第5話 温かい粥
「母さんには、掟のことは言わないで」
戸口の前で、リーナは小声で言った。夕暮れの空は橙色に染まり、煙突の煙が細く伸びている。
「保証人のこと、か」
「全部よ。三日の期限も、ヨルグさんのことも。ただ、怪我人を拾ったとだけ言う」
アルクは頷いた。頷いてから、それが約束になったことに気づいた。
扉が開くと、湯気と、麦の匂いが押し寄せた。小さな部屋に炉があり、鍋が吊るされている。その奥の寝台に、一人の女が半身を起こして座っていた。
「おかえり、リーナ。……その方は」
四十がらみ。痩せた身体に、色褪せた青い肩掛け。黒い髪に、こめかみだけ白いものが混じっている。声は静かで、よく通った。
「アルクさん。森で倒れてたの。三日だけ、うちで預かる」
「三日?」
「足が治るまで」
リーナの嘘は、あまりに分かりやすかった。視線が泳ぎ、鍋の蓋を意味もなく持ち上げる。リーナの母、セレナは、それを黙って見ていた。それから、アルクに視線を移した。
「ようこそ。何もないけれど、座って」
粥が運ばれてきた。木の椀に、白濁した麦と野草、細かく裂いた干し肉。リーナが匙を添える。
アルクは両手で椀を受け取った。掌に、熱が広がる。
湯気を吸い込むと、鼻の奥が熱くなった。食べた。麦の甘みが先に来て、遅れて、塩気と、野草の苦みが追いかけてくる。熱い。舌を火傷しかけて、それでも止められなかった。
「慌てないで。お代わりはあるから」
セレナが笑う。気がつくと、椀は空になっていた。
その間に、リーナは別の小鍋で湯を沸かし、銀色の葉を一本、浮かべていた。彼女の手は慎重だった。慎重すぎるほどに、ゆっくりと。
「リーナ」
母の声が、静かに響いた。
「二本入れなさい」
「今日は、一本で効くから」
「嘘が下手ね」
セレナは穏やかに言った。責める調子ではなかった。
「あなたは、昔から嘘をつくとき、右の眉が上がるのよ」
「……っ」
リーナは顔を赤くして、眉を押さえた。それから、渋々、もう一本を入れた。アルクは、その横顔を見て、昼間の数字を思い出した。七本のうち、今夜で二本が消える。
「アルクさん」
不意に、セレナが呼んだ。
「あなたは、あの子に何を借りたの」
空気が止まった。リーナの背中が、強張る。
アルクは考えた。嘘をつくべきか。真実を言うべきか。ここで掟を明かせば、リーナの信頼を裏切る。だが偽れば、この聡明な女性に見透かされる。
「命を、借りました」
それは本当だった。
「それ以上は、リーナが自分で話すべきことだと思う。私が言うことではない」
沈黙のあと、セレナが声を立てて笑った。
「あなたも、嘘が下手ね」
「……嘘は、ついていない」
「ええ。でも、隠し事が下手。そういう顔をしてる」
彼女は穏やかに目を細め、咳払いをひとつして、続けた。
「いい人ね。うちの娘は、見る目だけはあるのよ」
その言葉の温度に、アルクは対応する出力を見つけられなかった。
そのときだ。扉が、控えめに叩かれた。
「入るよー」
小さな顔が、隙間から覗いた。ピップだった。両手に何かを握りしめている。
「リーナ姉ちゃん、これ」
少年は部屋の隅に立つアルクに近づいた。歩幅は大きく、顔は強張っている。差し出された手の中に、黒い、固いパンの半分があった。
「足、痛い人にあげる。うちの晩ごはんの、半分」
アルクは動けなかった。
「……いいのか。君の分だろう」
「半分あるから大丈夫。それに」
ピップは唇を尖らせた。
「リーナ姉ちゃんが連れてきた人だから、悪い人じゃないって、母ちゃんが言ってた」
彼は、受け取った。パンは、少年の体温で、少し温かかった。
アルクの知識の中に、「分配」という言葉はあった。限られた資源を最適化して分け合う仕組み。計算できる、効率的な行為。だが目の前の少年は、計算などしていなかった。自分の晩ごはんを削って、見ず知らずの男に渡した。それだけだった。
「……ありがとう」
声が、掠れた。ピップは照れくさそうに頭を掻いて、「じゃあね」と言い残して走り去った。
パンを齧る。昼間のものと同じ味だった。それなのに、昼間より、ずっと重かった。
夜が更けた。炉の火が小さくなり、リーナは疲れて、藁の寝床で寝息を立て始めている。アルクは梁の上の物置に寝床を与えられた。眠れなかった。目を閉じるたび、痛みと、温かさが、交互に押し寄せる。
「眠れないの?」
寝台から、囁くような声がした。セレナが、こちらを見ていた。
「少し」
「そう。……じゃあ、昔の歌をひとつ、聴く?」
彼女は返事を待たずに、低く口ずさみ始めた。短い旋律。何度も繰り返される単純な節。灰の森の子守唄だと、彼女は言った。言葉は古く、意味は半分も分からない。
歌の途中で、セレナの肩が震えた。
咳だった。彼女は慌てて布を口に当て、背を向けた。細い背中が、波のように上下する。
やがて咳が収まり、彼女は布をそっと畳もうとした。その白い布に、赤いものが、滲んでいた。
アルクの視界で、HUDが勝手に反応した。《周囲ナノマシン濃度:基準値の十四パーセント》。
布を握る手が、止まった。セレナがこちらを振り返る。その目は静かだった。
彼女は人差し指を、そっと唇に当てた。
「内緒よ」
アルクは、頷くことしかできなかった。炉の火が、ぱちりと音を立てて、消えた。




