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堕天のアルケー  作者: 山本田38ページ
第1章 降肉
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第8話 灰の森の奥

「谷に、いたぞ」


 三日目の朝、村の入口でオットーが言った。杖に体重を預けた老人の顔は、昨日より厳しかった。


「ヨルグが夜明け前に確かめてきた。足跡は、お前の言うとおりだった。歩幅が、定規で測ったように揃っておる」


「そうですか」


「お前の言葉は、一つだけ事実だったことになる。他は、まだ信じておらんがな」


 老人は鼻を鳴らし、背を向けた。アルクの隣で、リーナがほっと息を吐いた。ほんの少しだけ、期限が長くなった気がした。


 柵の向こうでは、ヨルグが数人の猟師と話し込んでいた。夜の見張りを増やす相談らしい。アルクと目が合うと、ヨルグは何も言わず、顔を背けた。


「行こう」


 リーナは籠を背負い直した。銀露草の採取だ。母の薬は、あと三本で足りる。


 二人は谷道を避け、北側の斜面から森へ入った。木々は深く、苔は厚い。リーナは慣れた足取りで進み、時々振り返って、アルクの歩みを確かめる。脛の傷は、まだ疼いた。しかし昨日より、足は動いた。


「その傷、治るの早いね」


「そうなのか」


「普通は、もう少しかかる」


 彼女は首を傾げたが、深くは問わなかった。


 三本の銀露草は、思ったより早く見つかった。岩陰の湿った場所に、銀色の葉が朝露を抱えている。リーナが丁寧に根ごと掘り上げ、籠に収めたとき、彼女は小さく息を吐いた。


「よかった。これで、一週間分」


「帰ろう」


「うん。……あ、でも」


 リーナは何かを思い出したように、斜面の上を見た。


「ちょっと寄り道していい? すぐそこなの。村では、あまり言わないんだけど」


 案内された先に、それはあった。


 苔と蔦に覆われた、灰色の巨大な壁。いや、壁ではない。斜面に半ば埋まった、扉だった。高さは三メートル以上。表面は滑らかで、石ではない何かでできている。幾何学的な線が、幾重にも刻まれていた。


「『灰の口』。昔の人がそう呼んだの。近づくと、魔物に食われるって」


 リーナの声は、少し硬かった。


「大人は誰も来ない。私も、ずっと遠くから見るだけだった」


 アルクは、扉に歩み寄った。リーナが「ちょっと」と止めようとするのを、手で制する。


 刻印に指を近づけた。触れない。視界に、解析結果が流れ込む。


 古い。人類の文明よりも、はるかに古い。表面の線は、単なる装飾ではない。音声コマンドの周波数配列を、幾何学で表現したもの。魔法陣の原型だ。


 彼の中で、ひとつの理解が繋がった。


 魔法の詠唱とは、この線の読み上げなのだ。


「リーナ」


「なに」


「君の灯りの詠唱を、聞かせてくれないか」


「え? でも、あれは」


「頼む」


 彼女は戸惑った顔をしたが、掌を上に向け、目を閉じた。低い声で、短い言葉を紡ぐ。古い言語の、意味の途切れた音の連なり。


 掌の上に、小さな光が灯った。橙色。弱く、頼りなく、ちらつく。数秒で、ふっと消えた。


「……やっぱり、これが限界」


 アルクの視界で、波形が重なる。リーナの詠唱の音声と、扉の刻印が示す元の配列。ほとんど一致している。ただ、一箇所だけ、末尾の音が短く切れていた。


「リーナ。最後の音を、伸ばしてみてくれ」


「最後? 『レイ』の?」


「そうだ。途切れさせず、息が尽きるまで」


「そんなの、教わってない」


「教えられたものが、欠けていたんだ」


 彼女は目を丸くして、それから、ごくりと唾を飲んだ。もう一度、掌を上に向ける。呼吸を整え、詠唱を始める。


 最後の音が、長く伸びた。


 光が、咲いた。


 橙ではない。透き通った、白に近い青。ちらつきはなく、掌の上で静かに、確かに輝いている。周囲の苔が、その光に照らされて緑に浮かんだ。


「……え」


 リーナが、呆然と呟いた。


「うそ。消えない」


「消えていない」


「消えないよ、アルク!」


 彼女は叫んだ。それから、堪えきれないように笑い出した。目に涙が浮かんでいる。両手で光を包んで、くるくると回った。


「ずっと、できなかったの。小さい頃からずっと。みんなが当たり前にできることが、私だけ。母さんみたいになれないって思ってた。でも、できた。できたよ!」


 アルクは、その姿を見ていた。光に照らされたリーナの顔は、昨日までのどの表情とも違っていた。胸が熱い。誰かの喜びが、自分の中にまで流れ込んでくるのは、初めてだった。


 ――これが、教えるということか。


 その瞬間だった。


 視界の端で、HUDが表示を変えた。リーナの周囲の濃度。さっきまで三十一パーセントだったものが、二十八に落ちている。


 彼の背筋が冷えた。


 回路の効率が上がれば、受信できる量が増える。増えれば、吸い上げられる量も増える。セレナがそうだった。村で一番の使い手だった彼女が、最初に枯れた。


「リーナ」


「なあに」


「その詠唱は、今日はこれ一度きりにしてほしい」


 光の中で、彼女の笑顔が止まった。


「どうして」


「理由は、まだ確かではない。ただ、使うほど君の身体に、負担がかかるかもしれない」


「……母さんみたいに?」


 彼は黙った。答えが、肯定だった。


 リーナは掌の光を見つめ、しばらく動かなかった。それから、ふっと、いたずらっぽく笑った。


「大丈夫よ。使いすぎなければいいんでしょう? 私は母さんほど強くないんだから、ちょうどいい」


「リーナ」


「約束する。気をつけるから」


 彼女は光をそっと握り、消した。その仕草は、拍子抜けするほど軽かった。アルクは、自分の言葉が、彼女の喜びを少しも曇らせられなかったことに気づいた。


 帰り道、日が傾き始めた。


 木々の間から、遠くの空が赤く染まっていく。リーナは鼻歌を歌っていた。昨日の子守唄だった。


 不意に、その歌が止まった。


「……ねえ」


 遠くで、狼の声がした。一頭ではなかった。二つ、三つ、それ以上の声が、重なり合っている。しかも昨日より、ずっと近い。


 アルクは足を止めた。数えていた。十一秒。次も十一秒。複数の声が、同じ間隔で、寸分の狂いもなく鳴っている。


「急ごう」


 彼は、リーナの手首を掴んだ。今度は、自分から。


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