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堕天のアルケー  作者: 山本田38ページ
第1章 降肉
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第3話 道連れ

「ここから先は、谷道を下るのが近いの」


 リーナが指さした先には、細い獣道が、谷底へと続いていた。両側から木々が迫り、朝の光は葉の隙間からしか届かない。


「村まで、半分の時間で着く」


「だめだ」


 口が、先に動いた。アルクは自分でも驚いた。リーナの足が止まる。


「……なんで」


「風が、悪い」


 咄嗟に出た言葉は、あまりに薄っぺらかった。リーナは眉を上げ、アルクの顔と谷道を交互に見る。それから、にやりと笑った。


「へえ。風。学者さんは、風の良し悪しが分かるんだ」


「経験則だ」


「そう」


 彼女は否定も肯定もせず、ただ、彼の脇の下に肩を入れ直した。


「じゃあ、遠回りにつきあうわ。尾根を行くと、昼過ぎには着く」


 疑われている、と分かった。しかし彼女は、それ以上は問わなかった。問われなかったことが、彼の胸に妙な重さを残した。


 尾根道は、谷道よりずっと険しかった。岩が露出し、足場は崩れやすい。脛の布に血が滲み始めたが、アルクは黙って歩いた。視界の端で、HUDが静かに時間を刻んでいる。


 谷から、風に乗って音が昇ってきた。


 乾いた土を踏む、規則的な音。ざ、ざ、ざ。三十秒前まではなかった音だ。彼はそれを意識の隅で数えた。一歩の間隔、重さ、そして十一秒ごとに必ず挟まる、止まって周囲を見回す無音。


「谷に、いる」


 アルクが声を落とすと、リーナの顔から血の気が引いた。


「……足跡の、あれ?」


「ああ。巡回している。谷道を、往復して」


「どうして分かるの。見えないのに」


「音の間隔だ」


 それは半分は本当だった。残りの半分は、受動的に拾えてしまう微弱な通信の揺らぎだ。能動的に走査すれば谷全体を見通せる。だが、それは露出になる。


 リーナは唇を噛み、何かを言いかけてやめた。かわりに、小さく言った。


「谷道を選んでたら、私たち、死んでたかもしれない」


「……分からない」


「分かってるでしょ、本当は」


 刺すような声だった。しかし怒りではなかった。彼女は恐怖と戦っているのだ、とアルクは気づいた。


 尾根を進む。林が途切れ、半円形の岩場に出た。そこで足が止まった。


 前方に、見通しのいい斜面が広がっている。幅は二十メートルほど。身を隠す木はない。その向こうに、再び林が続く。


 そして右手、谷の斜面の下に、灰色の背中がひとつ、あった。


 狼だった。体長は二メートル近い。毛並みは確かに狼のそれだ。しかし、脇腹の毛が不自然に薄く、その下に滑らかな灰白色の板が覗いている。関節が動くたび、小さく、かちり、と鳴った。目は琥珀色で、瞳孔が動かない。


「……っ」


 リーナの喉が鳴る。彼女の指が、アルクの袖を握りしめた。


 狼は止まり、首をゆっくりとこちらへ巡らせ――途中で、止まった。


 一、二、三。アルクは数える。


 十一秒。再び、狼は前へ歩き出した。


「いまだ」


 囁くと、リーナが彼を見た。


「斜面を渡る。次に狼が止まるまでに、半分。その次の停止までに、残り。私が数える。合わせて動いてくれ」


「合わせるって、どうやって」


「私の声に」


 それは、あまりに頼りない要求だった。彼女の命を、この見知らぬ男の声に預けろというのだから。


 リーナは数秒間、黙った。茶色の目が、彼の顔と、斜面と、狼の間を行き来した。


 それから、短く息を吐いた。


「……分かった。信じるんじゃなくて、賭けるだけだから」


「それでいい」


「でも、もしあなたが間違えたら」


「間違えない」


 断言した声が、自分でも思った以上に強かった。傷のせいで思考は鈍い。それでも、数えること、周期を読むこと、これだけは、まだ自分にできた。


 狼の足音が、止まった。


「……行け」


 リーナが彼の手首を掴み、走った。


 脛が悲鳴を上げる。膝が笑う。彼は声を殺して、必死で数えた。「四。五。六」。斜面の砂利が崩れ、足を取られそうになる。リーナが体勢を支え、引っ張る。彼女の掌は、驚くほど温かかった。


 ――ほら、息をかけなさい。


 冬の記憶が掠めた。今ではない。いまは、数えなければ。


「九、十」


 彼女の背を押す。窪みに滑り込む。同時に、頭上で、かちり、と音がした。十一秒。


 二人は岩の陰に伏せた。狼の足音が通り過ぎていく。呼吸の音が、やたらと大きく聞こえた。


 足音が遠ざかるのを待って、もう一度、数えた。同じ手順で、残りの半分を渡る。最後の一歩で林に飛び込み、地面に転がった。


 しばらく、どちらも喋れなかった。


 やがて、リーナが笑い出した。引きつった、短い笑いだった。


「……ほんとに、渡れた」


「ああ」


「あなた、手、血だらけ」


 見ると、掌が岩で擦れて血を滲ませていた。リーナは自分の袖を裂き、無言で巻いた。その手が、まだ微かに震えている。


「ねえ、アルク」


「なんだ」


「あなたは、何者なの」


 彼は答えを探した。嘘は、いくらでも用意できる。しかし今は、どの嘘も、喉を通らなかった。


「……まだ、言えない」


「そう」


 リーナは頷いた。拍子抜けするほどあっさりと。そして立ち上がり、丘の頂へ向かった。


 尾根の先に、赤い屋根が点々と集まっていた。煙突から細い煙が上がっている。リーナはしばらく、その景色を見つめていた。


「あのね。村の決まりで、よそ者を連れてきた者は、そいつが何かしたら、全部の責任を負うの。罰も、賠償も」


 彼女は振り返らず、続けた。


「あなたが何者でも、母さんの病の話ができるなら、私にはそれでいい。だから、私が保証人になる」


「リーナ」


「勘違いしないで。借りを返してもらうだけ。……行くよ」


 彼女は一人で丘を下り始めた。風に栗色の髪が揺れる。アルクは、その背中を見ていた。


 解析は何も告げなかった。ただ、血の巻かれた掌が、熱かった。


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