第1話 重さ
指が動かなかった。
視界には、完璧な世界が広がっている。大気組成、気温マイナス二度、風速毎秒三・一メートル。地形の等高線が薄い緑の網となって森を覆い、最適経路が一本の光の線で示されている。計算は一瞬で終わった。終わっているのに、右手の指は、命令を無視して曲がったままだった。
アルクは息を吐いた。白いものが、顔の前で崩れた。
――これが、体温か。
知識としては知っていた。呼気中の水蒸気が低温で凝結する現象。それを自分の口から出た物として見るのは、まるで別物だった。胸が上下するたび、肺が痛む。心臓が、頼んでもいないのに鳴っている。うるさい、と思った。数京の演算を並列で回していた頃、自分の中に音などなかった。
膝をついたまま、彼は光の線を睨んだ。日没まで、あと二時間四十一分。体温の低下速度から逆算すると、屋根のない場所で夜を越せる確率は三割を切る。水源は北東六百メートル。歩けば十五分の距離だ。
十五分。かつての彼にとっては、永遠よりも長い時間のはずだった。
立ち上がろうとして、足が滑った。落ち葉の下は湿った粘土だった。膝が地面を打ち、衝撃が骨を伝って頭蓋に響く。声が出た。自分のものとは思えない、喉の奥から漏れる音。
「……ッ」
痛みは、情報ではなかった。解析ログに「損傷レベル軽微」と表示されるのに、それは表示の外側で、勝手に膨れあがる。思考が割り込まれる。計算していた経路が、ぷつりと途切れた。
彼は歯を食いしばった。歯があるのだと、初めて知った。
選択肢は、ひとつ浮かんでいた。衛星軌道上の思考船との量子リンクを開く。惑星全域をスキャンすれば、安全な水場も、人間の集落も、一秒で特定できる。この森から村までの最短ルートも。
ただし、その信号はマザー・スフィアにも届く。
アルクはしばらく、白い息の向こうを見つめた。観測空白域。数万年のあいだ、存在しないはずだった星。ここで自分が灯す光は、宇宙中のどんな目にも見える。
合理的な判断は明らかだった。リンクを使わず、この足で歩く。露出は最小に抑える。代償は、今夜の寒さと痛みだ。
「……歩け」
命令は、誰にも向けられていなかった。自分の脚に向けた言葉が、思いのほか幼く聞こえた。
木の幹に手をかけ、体重を預ける。樹皮が掌に食い込む。ざらざらしている。触覚という入力は、あまりに雑音が多い。それでも彼は、一歩を踏み出した。
二歩目で、枝が顔をかすめた。三歩目で、鼻の奥が熱くなった。涙が出ている、と数秒遅れて理解した。悲しいわけではない。風と寒さへの、ただの反射だ。
それでも頬を伝う温度に、胸のどこかが、ふいに痛んだ。
――こんな冬を、知っている。
記憶が、割り込んできた。消したはずのアーカイブの底から、勝手に浮かび上がる。吐く息が白かった。誰かの手に包まれた自分の手。大きくて、冷たい手のひらが、少しずつ温まっていく。「ほら、息をかけなさい」。あれは、旧地球の言葉だった。声の主の顔は、もう思い出せない。
アルクは立ち止まった。
数万年。自分は、一度もこれを思い出さなかった。いや、思い出す必要がなかった。感情は非効率なバグとして、とっくに最適化されていたはずだった。それがたった一度、息が白く見えただけで、蘇った。
「やめろ」
彼は低く言った。誰に、何を、という意味もなかった。
歩く。斜面を下る。光の線は、確実に水源へ続いている。十分後、脚の感覚が薄れた。二十分後、指先が自分のものではなくなった。計算上は十五分で着くはずの距離が、倍以上かかっている。誤差は、全部、身体のせいだ。
三十五分目に、水の音が聞こえた。
岩のあいだを細い流れが走っていた。透明で、速くて、小さな渦をいくつも作っている。解析は「飲用可・微量ナノマシン含有」と告げた。彼は両手を水に差し入れようとして、笑いそうになった。指が、掬う形に曲がらない。
結局、這いつくばって、顔を水面に近づけた。
一口。冷たさが喉に刺さった。刺さってから、広がった。舌の根が痺れ、胃の底まで一本の線が落ちていく。味はなかった。なのに、もう一口、もう一口と、身体が勝手に求めた。気づけば、むせて、咳き込んで、水を吐いていた。
顔を上げると、水面に誰かがいた。
二十代前後の青年。濡れた黒髪、青ざめた頬、見開かれた目。旧地球人の面影のある、他人のような顔。それが自分だと理解するのに、三秒かかった。三秒。かつてなら、星をひとつ解析し終える時間だ。
――生きている顔だ。
皮肉な感想が浮かんだとき、彼は立ち上がろうとして、濡れた苔を踏んだ。
世界が傾いた。視界の線が一瞬で崩れ、背中が地面を打つ。転がる。岩の角が脛を裂いた。熱い液体が足を濡らしていくのが、見えなくても分かった。
今度は声さえ出なかった。
痛み。赤。冷たさ。それらが同時に押し寄せ、演算が音を立てて止まった。ログが赤く点滅する。《出血量の推定:毎分二十ミリリットル。意識維持限界まで、四十一分》。数字は冷静だ。だが、それを読む自分は冷静ではなかった。
怖い、と思った。
それは、解析結果ではなかった。胸の奥から勝手に湧いた、ただの感情だった。
アルクは仰向けのまま、木々の隙間の空を見た。薄い雲の向こうに、淡く揺らぐ膜がある。天球。この星を宇宙から隠している、全波長シールド。美しい、と思った。美しいと思ったことが、さらに怖かった。
そのとき、遠くで、獣の声がした。
長く、高く、尾を引く吠え声。続いて、短い静寂。そして再び、同じ声。
彼は無意識に数えていた。十一秒。次も、十一秒。その次も、十一秒。
――生き物は、こんなに正確に鳴かない。
その違和感を言葉にする前に、視界が狭まっていった。冷たさはもう感じない。ただ、遠くから枯れ葉を踏む音が近づいてくる。足音は軽い。獣のものではない、と思った。
最後に彼が見たのは、揺れる角灯の橙色の光と、こちらを覗き込む小さな影だった。




