第2話 銀露草
最初に見えたのは、刃だった。
小さな短刀の先が、喉の三十センチ手前で止まっている。持ち手は震えていない。その向こうに、栗色の髪を無造作にひとつに束ねた少女の顔があった。十七、八歳。頬に煤をつけ、眉間に深い皺を寄せている。
「動かないで」
彼女の声は硬かった。アルクの視界で、言語解析が遅れて翻訳を重ねる。この地方の古い訛りだ。意味は理解できる。ただ、返事を組み立てるのに、数秒かかる。
焚き火が小さく爆ぜた。夜はもう薄れ、森の輪郭が青灰色に浮かんでいる。身体には毛布のような厚手の布がかけられていた。脛には、きつく布が巻かれている。血は止まっていた。
「……助けて、くれた、のか」
喉が裂けたように掠れた。少女の眉がわずかに動く。
「助けたのは、私じゃなくて薬草。で、あなたは誰」
「アルク」
名前は、考えるより先に口から出た。彼女は短刀を下ろさないまま、彼の顔、肩、足、そして靴を順に見た。視線が靴で止まる。
「どこから来たの」
「遠い、ところ。旅の学者だ。荷を、盗賊に奪われた」
用意していた嘘だった。論理的には破綻がない。少女は鼻で小さく息を吐いた。
「盗賊は、服と靴まで残していかない。それに」
彼女は顎で靴を示す。
「泥が、ほとんど付いてない。底の革がまっさらよ。三日歩いた人の靴じゃない」
アルクは黙った。炭素と水分で再構成された衣服は、確かに、新品そのものだった。観察者としての準備不足を、少女が三秒で暴いた。
「……あなたは、鋭いな」
「嘘が下手な人を、見慣れてるだけ。私も下手だから」
リーナ、と彼女は名乗った。村の薬草師見習い。夜明け前の短い時間にしか採れない花を探しに、毎朝この森へ来るのだという。短刀は、ようやく鞘に収まった。しかし手は柄から離れない。
「聞くけど、あなたは危ない人?」
「分からない。ただ、今は、立てない」
正直な答えだった。リーナは一瞬、驚いた顔をして、それから、ふっと肩の力を抜いた。
「正直なのは、悪くない」
彼女は腰の革袋から、黒いものを取り出した。固く乾いたパン。それを割り、半分を差し出す。
「食べて。倒れたまま死なれたら、目覚めが悪いから」
アルクは受け取った。掌が、重い。口に入れる。
歯が、硬さに負けそうになる。噛む。穀物の粉の味が舌に広がる。少し酸っぱい。ざらついて、乾いていて、粗末なものだと、解析は判定した。
それなのに、咀嚼するたびに、口の奥で何かが開いていった。唾液が出る。胃が音を立てる。パンの酸味が、塩気が、胡桃のような香りが、全部、一度に押し寄せる。
「……ゆっくり食べなさい。むせるから」
その声が、遠くで聞こえた。目の奥が熱い。彼は黙って咀嚼を続けた。味、という入力に、情報以外の何かが混ざっていることを、彼は初めて認めた。
食べ終えてから、アルクは巻かれた脛の布に気づいた。布の下に、淡い銀色の葉が見える。
「これは」
「銀露草。傷の化膿を止める薬草。夜明けの露が残っている間しか効き目が出ない」
リーナは、足元に置いた籠を覗いた。細い銀の茎が、七本、丁寧に束ねられている。彼女は一度、それを指で数えた。唇が動く。七。八。いや、七。
アルクは、その横顔を見ていた。
「……それは、あなたの」
「私が使った分は、使った。それだけ」
声が少し高かった。彼女は目を合わせない。
「必要な量は、あるのか」
リーナの手が、止まった。
長い沈黙のあと、彼女は小さく息を吸った。
「母さんの薬。一週間分で、十本。ここ三日で、見つかったのは九本だった。今日で足りるはずだったのに」
一本は、アルクの脛の上にある。
彼の頭の中で、数字が自動的に並んだ。残り七本。必要十本。不足三本。この季節の採取効率から計算すると、追加で最低二日。その間、彼女の母親の薬は薄まる。
解析は完璧だった。そして、何の役にも立たなかった。
「……すまない」
「謝らなくていい」
リーナは籠の蓋を閉じ、強い声で言った。
「見殺しにして得られる一本なんて、持って帰りたくない。母さんが知ったら、私を叱るから」
そう言ってから、ようやく彼を見た。茶色の瞳の奥に、疲れと意地が並んでいた。
「でも、借りは借りよ。動けるようになったら、働いて返して」
「……分かった」
その言葉は、約束ではなかった。もっと粗雑な、取り立ての宣告だった。それでもアルクは、胸のどこかが、少しだけ軽くなるのを感じた。
立ち上がる。脛が悲鳴を上げた。リーナが腕を貸し、二人で斜面を登る。彼女は驚くほど軽々と彼の体重を受け止めた。
「歩ける?」
「歩く」
「村まで二時間。途中で倒れたら、置いていくから」
「それで、いい」
リーナは呆れたように笑った。それから、森の奥を睨む。
「……本当は、今日、こんなに遅くまで残るつもりじゃなかったの。昨日の夕方から、森がおかしくて」
アルクの足が、止まった。
「おかしい、とは」
「空に、光の筋が走ったの。一瞬だけ。そうしたら、鳥が一斉に飛び立った。夜中には、この辺りに出ないはずの獣の声がした」
彼は表情を変えないよう努めた。光の筋。自分の降下軌道だ。
「獣の、声」
「狼みたいな。でも」
リーナは言い淀み、やがて、足元の土を指さした。
泥の上に、前脚の跡が点々と続いている。アルクはしゃがみ、目を凝らした。
爪の跡が、深さまで同じだった。歩幅は、一歩ごとに誤差が一ミリもない。
生き物の足跡ではなかった。
「ね、変でしょう」
リーナの声は、震えていた。アルクは足跡から目を離せないまま、小さく頷いた。
――この森には、自分の知らない何かが、すでにいる。




