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堕天のアルケー  作者: 山本田38ページ
第1章 降肉
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第11話 起動時刻

 最初の感謝は、パンだった。


 夜半を過ぎた頃、アルクはリーナの家の炉端に座っていた。左腕には、セレナが銀露草を貼り、きつく布を巻いてくれている。傷は深く、骨にも響いていたが、止血は済んでいた。その腕の上に、戸口から差し出された手が、黒パンの塊を置いた。


「うちの子が、世話になった」


 ピップの父だった。猟師の大きな手が、小刻みに震えている。


「何も返せないが、これを」


 彼は深く頭を下げ、背を向けた。入れ替わるように、次の人が現れた。隣家の老婆が、干し肉を持ってきた。昼間、冷ややかに彼を見ていた、あの老婆だった。


「大賢者様。昼間は、失礼を」


「違う。私は、ただ」


「ありがたいことです。ありがたいことです」


 老婆は何度も頭を下げ、去っていった。その後も、人々は絶え間なく訪れた。卵、蜂蜜、毛織りの帯。誰もが、同じ言葉を繰り返す。大賢者様。


 アルクの膝の上に、贈り物が積み上がっていった。


 重い、と思った。


 パンの重さではなかった。向けられる眼差しの重さだった。畏れと、感謝と、期待。彼がまだ何者でもないと知っていたら、誰も差し出さなかったはずのものたち。


「受け取っておきなさい」


 寝台から、セレナが穏やかに言った。


「断ると、かえって悲しませるわ」


「受け取る資格が、ない」


「資格なんて、誰にもないのよ。だから、人は分け合うの」


 彼女は少し笑って、続けた。


「あなた、顔が昔の私と同じ。人に助けられる資格がないと思っている顔」


 アルクは何も返せなかった。


 やがて、戸口に新しい影が立った。ヨルグだった。夜の闇を背に、帽子を握りしめている。


「……悪かった」


 短い声だった。


「疑った。散々、言った。あんたは、俺の背を預けるに足る男だった。子供たちを救ってくれた。礼を言う」


「あなたが先に動いたから、私は間に合った」


「俺が?」


「リーナとピップを、庇っただろう」


 ヨルグは目を伏せた。長い間のあと、唇の端が、わずかに歪んだ。


「……あの夜は、動けなかった。今日は、動けた。それだけは、あんたのおかげだ」


 男はそれ以上は言わず、帽子を被り直して去った。アルクは、その背中を見送った。


 感謝の列が途切れたのは、東の空が薄く白み始めた頃だった。


 アルクは、オットーを探した。老人は、村の北の柵の傍で、停止した九体の狼を見張っていた。昼間の険しさは消え、疲れた老人の顔だけがあった。


「村長。この魔物を、調べさせてもらえませんか」


「調べる?」


「なぜ動き始めたのか。何が操っているのか。分からなければ、また来ます」


 オットーは、長い間、彼を見つめた。それから、杖を下ろした。


「約束の三日は、今夜で終わる」


 アルクの肩が、強張った。


「だが、お前は村の子を救った。リーナは、誇りを持って保証人を務めた。……三日などという数え方は、もう要らん。好きなだけ、ここにいろ」


「……ありがとうございます」


「礼を言うのは、こちらだ。調べるがいい。ただし、ひとりでな。わしらは、近づかん」


 老人はそう言って、猟師たちを下がらせた。


 柵の外に、アルクは一人で出た。夜明け前の冷たい空気が、傷に沁みる。九体の狼は、さっきと同じ姿勢で凍りついていた。その一体、最初に腕を噛んだ個体のそばに、膝をつく。


 首筋の装甲板に、右の掌を当てた。


 冷たい。金属とも陶器ともつかない、滑らかな表面。接触通信。外部へ電波を出さず、直接触れて記録を読む。露出は、最小限で済むはずだった。


 視界が切り替わる。


 制御核のログが、膨大な文字列となって流れ込んだ。大半は、意味を持たない保守データだ。彼はそれを払いのけ、必要な項目だけを拾った。


 《稼働状態:休眠(約一万年)》

 《覚醒信号:受信》

 《起動時刻:四日前、日没直後》


 指が、止まった。


 《外部到来イベント検知:高エネルギー体、大気圏突入。侵入者プロトコル、発動》


 彼の降下時刻と、照合する。


 誤差、零点七秒。


 息が、止まった。


 一万年眠っていた機械が、彼が降りた瞬間に、目を覚ました。


 偶然ではない。空に走った光の筋。鳥が飛び立った森。谷の狼の足跡。リーナの怯えた目。ヨルグの過去と同じ形の包囲。ピップの角灯。腕に食い込んだ牙。


 全てが、一本の線で繋がっていた。


 ――私が、来たからだ。


 彼は、掌を狼から離せなかった。指先が冷たい。胸のどこかが、ぎしぎしと軋んだ。誰かを守るために力を使ったのだと、先ほどまでは思っていた。そうではなかった。自分が呼び起こした危機を、自分で止めただけだった。


 ログには、続きがあった。


 《同期信号源:北北西約三キロ、地下。起動中》


 地下。北北西、三キロ。リーナが案内してくれた「灰の口」の方角だった。


 ――あそこに、何かがいる。


 その思考は、すぐに別の感情に押し流された。罪悪感、という名前を、彼はそのとき初めて知った。


「アルク」


 背後で、声がした。


 振り返ると、リーナが立っていた。湯気の立つ木の椀を、両手で抱えている。髪は乱れ、目の縁は赤く腫れていた。


「眠れなくて。村長さんに、ここだって聞いたの。……粥、持ってきた」


 彼女は椀を差し出した。アルクは右手で受け取った。熱が、掌に広がる。


「何か、分かった?」


 彼は答えなかった。リーナが、まっすぐに見つめている。昨日、彼女に教えたこと。母の病の原因を、調べると約束したこと。彼女は期待している。この魔物の正体を、彼ならば知れるはずだと。


 言えば、彼女は何を思うだろう。守ってくれた男が、危機の元凶だったと知ったら。


「……何も」


 喉が、乾いていた。


「古い機械が、誤作動を起こしていただけだ。理由までは、分からなかった」


 リーナは、じっと彼の顔を見た。それから、ゆっくりと、右の眉を指さした。


「それ」


「なに」


「あなたの右の眉。いま、上がってる」


 アルクは、息を呑んだ。


 リーナは、少しだけ悲しそうに笑った。


「嘘が下手なのは、母さんと私だけじゃないのね」


 彼女はそれ以上、何も問わなかった。ただ椀を指さして、「冷めるよ」と言った。


 アルクは粥を口に運んだ。温かい。味も、同じだ。それなのに、喉を通らなかった。


 東の空が、白く染まっていく。誰かの感謝と、誰かの優しさと、取り返しのつかない罪が、彼の胸の中で同じ重さで揺れていた。


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