第12話 約束
「さっきの嘘を、訂正させてくれ」
粥の椀を膝に置いたまま、アルクは言った。柵の傍の岩の上で、リーナが隣に腰を下ろしている。東の空は薄い金色に変わり、停止した狼たちの影が、長く地面に伸びていた。
「いいの? 言いたくないんでしょう」
「言いたくない。だが、言わなければならない」
リーナは黙って、先を待った。
アルクは右手で左腕の布を押さえた。痛みが、考えを一箇所に押し留めてくれる。
「私は、旅の学者ではない。この星の人間でもない。遠い所から来た」
「遠い所って」
「空の、向こうだ。そこから降りてきた」
彼女は、驚かなかった。瞬きを一度だけして、静かに息を吐いた。
「やっぱり。あの光の筋は、あなただったのね」
「気づいていたのか」
「光の筋が走った、その夜に、あなたは森で倒れていた。それに、谷で狼の周期を言い当てたでしょう。ただの学者に、できることじゃない」
あまりにも簡単に言われて、アルクは言葉に詰まった。この少女は、解析もせず、数字も持たず、事実だけを見て結論に辿り着いていた。
「あの魔物は」
喉が、固くなる。それでも続けた。
「眠っていた。長い間。それが目を覚ましたのは、私が降りてきたからだ。さっき、記録を読んで分かった」
リーナの肩が、ぴくりと動いた。
「村が襲われたのも、ピップが危険な目に遭ったのも、元は私のせいだ。だから、助けたことを誇る資格は、私にはない」
風が吹いた。停止した狼の毛並みが、微かに揺れる。
リーナは長いあいだ、何も言わなかった。アルクは目を伏せた。怒鳴られるか、拒まれるか。どちらでも、受け入れるつもりだった。
「ばか」
返ってきたのは、その一言だった。
「また、それか」
「また言うわよ。何度でも」
彼女は立ち上がり、アルクの前に回り込んだ。茶色の瞳が、朝の光を映して揺れている。
「あなたが来なければ、あの魔物は、もっと遅くに、別の形で目を覚ましたかもしれない。それとも、永遠に眠ったままだったかもしれない。分からないでしょう?」
「……分からない」
「分からないことで、自分を責めないで。でも、責任があると思うなら」
彼女は右手の人差し指を、アルクの鼻先に突きつけた。
「最後まで調べて。母さんの病気も、この魔物のことも。途中で逃げたら、許さない」
アルクは、目を瞬いた。
それは、赦しではなかった。断罪でもなかった。もっと強い、約束の形をしていた。逃げるなという命令。ここに居場所を残してやるという宣告。
「……約束する」
声が、掠れた。
「最後まで、調べる。逃げない」
「よし」
リーナは笑った。目の縁が、まだ赤く腫れているのに、確かに笑っていた。
「じゃあ、それ、冷めないうちに食べて。その椀、あとで返してもらうから」
アルクは粥を口に運んだ。さっきは通らなかった喉を、今度は温かさが滑り落ちていった。
太陽が地平を離れたころ、村の入口の方から、馬の蹄の音が響いた。
鎧ではない。白と灰の法衣をまとった若い男が、二頭立ての屋根付き馬車の先頭で、馬を降りた。後ろには、護衛の騎士が二人。胸には、鐘と螺旋を組み合わせた紋章がある。
「天蓋教会の使者、司祭補ユリウスと申します」
男は、集まった村人の前で、丁寧に頭を下げた。
「四日前の夜、空に光が走ったとの報せを受け、周辺の村を巡っておりました。そして昨夜の出来事を、先ほど耳にしました。魔物を一言で鎮めた賢者がいる、と」
視線が、一斉にアルクに集まった。
「大司教ミレイユ・アウレリア猊下は、あの光の夜から、その方を探しておられました。ぜひ、王都ヴェルトリアへお越しいただきたい」
オットーが、杖を鳴らして進み出た。
「猊下が、わしらの村の客人を?」
「お望みであれば、すぐに王都までお送りします。それと」
ユリウスは、視線を滑らせた。リーナと、その背後の家へ。
「こちらに、魔力枯れ病を患う方がいると伺いました。教会の医院には、最上の癒し手と寝台が揃っています。付き添いの方も、ご一緒に」
リーナの息が、止まった。
アルクは、胸の奥で小さく警鐘が鳴るのを感じていた。偶然にしては、出来すぎている。しかし同時に、それは、リーナが何よりも求めていた機会でもあった。
彼女が、振り返った。
その目に、迷いはなかった。ただ、アルクの返事を待っていた。
「……行こう」
アルクが言うと、リーナは頷いた。それから、家の中へ駆け込んだ。
出立の支度は、あっという間だった。
セレナは、家の戸口に立っていた。肩掛けを羽織り、杖に頼っている。使者の紋章を見たとき、彼女の指が一瞬だけ強張ったのを、アルクは見た。しかし彼女は、何事もなかったように微笑んだ。
「鐘を打っていた者が、教会に呼ばれるなんてね。巡り合わせというものかしら」
「母さん、無理しないで」
「大丈夫よ。あなたが、そう決めたのだもの」
馬車の傍で、ピップが待っていた。両手に、真新しい黒パンを抱えている。
「これ。今度は、ちゃんと焼いたやつ。落としてない」
「ありがとう」
「また、来てね」
アルクは、屈んで少年の目の高さに合わせ、受け取った。パンはまだ、温かかった。
その横に、ヨルグが立っていた。腰から短い刃物を外し、無言で差し出す。
「次は、パンを切るなら、これを使え」
口の端が、微かに上がっていた。アルクは、右手でそれを受け取った。
「大事にする」
馬車が動き出した。車輪が、土を噛む。窓の外で、村人たちが手を振っていた。小さな鐘楼が、朝の光の中で、静かに立っている。
やがて、鐘が鳴った。祈りの鐘ではない。見送りの、ゆっくりした音だった。
隣の席で、セレナが目を閉じた。眉が、僅かに寄る。リーナがその手を握る。濃度表示は、十二から十へ、静かに落ちた。
アルクは、窓から目を離した。使者のユリウスが、封をした書状を差し出していた。
「猊下からの、お言葉です。道中でお読みください」
受け取った。厚手の羊皮紙。赤い封蝋。そこに押された紋が、掌の下で冷たく光った。
鐘と螺旋。その中心を貫く、幾何学の線。
アルクは、息を止めた。
見覚えがあった。昨日、リーナが案内してくれた、灰の口の扉。苔の下に刻まれていた、あの配列と、同じだった。




