が叫ぶ。だが、距離がある。声は届かない。


 その横を、風のように駆け抜けた影があった。


「リーナ!」


 アルクの叫びが、夜に吸われた。彼女は柵の隙間に手をかけ、止める猟師の腕を振り払って、外へ飛び出した。栗色の髪が、松明の光に翻る。


「リーナ、戻れ!」


「ピップ! こっちに来て! 早く!」


 その声に、少年が振り向いた。同時に、彼の背後、暗がりの奥で、琥珀色の目が一対、ゆっくり光った。


 アルクの頭の中で、数字が回った。九体。装甲、矢は通らない。彼我の距離、四十メートル。リーナの足、ピップとの距離は十五メートル。到達時間。狼の速度。


 計算結果は、はっきりしていた。


 間に合わない。


 ここで動かないのが、合理的だ。力を使えば、露出する。マザー・スフィアに、座標が知れる。数万年ぶりに戻る場所さえ、失うかもしれない。観察者として、ここで見ているだけでいい。


 合理的な判断だった。


 それなのに、足が、すでに地面を蹴っていた。


 柵を越える。脛の傷が裂ける感覚があった。痛い。構わない。走る。自分の足音が、心臓の音と混ざる。


 リーナがピップを抱き上げた。少年が目を見開く。背後に、灰色の影が迫る。


 狼が、跳んだ。


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