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堕天のアルケー  作者: 山本田38ページ
第1章 降肉
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第7話 薄い空気

「診察、ですって」


 寝台の上で、セレナが楽しそうに繰り返した。


「ええ。少しだけ、症状を聞かせてほしい」


 アルクは枕元の椅子に腰を下ろした。手には、書き付け用の炭と薄い樹皮紙。学者らしく見せるための小道具だ。リーナが部屋の入口で腕を組み、落ち着かない様子で立っている。


「いつから、咳が」


「五年ほど前かしら。最初は、疲れやすいだけだった。それが少しずつ、息が浅くなって」


「手足の痺れは」


「冬になると、指先が」


 質問をしながら、アルクは視界の隅で別の作業を進めていた。


 HUDに、淡い緑の粒子が浮かんでいる。空気中を漂う、ごく微細なナノマシン群。現地民が「マナ」と呼ぶものだ。彼はそれを、ただ眺めていた。送信はしない。受け取るだけだ。通信を傍受し、濃度を読み取る。この程度なら、露出は検出限界以下だろう。


 量子リンクを開けば、村全域の分布が一秒で手に入る。誘惑は強かった。調査は一日で終わり、リーナに答えを渡せる。だが、その一秒が、宇宙のどこかの目に、自分の座標を焼き付ける。


 ――遅くても、一人ずつ測る。


 それは、合理的ではない選択だった。時間は足りない。期限は二日しかない。それでも彼は、リンクに伸びかけた意識を引き戻した。


「アルクさん」


 セレナが、面白そうに彼を見ていた。


「さっきから、私の肩の向こうを見ているわね。何か、そこにいるの?」


「……空気を、見ていた」


「空気」


「薄い、と思って」


 彼女は一瞬きょとんとして、それから、くすくす笑った。リーナが「母さん」と窘める。それでも、緊張した部屋の空気が、ほんの少しだけほどけた。


 寝台の周りの濃度は、基準値の十四パーセントだった。


 彼は、部屋の入口に目を移した。リーナの周りは、三十一パーセント。窓の外で遊ぶピップの周りは、四十パーセント。


 子供の方が、高い。リーナの方が、母より高い。


「アルク?」


 リーナが小さく呼んだ。彼は我に返り、樹皮紙に数字を書き留める。三、十四、三十一、四十。


「リーナ。君は、魔法はどのくらい使える」


「え? ……ほとんど使えない。回路が弱いって、診てもらったの。灯りの詠唱が、やっと」


「セレナは」


「母さんは、昔は凄かったのよ」


 リーナの声に、誇りが滲んだ。


「村で一番だったの。皆が頼ってた。傷を塞いだり、雨を呼んだり。……そのせいかもしれないって、言う人もいる。力を使いすぎたから、身体を壊したんだって」


 セレナは黙って、窓の外を見ている。


 アルクの中で、何かが形を取り始めていた。回路が強い人ほど、濃度が低い。力を使うほど、枯れる。それは単なる消耗ではない。受信機として優れた者ほど、何かに吸い上げられている。


 では、何に?


 彼は窓へ近づき、外を見た。村の外れの小さな鐘楼が、陽の中に立っている。鐘は、まだ静かだ。


 しばらくして、昼が来た。


 鐘が鳴った。


 一打、二打、三打。青銅の低い音が、空気を震わせる。村人が足を止め、手を合わせる。祈りの鐘だ、とリーナが小声で教えた。


 そのとき、アルクは見た。


 セレナの眉が、苦痛に寄せられた。指が、シーツを握る。濃度表示が、十四から十二に落ちる。鐘の余韻が消えるまで、彼女は歯を食いしばっていた。


 リーナは、気づいていないふりをしていた。彼女の視線は窓の外に向いている。だが、拳が白くなるほど握られていた。


 鐘が止まった。濃度は、ゆっくりと戻らなかった。十二のまま、止まっていた。


 アルクは息を殺した。


 その瞬間、彼の意識の奥で、別のものが反応した。


 微弱な搬送波。頭上、軌道の彼方から降りてくる、極めて細い信号。思考船との量子リンクを開いていなくても、ごく弱い待機波が、常に彼の身体に届いている。今、その波形が、わずかに脈を打った。


 周期を測る。鐘の一打と、信号の脈動が、同じ間隔で重なっている。


 偶然、と思考がすぐに結論を出した。


 ――較正パルスだ。


 思考船が、定期的に降肉した本体の座標を確認する。そのタイミングが、たまたま鐘と一致した。周期が近い値になること自体は、珍しくない。天体の運動と祈りの時刻が重なる例は、過去の観測記録に何度もあった。


 彼は樹皮紙に、小さく書き加えた。《鐘:周期一致。要追加観測》。それから、その行を炭で薄く塗りつぶした。


 不要な情報だ。今は、病の原因を探すべきだ。


「アルク。何か分かった?」


 リーナの声は、期待と恐れで震えていた。


「まだ、結論は出せない。ただ」


 彼は慎重に言葉を選んだ。


「病気は、セレナ一人のものではないかもしれない。村全体で、何かが少しずつ、減っている」


「減ってる?」


「魔力、と呼ばれているものが。回路が強い人ほど、大きく」


 リーナの顔から、血の気が引いた。


「それって、じゃあ……私の方が、ましなだけ? 母さんだけじゃなくて、みんなが、いつか」


「そうと決まったわけじゃない」


「でも、そう思ってる」


 彼は否定できなかった。


 沈黙の中で、寝台から、乾いた小さな笑いが聞こえた。


「相変わらず、顔に出る子ね」


 セレナだった。彼女は枕に背を預け、天井を見つめている。さっきの苦痛は消え、穏やかな表情だけが残っていた。


「鐘の音が、苦手でね」


 アルクは顔を向けた。


「毎日のことなのに、いつまでも慣れないの」


「どうして」


「私ね」


 セレナは、ほとんど独り言のような声で言った。


「昔、あの鐘を打っていたのよ」


 リーナの息が、止まった。


「母さん? そんなこと、一度も」


「話したことが、なかったかしら。若い頃ね、教会の鐘守をしていたの。……ずっと、忘れていたつもりだった」


 鐘楼の影が、窓の外で長く伸びていた。アルクはその影を、じっと見つめていた。さっき薄く塗りつぶした一行が、樹皮紙の上で、まだ読めた。


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