第3話 道連れ
「ここから先は、谷道を下るのが近いの」
リーナが指さした先には、細い獣道が、谷底へと続いていた。両側から木々が迫り、朝の光は葉の隙間からしか届かない。
「村まで、半分の時間で着く」
「だめだ」
口が、先に動いた。アルクは自分でも驚いた。リーナの足が止まる。
「……なんで」
「風が、悪い」
咄嗟に出た言葉は、あまりに薄っぺらかった。リーナは眉を上げ、アルクの顔と谷道を交互に見る。それから、にやりと笑った。
「へえ。風。学者さんは、風の良し悪しが分かるんだ」
「経験則だ」
「そう」
彼女は否定も肯定もせず、ただ、彼の脇の下に肩を入れ直した。
「じゃあ、遠回りにつきあうわ。尾根を行くと、昼過ぎには着く」
疑われている、と分かった。しかし彼女は、それ以上は問わなかった。問われなかったことが、彼の胸に妙な重さを残した。
尾根道は、谷道よりずっと険しかった。岩が露出し、足場は崩れやすい。脛の布に血が滲み始めたが、アルクは黙って歩いた。視界の端で、HUDが静かに時間を刻んでいる。
谷から、風に乗って音が昇ってきた。
乾いた土を踏む、規則的な音。ざ、ざ、ざ。三十秒前まではなかった音だ。彼はそれを意識の隅で数えた。一歩の間隔、重さ、そして十一秒ごとに必ず挟まる、止まって周囲を見回す無音。
「谷に、いる」
アルクが声を落とすと、リーナの顔から血の気が引いた。
「……足跡の、あれ?」
「ああ。巡回している。谷道を、往復して」
「どうして分かるの。見えないのに」
「音の間隔だ」
それは半分は本当だった。残りの半分は、受動的に拾えてしまう微弱な通信の揺らぎだ。能動的に走査すれば谷全体を見通せる。だが、それは露出になる。
リーナは唇を噛み、何かを言いかけてやめた。かわりに、小さく言った。
「谷道を選んでたら、私たち、死んでたかもしれない」
「……分からない」
「分かってるでしょ、本当は」
刺すような声だった。しかし怒りではなかった。彼女は恐怖と戦っているのだ、とアルクは気づいた。
尾根を進む。林が途切れ、半円形の岩場に出た。そこで足が止まった。
前方に、見通しのいい斜面が広がっている。幅は二十メートルほど。身を隠す木はない。その向こうに、再び林が続く。
そして右手、谷の斜面の下に、灰色の背中がひとつ、あった。
狼だった。体長は二メートル近い。毛並みは確かに狼のそれだ。しかし、脇腹の毛が不自然に薄く、その下に滑らかな灰白色の板が覗いている。関節が動くたび、小さく、かちり、と鳴った。目は琥珀色で、瞳孔が動かない。
「……っ」
リーナの喉が鳴る。彼女の指が、アルクの袖を握りしめた。
狼は止まり、首をゆっくりとこちらへ巡らせ――途中で、止まった。
一、二、三。アルクは数える。
十一秒。再び、狼は前へ歩き出した。
「いまだ」
囁くと、リーナが彼を見た。
「斜面を渡る。次に狼が止まるまでに、半分。その次の停止までに、残り。私が数える。合わせて動いてくれ」
「合わせるって、どうやって」
「私の声に」
それは、あまりに頼りない要求だった。彼女の命を、この見知らぬ男の声に預けろというのだから。
リーナは数秒間、黙った。茶色の目が、彼の顔と、斜面と、狼の間を行き来した。
それから、短く息を吐いた。
「……分かった。信じるんじゃなくて、賭けるだけだから」
「それでいい」
「でも、もしあなたが間違えたら」
「間違えない」
断言した声が、自分でも思った以上に強かった。傷のせいで思考は鈍い。それでも、数えること、周期を読むこと、これだけは、まだ自分にできた。
狼の足音が、止まった。
「……行け」
リーナが彼の手首を掴み、走った。
脛が悲鳴を上げる。膝が笑う。彼は声を殺して、必死で数えた。「四。五。六」。斜面の砂利が崩れ、足を取られそうになる。リーナが体勢を支え、引っ張る。彼女の掌は、驚くほど温かかった。
――ほら、息をかけなさい。
冬の記憶が掠めた。今ではない。いまは、数えなければ。
「九、十」
彼女の背を押す。窪みに滑り込む。同時に、頭上で、かちり、と音がした。十一秒。
二人は岩の陰に伏せた。狼の足音が通り過ぎていく。呼吸の音が、やたらと大きく聞こえた。
足音が遠ざかるのを待って、もう一度、数えた。同じ手順で、残りの半分を渡る。最後の一歩で林に飛び込み、地面に転がった。
しばらく、どちらも喋れなかった。
やがて、リーナが笑い出した。引きつった、短い笑いだった。
「……ほんとに、渡れた」
「ああ」
「あなた、手、血だらけ」
見ると、掌が岩で擦れて血を滲ませていた。リーナは自分の袖を裂き、無言で巻いた。その手が、まだ微かに震えている。
「ねえ、アルク」
「なんだ」
「あなたは、何者なの」
彼は答えを探した。嘘は、いくらでも用意できる。しかし今は、どの嘘も、喉を通らなかった。
「……まだ、言えない」
「そう」
リーナは頷いた。拍子抜けするほどあっさりと。そして立ち上がり、丘の頂へ向かった。
尾根の先に、赤い屋根が点々と集まっていた。煙突から細い煙が上がっている。リーナはしばらく、その景色を見つめていた。
「あのね。村の決まりで、よそ者を連れてきた者は、そいつが何かしたら、全部の責任を負うの。罰も、賠償も」
彼女は振り返らず、続けた。
「あなたが何者でも、母さんの病の話ができるなら、私にはそれでいい。だから、私が保証人になる」
「リーナ」
「勘違いしないで。借りを返してもらうだけ。……行くよ」
彼女は一人で丘を下り始めた。風に栗色の髪が揺れる。アルクは、その背中を見ていた。
解析は何も告げなかった。ただ、血の巻かれた掌が、熱かった。




