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堕天のアルケー  作者: 山本田38ページ
第1章 降肉
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第4話 保証人

 矢が、弦に番えられていた。


 村の入口に立てられた木柵の向こうで、二人の男が弓を構えている。矢尻は、まっすぐアルクの胸を向いていた。昼過ぎの陽が、研がれた鉄を白く光らせる。


「止まれ、リーナ」


 年嵩の男の声だった。彼女は足を止め、アルクを支えたまま、背筋を伸ばした。


「薬草を採ってきたの、オットーさん。それと、怪我人」


「怪我人を連れてきたのは、見れば分かる。問題は、そいつが誰かということだ」


 柵の内側から、杖をついた老人が現れた。白い髭を短く刈り、目だけが若い。村長のオットーだった。後ろには、四十がらみの猟師が、弓を下ろさずに立っている。頬に深い傷痕があった。


 アルクは、リーナの肩から腕を外し、自分の足で立った。脛が悲鳴を上げる。それでも立った。


「アルクという。旅の学者だ。森で倒れていたところを、リーナに助けられた」


「学者」


 猟師が、鼻で笑った。


「森で一人倒れていた学者が、きれいな服で現れる。昨日の夕方、空に変なものが走り、今朝は狼どもが騒いでいる。偶然にしちゃあ、揃いすぎだ」


「ヨルグ」


 オットーが窘めた。だがヨルグは弓を下げない。


「村長。あんたは、あの夜を忘れたのか」


 老人の表情が、微かに揺らいだ。ヨルグの視線がアルクを刺す。憎しみの奥に、何か別のものがあった。恐怖だ。


 アルクは考えた。このまま黙れば、追い返される。嘘を重ねれば、リーナの信用が傷つく。だが彼には、差し出せるものがひとつだけあった。


「谷道を、使わないでほしい」


 全員の視線が、彼に集まった。


「谷底に、獣がいる。灰色の、大型の。一定の間隔で歩いて、十一秒ごとに止まる。私たちは、尾根から回って来た」


 沈黙が落ちた。ヨルグの顔から、笑みが消える。


「……なぜ、十一秒と分かる」


「数えた」


「ありえん。狼がそんな風に歩くものか」


「だから、狼ではない」


 アルクがそう言った瞬間、ヨルグの手が震えた。矢が、わずかに揺れた。


「何を、知ってる」


「私には、分からない。ただ、見たものを話しているだけだ」


「嘘を言え」


 ヨルグが一歩踏み出した。矢尻が喉に触れそうになる。アルクは動かなかった。動く必要がなかった。リーナが、その間に割り込んだからだ。


「やめて、ヨルグさん」


 彼女の背中が、アルクの目の前にあった。細い肩が、小さく震えている。


「私が見ました。谷に狼がいるのを。アルクが教えてくれなければ、私は谷道を下っていたし、今ここにいなかった」


「リーナ」


「だから、お願い。彼をこの村に入れてください。私が保証します」


 オットーの杖が、とん、と地面を叩いた。


「リーナ。お前は、村の掟を知っているな」


「知っています」


「よそ者を連れてきた者は、そのよそ者の行いの全てに責任を持つ。罰も、償いも、全てだ」


「はい」


「お前の母は、病で床にある。お前が背負いきれなくなれば、お前たちが村にいられる理由はなくなる。それも分かっているか」


 リーナの指先が、握り込まれた。アルクの位置からは、その震えがはっきり見えた。


「……分かっています」


 アルクは声を出しかけた。やめさせようとした。だが、何を言えばいいのか分からなかった。彼女の代わりに責任を取る力など、自分にはない。解析も、演算も、ここでは何の役にも立たない。


「いいだろう」


 老人は長い間を置いて言った。


「三日だ。三日間、この男を村に置く。リーナ、お前の家で預かれ。ただし、その間に村に害を成したなら、お前と母親は、村を出てもらう」


「村長!」


 ヨルグが叫んだ。オットーは一瞥だけくれた。


「責任の取り方は、掟が決めておる。それに、谷の話が本当なら、我らも確かめねばならん」


 ヨルグは、歯を噛みしめた。それから、ゆっくりと弓を下ろした。


「……何かあれば、俺が先に撃つ」


「好きにしろ」


 リーナが、深く頭を下げた。アルクも、遅れて同じようにした。礼の作法を知らなかったので、彼女の動きを真似た。それが、ひどく間の抜けたことのように思えた。


 柵が開いた。


 村の中は、静かだった。藁葺き屋根の家々が並び、洗濯物が風に揺れている。小さな鐘楼が中央に立ち、その影が石畳を斜めに切っていた。子供たちが遠巻きにこちらを見ている。


 リーナの家へ向かう途中、彼女は一度も振り返らなかった。アルクは、その背中を追った。


「……すまない」


「それ、今日二度目」


 彼女は前を向いたまま言った。


「謝る暇があったら、三日で役に立って。それだけ」


 声は平静だった。しかし、リーナの手はまだ、強く握り込まれたままだった。爪が掌に食い込んでいるのが、見えた。


 アルクは、胸の奥で数字が回るのを感じた。三日。七十二時間。その間に、何を示せばいいのか。解析は答えなかった。


 ただ、家々の陰から、小さな顔がこちらを覗いていた。九歳くらいの少年。目が合うと、さっと引っ込んで、すぐにまた出てくる。疑いと好奇心が、同じ割合で混じった目をしていた。


「ピップ。隠れてないで、出てきなさい」


 リーナが呼ぶと、少年は唇を尖らせ、ゆっくり姿を現した。


「リーナ姉ちゃん。その人、悪い人?」


「分からない。でも、母さんの薬の話ができるかもしれない人」


 ピップは、アルクを上から下まで眺め、少し考えて、言った。


「ふうん。……足、痛い?」


「ああ。痛い」


「じゃあ、悪い人じゃないかも」


 それだけ言って、少年は走り去った。アルクは、その背中を見送り、小さく息を吐いた。


 白い息は、もう出なかった。村の午後の空気は、森よりずっと温かかった。


 その温かさを、三日後も自分は持っていられるのか。アルクには、まだ答えがなかった。


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