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堕天のアルケー  作者: 山本田38ページ
第1章 降肉
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第10話 ルート権限

 アルクは、狼とリーナのあいだに自分の身体を投げ込んだ。


 計算ではなかった。計算は、とうに終わっていた。間に合わない、と答えが出ていた。だから残ったのは、演算の外側にあるものだけだった。


 狼の顎が、彼の左腕に食い込んだ。


 鋭い音がした。骨に当たる感触があった。熱が、爆発するように肘から肩へ駆け上がる。声が出た。獣のような、自分のものとは思えない声だった。


「アルク!」


 リーナの悲鳴が、耳元で割れる。彼女の腕の中で、ピップが引きつった泣き声を上げている。


「下がれ!」


 叫びながら、アルクは歯を食いしばった。狼の重みが全身にのしかかる。倒れる。地面に背中を打ちつけ、牙はまだ腕を離さない。琥珀色の目が、すぐ目の前にあった。瞳孔のない、空洞のような目。


 その目が、瞬いた。


 一斉に。


 彼は、数えていた。ずっと数えていた。十一秒の周期。狼たちが止まり、動き、再び止まる、そのリズム。九体は、独立していない。ひとつの制御系に繋がれ、十一秒ごとに同期信号を受けている。


 その同期の瞬間だけ、通信の門が開く。


 ルート権限で命令を上書きできるのは、その一瞬だけだ。


 狼が跳んだのは、同期の直後だった。次の門が開くまで、十一秒。


 ――それまで、持ちこたえろ。


 牙が、さらに深く沈んだ。視界が赤く滲む。痛みが演算を食い荒らしていく。数字が崩れる。二。三。四のあとが、出てこない。


 数え直せ、と自分に命じた。一、二、三、四。


 思考は鈍い。だがこの数字だけは、まだ握っていられる。リーナが叫んでいる。矢が、狼の背に当たって弾かれる音がした。全部、遠い。


「撃つな!」


 アルクは声を絞り出した。


「効かない。あと、数秒だけ、待て。その子たちを、下がらせろ」


 足音が、近づいた。


 黒い影が、横から飛び込んできた。ヨルグだった。彼は弓を捨て、リーナとピップの肩を抱え込み、自分の背中を狼に向けて盾にした。顔は蒼白で、歯が鳴っていた。それでも、動いていた。


「……動けた」


 男が、独り言のように呟いた。


 六。七。八。九。


 これを使えば、もう戻れない。


 ふいに、はっきりとそう思った。マザー・スフィアは見ている。宇宙のどこかで、冷たい論理が、彼の座標を拾い上げる。観察者として最後まで遠くにいるという選択肢は、今この瞬間に消える。


 それでも。


「十」


 口が、勝手に動いた。


 リーナの腕の中で、ピップが顔を上げた。涙で濡れた目が、アルクを見ている。昨日、パンを半分差し出した、あの目だった。


 十一。


 アルクは、口を開いた。


 喉から出たのは、現地の言葉ではなかった。数千年前に滅びた他系統の言語。魔法陣の幾何学が示していた、命令の配列。


 《全機、停止》


 それは詠唱ではなかった。祈りでも、呪文でもない。ただの、単語だった。ルート権限による、一語の上書き。


 世界が、止まった。


 腕に噛みついていた狼の顎から、力が抜けた。琥珀色の目が、瞬きの途中で凍る。柵の外に並んでいた八つの影が、一斉に、同じ姿勢で静止した。まるで、巨大な指が、彼らの糸を切ったように。


 松明の火だけが、ぱちぱちと音を立てていた。


 風が、吹いた。


 誰も、声を出さなかった。


 アルクは仰向けのまま、夜空を見上げていた。左腕から、熱い液体が流れ続けている。痛みは、まだ全身を支配していた。さっきよりずっと、鮮明だった。


「……痛い」


 口から漏れたのは、そんな言葉だった。


 視界に、リーナの顔が降りてきた。涙と泥で、ぐしゃぐしゃになった顔だった。彼女は震える手で、彼の腕を掴んだ。


「ばか」


 声が、裂けていた。


「ばか、なんで、なんで私の前に出たの。死んだら、どうするの」


「……分からない」


「分からないって、何それ」


「勝手に、動いた」


 リーナは言葉を失い、顔を歪めて、アルクの肩に額を押しつけた。小さな肩が、震えていた。腕の中で、ピップも泣いていた。


「ごめんなさい」


 少年が、しゃくり上げながら言った。


「お父さんの、パン、落としちゃった。持っていこうと思っただけなのに」


 アルクは、血まみれの右手を、のろのろと持ち上げた。少年の頭に、そっと載せる。ぎこちない動きだった。


「パンは、また焼ける」


 それしか、言えなかった。


 彼らを、ゆっくりと取り囲む影があった。猟師たちだ。ヨルグが先頭に立っている。その手は、空だった。


 彼はアルクを見下ろし、停止した狼を見て、また見下ろした。唇が、何度も動きかけて、閉じた。


「……今のは、何だ」


 かすれた声だった。


「一言で、止めた。詠唱もなく、陣もなく」


 誰かが、息を呑む音がした。


「古い言葉だ。昔話に出てくる……大賢者の」


 その呟きが、波紋のように広がっていった。大賢者。人々の口が、その言葉を繰り返す。畏れと、期待と、そして得体の知れない何かを込めて。


 アルクは、その声をぼんやりと聞いていた。意識が遠のきかける。リーナの手の温かさだけが、確かだった。


 そのとき、頭上で、微かな音がした。


 音ではなかった。もっと細い、彼の身体の奥だけが拾う、震えだった。


 夜空に、天球が見えた。普段は気づかないほど薄い膜。その一部が、一瞬だけ、水面のように波打った。


 視界の端で、HUDが静かに警告を表示した。


 《外部信号漏洩:微。軌道船リンク、応答》


 アルクは目を閉じた。


 もう、観察者には戻れない。


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