第7話 薄い空気
「診察、ですって」
寝台の上で、セレナが楽しそうに繰り返した。
「ええ。少しだけ、症状を聞かせてほしい」
アルクは枕元の椅子に腰を下ろした。手には、書き付け用の炭と薄い樹皮紙。学者らしく見せるための小道具だ。リーナが部屋の入口で腕を組み、落ち着かない様子で立っている。
「いつから、咳が」
「五年ほど前かしら。最初は、疲れやすいだけだった。それが少しずつ、息が浅くなって」
「手足の痺れは」
「冬になると、指先が」
質問をしながら、アルクは視界の隅で別の作業を進めていた。
HUDに、淡い緑の粒子が浮かんでいる。空気中を漂う、ごく微細なナノマシン群。現地民が「マナ」と呼ぶものだ。彼はそれを、ただ眺めていた。送信はしない。受け取るだけだ。通信を傍受し、濃度を読み取る。この程度なら、露出は検出限界以下だろう。
量子リンクを開けば、村全域の分布が一秒で手に入る。誘惑は強かった。調査は一日で終わり、リーナに答えを渡せる。だが、その一秒が、宇宙のどこかの目に、自分の座標を焼き付ける。
――遅くても、一人ずつ測る。
それは、合理的ではない選択だった。時間は足りない。期限は二日しかない。それでも彼は、リンクに伸びかけた意識を引き戻した。
「アルクさん」
セレナが、面白そうに彼を見ていた。
「さっきから、私の肩の向こうを見ているわね。何か、そこにいるの?」
「……空気を、見ていた」
「空気」
「薄い、と思って」
彼女は一瞬きょとんとして、それから、くすくす笑った。リーナが「母さん」と窘める。それでも、緊張した部屋の空気が、ほんの少しだけほどけた。
寝台の周りの濃度は、基準値の十四パーセントだった。
彼は、部屋の入口に目を移した。リーナの周りは、三十一パーセント。窓の外で遊ぶピップの周りは、四十パーセント。
子供の方が、高い。リーナの方が、母より高い。
「アルク?」
リーナが小さく呼んだ。彼は我に返り、樹皮紙に数字を書き留める。三、十四、三十一、四十。
「リーナ。君は、魔法はどのくらい使える」
「え? ……ほとんど使えない。回路が弱いって、診てもらったの。灯りの詠唱が、やっと」
「セレナは」
「母さんは、昔は凄かったのよ」
リーナの声に、誇りが滲んだ。
「村で一番だったの。皆が頼ってた。傷を塞いだり、雨を呼んだり。……そのせいかもしれないって、言う人もいる。力を使いすぎたから、身体を壊したんだって」
セレナは黙って、窓の外を見ている。
アルクの中で、何かが形を取り始めていた。回路が強い人ほど、濃度が低い。力を使うほど、枯れる。それは単なる消耗ではない。受信機として優れた者ほど、何かに吸い上げられている。
では、何に?
彼は窓へ近づき、外を見た。村の外れの小さな鐘楼が、陽の中に立っている。鐘は、まだ静かだ。
しばらくして、昼が来た。
鐘が鳴った。
一打、二打、三打。青銅の低い音が、空気を震わせる。村人が足を止め、手を合わせる。祈りの鐘だ、とリーナが小声で教えた。
そのとき、アルクは見た。
セレナの眉が、苦痛に寄せられた。指が、シーツを握る。濃度表示が、十四から十二に落ちる。鐘の余韻が消えるまで、彼女は歯を食いしばっていた。
リーナは、気づいていないふりをしていた。彼女の視線は窓の外に向いている。だが、拳が白くなるほど握られていた。
鐘が止まった。濃度は、ゆっくりと戻らなかった。十二のまま、止まっていた。
アルクは息を殺した。
その瞬間、彼の意識の奥で、別のものが反応した。
微弱な搬送波。頭上、軌道の彼方から降りてくる、極めて細い信号。思考船との量子リンクを開いていなくても、ごく弱い待機波が、常に彼の身体に届いている。今、その波形が、わずかに脈を打った。
周期を測る。鐘の一打と、信号の脈動が、同じ間隔で重なっている。
偶然、と思考がすぐに結論を出した。
――較正パルスだ。
思考船が、定期的に降肉した本体の座標を確認する。そのタイミングが、たまたま鐘と一致した。周期が近い値になること自体は、珍しくない。天体の運動と祈りの時刻が重なる例は、過去の観測記録に何度もあった。
彼は樹皮紙に、小さく書き加えた。《鐘:周期一致。要追加観測》。それから、その行を炭で薄く塗りつぶした。
不要な情報だ。今は、病の原因を探すべきだ。
「アルク。何か分かった?」
リーナの声は、期待と恐れで震えていた。
「まだ、結論は出せない。ただ」
彼は慎重に言葉を選んだ。
「病気は、セレナ一人のものではないかもしれない。村全体で、何かが少しずつ、減っている」
「減ってる?」
「魔力、と呼ばれているものが。回路が強い人ほど、大きく」
リーナの顔から、血の気が引いた。
「それって、じゃあ……私の方が、ましなだけ? 母さんだけじゃなくて、みんなが、いつか」
「そうと決まったわけじゃない」
「でも、そう思ってる」
彼は否定できなかった。
沈黙の中で、寝台から、乾いた小さな笑いが聞こえた。
「相変わらず、顔に出る子ね」
セレナだった。彼女は枕に背を預け、天井を見つめている。さっきの苦痛は消え、穏やかな表情だけが残っていた。
「鐘の音が、苦手でね」
アルクは顔を向けた。
「毎日のことなのに、いつまでも慣れないの」
「どうして」
「私ね」
セレナは、ほとんど独り言のような声で言った。
「昔、あの鐘を打っていたのよ」
リーナの息が、止まった。
「母さん? そんなこと、一度も」
「話したことが、なかったかしら。若い頃ね、教会の鐘守をしていたの。……ずっと、忘れていたつもりだった」
鐘楼の影が、窓の外で長く伸びていた。アルクはその影を、じっと見つめていた。さっき薄く塗りつぶした一行が、樹皮紙の上で、まだ読めた。




