第8話 灰の森の奥
「谷に、いたぞ」
三日目の朝、村の入口でオットーが言った。杖に体重を預けた老人の顔は、昨日より厳しかった。
「ヨルグが夜明け前に確かめてきた。足跡は、お前の言うとおりだった。歩幅が、定規で測ったように揃っておる」
「そうですか」
「お前の言葉は、一つだけ事実だったことになる。他は、まだ信じておらんがな」
老人は鼻を鳴らし、背を向けた。アルクの隣で、リーナがほっと息を吐いた。ほんの少しだけ、期限が長くなった気がした。
柵の向こうでは、ヨルグが数人の猟師と話し込んでいた。夜の見張りを増やす相談らしい。アルクと目が合うと、ヨルグは何も言わず、顔を背けた。
「行こう」
リーナは籠を背負い直した。銀露草の採取だ。母の薬は、あと三本で足りる。
二人は谷道を避け、北側の斜面から森へ入った。木々は深く、苔は厚い。リーナは慣れた足取りで進み、時々振り返って、アルクの歩みを確かめる。脛の傷は、まだ疼いた。しかし昨日より、足は動いた。
「その傷、治るの早いね」
「そうなのか」
「普通は、もう少しかかる」
彼女は首を傾げたが、深くは問わなかった。
三本の銀露草は、思ったより早く見つかった。岩陰の湿った場所に、銀色の葉が朝露を抱えている。リーナが丁寧に根ごと掘り上げ、籠に収めたとき、彼女は小さく息を吐いた。
「よかった。これで、一週間分」
「帰ろう」
「うん。……あ、でも」
リーナは何かを思い出したように、斜面の上を見た。
「ちょっと寄り道していい? すぐそこなの。村では、あまり言わないんだけど」
案内された先に、それはあった。
苔と蔦に覆われた、灰色の巨大な壁。いや、壁ではない。斜面に半ば埋まった、扉だった。高さは三メートル以上。表面は滑らかで、石ではない何かでできている。幾何学的な線が、幾重にも刻まれていた。
「『灰の口』。昔の人がそう呼んだの。近づくと、魔物に食われるって」
リーナの声は、少し硬かった。
「大人は誰も来ない。私も、ずっと遠くから見るだけだった」
アルクは、扉に歩み寄った。リーナが「ちょっと」と止めようとするのを、手で制する。
刻印に指を近づけた。触れない。視界に、解析結果が流れ込む。
古い。人類の文明よりも、はるかに古い。表面の線は、単なる装飾ではない。音声コマンドの周波数配列を、幾何学で表現したもの。魔法陣の原型だ。
彼の中で、ひとつの理解が繋がった。
魔法の詠唱とは、この線の読み上げなのだ。
「リーナ」
「なに」
「君の灯りの詠唱を、聞かせてくれないか」
「え? でも、あれは」
「頼む」
彼女は戸惑った顔をしたが、掌を上に向け、目を閉じた。低い声で、短い言葉を紡ぐ。古い言語の、意味の途切れた音の連なり。
掌の上に、小さな光が灯った。橙色。弱く、頼りなく、ちらつく。数秒で、ふっと消えた。
「……やっぱり、これが限界」
アルクの視界で、波形が重なる。リーナの詠唱の音声と、扉の刻印が示す元の配列。ほとんど一致している。ただ、一箇所だけ、末尾の音が短く切れていた。
「リーナ。最後の音を、伸ばしてみてくれ」
「最後? 『レイ』の?」
「そうだ。途切れさせず、息が尽きるまで」
「そんなの、教わってない」
「教えられたものが、欠けていたんだ」
彼女は目を丸くして、それから、ごくりと唾を飲んだ。もう一度、掌を上に向ける。呼吸を整え、詠唱を始める。
最後の音が、長く伸びた。
光が、咲いた。
橙ではない。透き通った、白に近い青。ちらつきはなく、掌の上で静かに、確かに輝いている。周囲の苔が、その光に照らされて緑に浮かんだ。
「……え」
リーナが、呆然と呟いた。
「うそ。消えない」
「消えていない」
「消えないよ、アルク!」
彼女は叫んだ。それから、堪えきれないように笑い出した。目に涙が浮かんでいる。両手で光を包んで、くるくると回った。
「ずっと、できなかったの。小さい頃からずっと。みんなが当たり前にできることが、私だけ。母さんみたいになれないって思ってた。でも、できた。できたよ!」
アルクは、その姿を見ていた。光に照らされたリーナの顔は、昨日までのどの表情とも違っていた。胸が熱い。誰かの喜びが、自分の中にまで流れ込んでくるのは、初めてだった。
――これが、教えるということか。
その瞬間だった。
視界の端で、HUDが表示を変えた。リーナの周囲の濃度。さっきまで三十一パーセントだったものが、二十八に落ちている。
彼の背筋が冷えた。
回路の効率が上がれば、受信できる量が増える。増えれば、吸い上げられる量も増える。セレナがそうだった。村で一番の使い手だった彼女が、最初に枯れた。
「リーナ」
「なあに」
「その詠唱は、今日はこれ一度きりにしてほしい」
光の中で、彼女の笑顔が止まった。
「どうして」
「理由は、まだ確かではない。ただ、使うほど君の身体に、負担がかかるかもしれない」
「……母さんみたいに?」
彼は黙った。答えが、肯定だった。
リーナは掌の光を見つめ、しばらく動かなかった。それから、ふっと、いたずらっぽく笑った。
「大丈夫よ。使いすぎなければいいんでしょう? 私は母さんほど強くないんだから、ちょうどいい」
「リーナ」
「約束する。気をつけるから」
彼女は光をそっと握り、消した。その仕草は、拍子抜けするほど軽かった。アルクは、自分の言葉が、彼女の喜びを少しも曇らせられなかったことに気づいた。
帰り道、日が傾き始めた。
木々の間から、遠くの空が赤く染まっていく。リーナは鼻歌を歌っていた。昨日の子守唄だった。
不意に、その歌が止まった。
「……ねえ」
遠くで、狼の声がした。一頭ではなかった。二つ、三つ、それ以上の声が、重なり合っている。しかも昨日より、ずっと近い。
アルクは足を止めた。数えていた。十一秒。次も十一秒。複数の声が、同じ間隔で、寸分の狂いもなく鳴っている。
「急ごう」
彼は、リーナの手首を掴んだ。今度は、自分から。




