第10話 ルート権限
アルクは、狼とリーナのあいだに自分の身体を投げ込んだ。
計算ではなかった。計算は、とうに終わっていた。間に合わない、と答えが出ていた。だから残ったのは、演算の外側にあるものだけだった。
狼の顎が、彼の左腕に食い込んだ。
鋭い音がした。骨に当たる感触があった。熱が、爆発するように肘から肩へ駆け上がる。声が出た。獣のような、自分のものとは思えない声だった。
「アルク!」
リーナの悲鳴が、耳元で割れる。彼女の腕の中で、ピップが引きつった泣き声を上げている。
「下がれ!」
叫びながら、アルクは歯を食いしばった。狼の重みが全身にのしかかる。倒れる。地面に背中を打ちつけ、牙はまだ腕を離さない。琥珀色の目が、すぐ目の前にあった。瞳孔のない、空洞のような目。
その目が、瞬いた。
一斉に。
彼は、数えていた。ずっと数えていた。十一秒の周期。狼たちが止まり、動き、再び止まる、そのリズム。九体は、独立していない。ひとつの制御系に繋がれ、十一秒ごとに同期信号を受けている。
その同期の瞬間だけ、通信の門が開く。
ルート権限で命令を上書きできるのは、その一瞬だけだ。
狼が跳んだのは、同期の直後だった。次の門が開くまで、十一秒。
――それまで、持ちこたえろ。
牙が、さらに深く沈んだ。視界が赤く滲む。痛みが演算を食い荒らしていく。数字が崩れる。二。三。四のあとが、出てこない。
数え直せ、と自分に命じた。一、二、三、四。
思考は鈍い。だがこの数字だけは、まだ握っていられる。リーナが叫んでいる。矢が、狼の背に当たって弾かれる音がした。全部、遠い。
「撃つな!」
アルクは声を絞り出した。
「効かない。あと、数秒だけ、待て。その子たちを、下がらせろ」
足音が、近づいた。
黒い影が、横から飛び込んできた。ヨルグだった。彼は弓を捨て、リーナとピップの肩を抱え込み、自分の背中を狼に向けて盾にした。顔は蒼白で、歯が鳴っていた。それでも、動いていた。
「……動けた」
男が、独り言のように呟いた。
六。七。八。九。
これを使えば、もう戻れない。
ふいに、はっきりとそう思った。マザー・スフィアは見ている。宇宙のどこかで、冷たい論理が、彼の座標を拾い上げる。観察者として最後まで遠くにいるという選択肢は、今この瞬間に消える。
それでも。
「十」
口が、勝手に動いた。
リーナの腕の中で、ピップが顔を上げた。涙で濡れた目が、アルクを見ている。昨日、パンを半分差し出した、あの目だった。
十一。
アルクは、口を開いた。
喉から出たのは、現地の言葉ではなかった。数千年前に滅びた他系統の言語。魔法陣の幾何学が示していた、命令の配列。
《全機、停止》
それは詠唱ではなかった。祈りでも、呪文でもない。ただの、単語だった。ルート権限による、一語の上書き。
世界が、止まった。
腕に噛みついていた狼の顎から、力が抜けた。琥珀色の目が、瞬きの途中で凍る。柵の外に並んでいた八つの影が、一斉に、同じ姿勢で静止した。まるで、巨大な指が、彼らの糸を切ったように。
松明の火だけが、ぱちぱちと音を立てていた。
風が、吹いた。
誰も、声を出さなかった。
アルクは仰向けのまま、夜空を見上げていた。左腕から、熱い液体が流れ続けている。痛みは、まだ全身を支配していた。さっきよりずっと、鮮明だった。
「……痛い」
口から漏れたのは、そんな言葉だった。
視界に、リーナの顔が降りてきた。涙と泥で、ぐしゃぐしゃになった顔だった。彼女は震える手で、彼の腕を掴んだ。
「ばか」
声が、裂けていた。
「ばか、なんで、なんで私の前に出たの。死んだら、どうするの」
「……分からない」
「分からないって、何それ」
「勝手に、動いた」
リーナは言葉を失い、顔を歪めて、アルクの肩に額を押しつけた。小さな肩が、震えていた。腕の中で、ピップも泣いていた。
「ごめんなさい」
少年が、しゃくり上げながら言った。
「お父さんの、パン、落としちゃった。持っていこうと思っただけなのに」
アルクは、血まみれの右手を、のろのろと持ち上げた。少年の頭に、そっと載せる。ぎこちない動きだった。
「パンは、また焼ける」
それしか、言えなかった。
彼らを、ゆっくりと取り囲む影があった。猟師たちだ。ヨルグが先頭に立っている。その手は、空だった。
彼はアルクを見下ろし、停止した狼を見て、また見下ろした。唇が、何度も動きかけて、閉じた。
「……今のは、何だ」
かすれた声だった。
「一言で、止めた。詠唱もなく、陣もなく」
誰かが、息を呑む音がした。
「古い言葉だ。昔話に出てくる……大賢者の」
その呟きが、波紋のように広がっていった。大賢者。人々の口が、その言葉を繰り返す。畏れと、期待と、そして得体の知れない何かを込めて。
アルクは、その声をぼんやりと聞いていた。意識が遠のきかける。リーナの手の温かさだけが、確かだった。
そのとき、頭上で、微かな音がした。
音ではなかった。もっと細い、彼の身体の奥だけが拾う、震えだった。
夜空に、天球が見えた。普段は気づかないほど薄い膜。その一部が、一瞬だけ、水面のように波打った。
視界の端で、HUDが静かに警告を表示した。
《外部信号漏洩:微。軌道船リンク、応答》
アルクは目を閉じた。
もう、観察者には戻れない。




