第11話 起動時刻
最初の感謝は、パンだった。
夜半を過ぎた頃、アルクはリーナの家の炉端に座っていた。左腕には、セレナが銀露草を貼り、きつく布を巻いてくれている。傷は深く、骨にも響いていたが、止血は済んでいた。その腕の上に、戸口から差し出された手が、黒パンの塊を置いた。
「うちの子が、世話になった」
ピップの父だった。猟師の大きな手が、小刻みに震えている。
「何も返せないが、これを」
彼は深く頭を下げ、背を向けた。入れ替わるように、次の人が現れた。隣家の老婆が、干し肉を持ってきた。昼間、冷ややかに彼を見ていた、あの老婆だった。
「大賢者様。昼間は、失礼を」
「違う。私は、ただ」
「ありがたいことです。ありがたいことです」
老婆は何度も頭を下げ、去っていった。その後も、人々は絶え間なく訪れた。卵、蜂蜜、毛織りの帯。誰もが、同じ言葉を繰り返す。大賢者様。
アルクの膝の上に、贈り物が積み上がっていった。
重い、と思った。
パンの重さではなかった。向けられる眼差しの重さだった。畏れと、感謝と、期待。彼がまだ何者でもないと知っていたら、誰も差し出さなかったはずのものたち。
「受け取っておきなさい」
寝台から、セレナが穏やかに言った。
「断ると、かえって悲しませるわ」
「受け取る資格が、ない」
「資格なんて、誰にもないのよ。だから、人は分け合うの」
彼女は少し笑って、続けた。
「あなた、顔が昔の私と同じ。人に助けられる資格がないと思っている顔」
アルクは何も返せなかった。
やがて、戸口に新しい影が立った。ヨルグだった。夜の闇を背に、帽子を握りしめている。
「……悪かった」
短い声だった。
「疑った。散々、言った。あんたは、俺の背を預けるに足る男だった。子供たちを救ってくれた。礼を言う」
「あなたが先に動いたから、私は間に合った」
「俺が?」
「リーナとピップを、庇っただろう」
ヨルグは目を伏せた。長い間のあと、唇の端が、わずかに歪んだ。
「……あの夜は、動けなかった。今日は、動けた。それだけは、あんたのおかげだ」
男はそれ以上は言わず、帽子を被り直して去った。アルクは、その背中を見送った。
感謝の列が途切れたのは、東の空が薄く白み始めた頃だった。
アルクは、オットーを探した。老人は、村の北の柵の傍で、停止した九体の狼を見張っていた。昼間の険しさは消え、疲れた老人の顔だけがあった。
「村長。この魔物を、調べさせてもらえませんか」
「調べる?」
「なぜ動き始めたのか。何が操っているのか。分からなければ、また来ます」
オットーは、長い間、彼を見つめた。それから、杖を下ろした。
「約束の三日は、今夜で終わる」
アルクの肩が、強張った。
「だが、お前は村の子を救った。リーナは、誇りを持って保証人を務めた。……三日などという数え方は、もう要らん。好きなだけ、ここにいろ」
「……ありがとうございます」
「礼を言うのは、こちらだ。調べるがいい。ただし、ひとりでな。わしらは、近づかん」
老人はそう言って、猟師たちを下がらせた。
柵の外に、アルクは一人で出た。夜明け前の冷たい空気が、傷に沁みる。九体の狼は、さっきと同じ姿勢で凍りついていた。その一体、最初に腕を噛んだ個体のそばに、膝をつく。
首筋の装甲板に、右の掌を当てた。
冷たい。金属とも陶器ともつかない、滑らかな表面。接触通信。外部へ電波を出さず、直接触れて記録を読む。露出は、最小限で済むはずだった。
視界が切り替わる。
制御核のログが、膨大な文字列となって流れ込んだ。大半は、意味を持たない保守データだ。彼はそれを払いのけ、必要な項目だけを拾った。
《稼働状態:休眠(約一万年)》
《覚醒信号:受信》
《起動時刻:四日前、日没直後》
指が、止まった。
《外部到来イベント検知:高エネルギー体、大気圏突入。侵入者プロトコル、発動》
彼の降下時刻と、照合する。
誤差、零点七秒。
息が、止まった。
一万年眠っていた機械が、彼が降りた瞬間に、目を覚ました。
偶然ではない。空に走った光の筋。鳥が飛び立った森。谷の狼の足跡。リーナの怯えた目。ヨルグの過去と同じ形の包囲。ピップの角灯。腕に食い込んだ牙。
全てが、一本の線で繋がっていた。
――私が、来たからだ。
彼は、掌を狼から離せなかった。指先が冷たい。胸のどこかが、ぎしぎしと軋んだ。誰かを守るために力を使ったのだと、先ほどまでは思っていた。そうではなかった。自分が呼び起こした危機を、自分で止めただけだった。
ログには、続きがあった。
《同期信号源:北北西約三キロ、地下。起動中》
地下。北北西、三キロ。リーナが案内してくれた「灰の口」の方角だった。
――あそこに、何かがいる。
その思考は、すぐに別の感情に押し流された。罪悪感、という名前を、彼はそのとき初めて知った。
「アルク」
背後で、声がした。
振り返ると、リーナが立っていた。湯気の立つ木の椀を、両手で抱えている。髪は乱れ、目の縁は赤く腫れていた。
「眠れなくて。村長さんに、ここだって聞いたの。……粥、持ってきた」
彼女は椀を差し出した。アルクは右手で受け取った。熱が、掌に広がる。
「何か、分かった?」
彼は答えなかった。リーナが、まっすぐに見つめている。昨日、彼女に教えたこと。母の病の原因を、調べると約束したこと。彼女は期待している。この魔物の正体を、彼ならば知れるはずだと。
言えば、彼女は何を思うだろう。守ってくれた男が、危機の元凶だったと知ったら。
「……何も」
喉が、乾いていた。
「古い機械が、誤作動を起こしていただけだ。理由までは、分からなかった」
リーナは、じっと彼の顔を見た。それから、ゆっくりと、右の眉を指さした。
「それ」
「なに」
「あなたの右の眉。いま、上がってる」
アルクは、息を呑んだ。
リーナは、少しだけ悲しそうに笑った。
「嘘が下手なのは、母さんと私だけじゃないのね」
彼女はそれ以上、何も問わなかった。ただ椀を指さして、「冷めるよ」と言った。
アルクは粥を口に運んだ。温かい。味も、同じだ。それなのに、喉を通らなかった。
東の空が、白く染まっていく。誰かの感謝と、誰かの優しさと、取り返しのつかない罪が、彼の胸の中で同じ重さで揺れていた。




