第6話 赤い糸
薪は、割れなかった。
アルクは斧を握り、切り株の上に立てた丸太を見つめている。刃の入射角、木目の方向、必要な運動量。すべて計算済みだった。振り下ろす。斧は丸太をかすめ、地面に突き刺さった。
「……もう一回」
二回目は、柄が手の中で滑り、斧が横に倒れた。三回目で、ようやく丸太が欠けた。ほんの少しだけ。
隣の家の垣根から、洗濯物を干す老婆が、無遠慮にこちらを見ていた。口には出さない。だが目が言っている。あれが、昨日の学者かい。
二日目の朝だった。期限は、あと二日。
「手が逆よ。右を前に」
背後から、リーナの声がした。水桶を肩に担ぎ、呆れたように眉を寄せている。
「教えてくれ」
「学者さんなのに、薪も割れないの」
「斧は、読んだことがなかった」
リーナは噴き出した。それから、慌てて口を押さえた。母の部屋を気にして、声を抑える。その仕草が、昨日よりずっと自然に見えた。
彼女に教わって、斧の握り方を直す。重心を腰に落とす。振り下ろす。割れた。薪が二つに裂け、乾いた音が朝の空気に響いた。
その音が、思いのほか嬉しかった。
「次は、パンを切って。朝ごはんの分」
台所で渡されたのは、小さな刃物だった。黒パンは石のように固い。アルクは慎重に刃を当て、力を込めた。
刃が滑った。
右の人差し指を、薄く、斜めに、刃が撫でた。
最初は、何も感じなかった。次の瞬間、熱が来た。痛みが遅れて、爆発するように広がる。血が滲み、パンの上にぽたりと落ちた。赤い。思ったよりも、ずっと赤い。
「あっ」
リーナが駆け寄った。彼の手首を掴み、指を水桶に突っ込む。冷たさが痛みを一瞬だけ押し返し、すぐに戻ってきた。
「深くない。大丈夫。じっとしてて」
「痛みは、八……いや、七だ」
「何が」
「疼痛の強さを、十段階で」
アルクは真面目に答えた。リーナは、一瞬ぽかんとして、それから腹を抱えて笑い出した。
「何それ。痛みに点数をつけるの?」
「基準が、必要だ。そうしないと、比較できない」
「七って、どのくらいなの」
「……分からない」
彼は正直に言った。計測しようとするほど、数値は崩れていく。指先の鋭い痛み。心臓の鼓動。熱。恐怖。それらが混ざって、どの数字にも収まらない。
「じゃあ、点数はいらないでしょ」
リーナは笑いを収め、棚から布と小さな糸巻きを取り出した。糸は、鮮やかな赤だった。
「村の決まりなの。怪我をした人の、その指に、赤い糸を巻く」
彼女は布で傷を押さえ、その上から細い糸を、きゅっと結んだ。
「痛いのは逃げないけど、悪い血は逃げるんだって。母さんが、昔、私にもやってくれた」
「根拠は」
「ないわ。おまじない」
リーナは結び目を指で整えた。糸の下で、脈が静かに打っている。
「でも、巻くと、ちょっと楽になるの。不思議なんだけど」
アルクは、自分の指を見た。細い赤い糸が、一本。それだけだった。薬効も、物理的作用もない。だがその糸には、彼女の手の温度が残っていた。
――痛みは、情報ではない。
ふと、そう思った。痛みは、誰かが手を伸ばす理由になる。
「ありがとう」
「どういたしまして。次は、怪我しないでね」
彼女はそう言って、血のついたパンを脇に置いた。それから、ふいに、声のトーンを落とした。
「ねえ。昨日の夜、母さんと話してたでしょう」
「……ああ」
「何か、聞いた?」
アルクは黙った。「内緒よ」。セレナの声が、耳に残っている。
「何かとは」
「咳のこと」
彼女は台所の窓の外を見たまま言った。肩が、わずかに強張っていた。
「あなたは、見てしまったんでしょう。布に付いていたもの。私、昨日の夜、咳で目が覚めたの。寝たふりをしてた」
「……知っている」
それしか、言えなかった。嘘ではない。約束も破っていない。しかしリーナは、はっきりと息を呑んだ。
「そう。やっぱり」
「リーナ」
「母さんは、私に隠してるつもりなの。私も、知らないふりをしてる。もう半年になる」
彼女の声は、驚くほど平坦だった。平坦すぎて、アルクは理解した。それが、彼女なりの耐え方なのだと。
「毎晩、同じ布を洗うの。夜のうちに。母さんが寝てから。そうすれば、朝には、何もなかったことにできるから」
アルクは、言葉を失った。昨夜のセレナの指が、唇に触れる姿が重なる。母は娘を守るために隠し、娘は母を守るために知らないふりをしている。二人は、互いの優しさで、互いを一人にしている。
そして自分は、そのどちらからも、「内緒」を預けられている。
「薬は、効いているのか」
「遅くはなる。でも、止められない。年を越せるかどうか」
「他に、治す方法は」
「王都の教会の医院なら、診てくれるかもしれない。でも、遠いし、お金もかかるし、そもそも……教会の癒し手でも、魔力枯れ病は治せないって」
リーナは振り返った。茶色の瞳が、まっすぐ彼を見た。
「ねえ、アルク。あなたは学者なんでしょう。魔法のことも、病のことも、私たちより詳しいんでしょう」
「……」
「母さんの病気の原因を、調べてほしい。この三日で、あなたにできることがあるなら、それがいい」
彼女は、一歩だけ近づいた。
「お願い」
その声は、命令ではなかった。依頼でもなかった。もっと小さい、祈りに近いものだった。
アルクは、指の赤い糸を見た。原因を調べることは、できる。ただしそのためには、力を使わなければならない。力を使えば、露出する。
「……やってみる」
喉から出た言葉は、計算の結果ではなかった。それが、自分でも不思議だった。
「ありがとう」
リーナは小さく笑った。目の端が、少し濡れていた。
アルクの指の下で、脈がとくんと鳴った。糸は、まだ、温かかった。




