第4話 保証人
矢が、弦に番えられていた。
村の入口に立てられた木柵の向こうで、二人の男が弓を構えている。矢尻は、まっすぐアルクの胸を向いていた。昼過ぎの陽が、研がれた鉄を白く光らせる。
「止まれ、リーナ」
年嵩の男の声だった。彼女は足を止め、アルクを支えたまま、背筋を伸ばした。
「薬草を採ってきたの、オットーさん。それと、怪我人」
「怪我人を連れてきたのは、見れば分かる。問題は、そいつが誰かということだ」
柵の内側から、杖をついた老人が現れた。白い髭を短く刈り、目だけが若い。村長のオットーだった。後ろには、四十がらみの猟師が、弓を下ろさずに立っている。頬に深い傷痕があった。
アルクは、リーナの肩から腕を外し、自分の足で立った。脛が悲鳴を上げる。それでも立った。
「アルクという。旅の学者だ。森で倒れていたところを、リーナに助けられた」
「学者」
猟師が、鼻で笑った。
「森で一人倒れていた学者が、きれいな服で現れる。昨日の夕方、空に変なものが走り、今朝は狼どもが騒いでいる。偶然にしちゃあ、揃いすぎだ」
「ヨルグ」
オットーが窘めた。だがヨルグは弓を下げない。
「村長。あんたは、あの夜を忘れたのか」
老人の表情が、微かに揺らいだ。ヨルグの視線がアルクを刺す。憎しみの奥に、何か別のものがあった。恐怖だ。
アルクは考えた。このまま黙れば、追い返される。嘘を重ねれば、リーナの信用が傷つく。だが彼には、差し出せるものがひとつだけあった。
「谷道を、使わないでほしい」
全員の視線が、彼に集まった。
「谷底に、獣がいる。灰色の、大型の。一定の間隔で歩いて、十一秒ごとに止まる。私たちは、尾根から回って来た」
沈黙が落ちた。ヨルグの顔から、笑みが消える。
「……なぜ、十一秒と分かる」
「数えた」
「ありえん。狼がそんな風に歩くものか」
「だから、狼ではない」
アルクがそう言った瞬間、ヨルグの手が震えた。矢が、わずかに揺れた。
「何を、知ってる」
「私には、分からない。ただ、見たものを話しているだけだ」
「嘘を言え」
ヨルグが一歩踏み出した。矢尻が喉に触れそうになる。アルクは動かなかった。動く必要がなかった。リーナが、その間に割り込んだからだ。
「やめて、ヨルグさん」
彼女の背中が、アルクの目の前にあった。細い肩が、小さく震えている。
「私が見ました。谷に狼がいるのを。アルクが教えてくれなければ、私は谷道を下っていたし、今ここにいなかった」
「リーナ」
「だから、お願い。彼をこの村に入れてください。私が保証します」
オットーの杖が、とん、と地面を叩いた。
「リーナ。お前は、村の掟を知っているな」
「知っています」
「よそ者を連れてきた者は、そのよそ者の行いの全てに責任を持つ。罰も、償いも、全てだ」
「はい」
「お前の母は、病で床にある。お前が背負いきれなくなれば、お前たちが村にいられる理由はなくなる。それも分かっているか」
リーナの指先が、握り込まれた。アルクの位置からは、その震えがはっきり見えた。
「……分かっています」
アルクは声を出しかけた。やめさせようとした。だが、何を言えばいいのか分からなかった。彼女の代わりに責任を取る力など、自分にはない。解析も、演算も、ここでは何の役にも立たない。
「いいだろう」
老人は長い間を置いて言った。
「三日だ。三日間、この男を村に置く。リーナ、お前の家で預かれ。ただし、その間に村に害を成したなら、お前と母親は、村を出てもらう」
「村長!」
ヨルグが叫んだ。オットーは一瞥だけくれた。
「責任の取り方は、掟が決めておる。それに、谷の話が本当なら、我らも確かめねばならん」
ヨルグは、歯を噛みしめた。それから、ゆっくりと弓を下ろした。
「……何かあれば、俺が先に撃つ」
「好きにしろ」
リーナが、深く頭を下げた。アルクも、遅れて同じようにした。礼の作法を知らなかったので、彼女の動きを真似た。それが、ひどく間の抜けたことのように思えた。
柵が開いた。
村の中は、静かだった。藁葺き屋根の家々が並び、洗濯物が風に揺れている。小さな鐘楼が中央に立ち、その影が石畳を斜めに切っていた。子供たちが遠巻きにこちらを見ている。
リーナの家へ向かう途中、彼女は一度も振り返らなかった。アルクは、その背中を追った。
「……すまない」
「それ、今日二度目」
彼女は前を向いたまま言った。
「謝る暇があったら、三日で役に立って。それだけ」
声は平静だった。しかし、リーナの手はまだ、強く握り込まれたままだった。爪が掌に食い込んでいるのが、見えた。
アルクは、胸の奥で数字が回るのを感じた。三日。七十二時間。その間に、何を示せばいいのか。解析は答えなかった。
ただ、家々の陰から、小さな顔がこちらを覗いていた。九歳くらいの少年。目が合うと、さっと引っ込んで、すぐにまた出てくる。疑いと好奇心が、同じ割合で混じった目をしていた。
「ピップ。隠れてないで、出てきなさい」
リーナが呼ぶと、少年は唇を尖らせ、ゆっくり姿を現した。
「リーナ姉ちゃん。その人、悪い人?」
「分からない。でも、母さんの薬の話ができるかもしれない人」
ピップは、アルクを上から下まで眺め、少し考えて、言った。
「ふうん。……足、痛い?」
「ああ。痛い」
「じゃあ、悪い人じゃないかも」
それだけ言って、少年は走り去った。アルクは、その背中を見送り、小さく息を吐いた。
白い息は、もう出なかった。村の午後の空気は、森よりずっと温かかった。
その温かさを、三日後も自分は持っていられるのか。アルクには、まだ答えがなかった。




