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堕天のアルケー  作者: 山本田38ページ
第1章 降肉
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第12話 約束

「さっきの嘘を、訂正させてくれ」


 粥の椀を膝に置いたまま、アルクは言った。柵の傍の岩の上で、リーナが隣に腰を下ろしている。東の空は薄い金色に変わり、停止した狼たちの影が、長く地面に伸びていた。


「いいの? 言いたくないんでしょう」


「言いたくない。だが、言わなければならない」


 リーナは黙って、先を待った。


 アルクは右手で左腕の布を押さえた。痛みが、考えを一箇所に押し留めてくれる。


「私は、旅の学者ではない。この星の人間でもない。遠い所から来た」


「遠い所って」


「空の、向こうだ。そこから降りてきた」


 彼女は、驚かなかった。瞬きを一度だけして、静かに息を吐いた。


「やっぱり。あの光の筋は、あなただったのね」


「気づいていたのか」


「光の筋が走った、その夜に、あなたは森で倒れていた。それに、谷で狼の周期を言い当てたでしょう。ただの学者に、できることじゃない」


 あまりにも簡単に言われて、アルクは言葉に詰まった。この少女は、解析もせず、数字も持たず、事実だけを見て結論に辿り着いていた。


「あの魔物は」


 喉が、固くなる。それでも続けた。


「眠っていた。長い間。それが目を覚ましたのは、私が降りてきたからだ。さっき、記録を読んで分かった」


 リーナの肩が、ぴくりと動いた。


「村が襲われたのも、ピップが危険な目に遭ったのも、元は私のせいだ。だから、助けたことを誇る資格は、私にはない」


 風が吹いた。停止した狼の毛並みが、微かに揺れる。


 リーナは長いあいだ、何も言わなかった。アルクは目を伏せた。怒鳴られるか、拒まれるか。どちらでも、受け入れるつもりだった。


「ばか」


 返ってきたのは、その一言だった。


「また、それか」


「また言うわよ。何度でも」


 彼女は立ち上がり、アルクの前に回り込んだ。茶色の瞳が、朝の光を映して揺れている。


「あなたが来なければ、あの魔物は、もっと遅くに、別の形で目を覚ましたかもしれない。それとも、永遠に眠ったままだったかもしれない。分からないでしょう?」


「……分からない」


「分からないことで、自分を責めないで。でも、責任があると思うなら」


 彼女は右手の人差し指を、アルクの鼻先に突きつけた。


「最後まで調べて。母さんの病気も、この魔物のことも。途中で逃げたら、許さない」


 アルクは、目を瞬いた。


 それは、赦しではなかった。断罪でもなかった。もっと強い、約束の形をしていた。逃げるなという命令。ここに居場所を残してやるという宣告。


「……約束する」


 声が、掠れた。


「最後まで、調べる。逃げない」


「よし」


 リーナは笑った。目の縁が、まだ赤く腫れているのに、確かに笑っていた。


「じゃあ、それ、冷めないうちに食べて。その椀、あとで返してもらうから」


 アルクは粥を口に運んだ。さっきは通らなかった喉を、今度は温かさが滑り落ちていった。


 太陽が地平を離れたころ、村の入口の方から、馬の蹄の音が響いた。


 鎧ではない。白と灰の法衣をまとった若い男が、二頭立ての屋根付き馬車の先頭で、馬を降りた。後ろには、護衛の騎士が二人。胸には、鐘と螺旋を組み合わせた紋章がある。


「天蓋教会の使者、司祭補ユリウスと申します」


 男は、集まった村人の前で、丁寧に頭を下げた。


「四日前の夜、空に光が走ったとの報せを受け、周辺の村を巡っておりました。そして昨夜の出来事を、先ほど耳にしました。魔物を一言で鎮めた賢者がいる、と」


 視線が、一斉にアルクに集まった。


「大司教ミレイユ・アウレリア猊下は、あの光の夜から、その方を探しておられました。ぜひ、王都ヴェルトリアへお越しいただきたい」


 オットーが、杖を鳴らして進み出た。


「猊下が、わしらの村の客人を?」


「お望みであれば、すぐに王都までお送りします。それと」


 ユリウスは、視線を滑らせた。リーナと、その背後の家へ。


「こちらに、魔力枯れ病を患う方がいると伺いました。教会の医院には、最上の癒し手と寝台が揃っています。付き添いの方も、ご一緒に」


 リーナの息が、止まった。


 アルクは、胸の奥で小さく警鐘が鳴るのを感じていた。偶然にしては、出来すぎている。しかし同時に、それは、リーナが何よりも求めていた機会でもあった。


 彼女が、振り返った。


 その目に、迷いはなかった。ただ、アルクの返事を待っていた。


「……行こう」


 アルクが言うと、リーナは頷いた。それから、家の中へ駆け込んだ。


 出立の支度は、あっという間だった。


 セレナは、家の戸口に立っていた。肩掛けを羽織り、杖に頼っている。使者の紋章を見たとき、彼女の指が一瞬だけ強張ったのを、アルクは見た。しかし彼女は、何事もなかったように微笑んだ。


「鐘を打っていた者が、教会に呼ばれるなんてね。巡り合わせというものかしら」


「母さん、無理しないで」


「大丈夫よ。あなたが、そう決めたのだもの」


 馬車の傍で、ピップが待っていた。両手に、真新しい黒パンを抱えている。


「これ。今度は、ちゃんと焼いたやつ。落としてない」


「ありがとう」


「また、来てね」


 アルクは、屈んで少年の目の高さに合わせ、受け取った。パンはまだ、温かかった。


 その横に、ヨルグが立っていた。腰から短い刃物を外し、無言で差し出す。


「次は、パンを切るなら、これを使え」


 口の端が、微かに上がっていた。アルクは、右手でそれを受け取った。


「大事にする」


 馬車が動き出した。車輪が、土を噛む。窓の外で、村人たちが手を振っていた。小さな鐘楼が、朝の光の中で、静かに立っている。


 やがて、鐘が鳴った。祈りの鐘ではない。見送りの、ゆっくりした音だった。


 隣の席で、セレナが目を閉じた。眉が、僅かに寄る。リーナがその手を握る。濃度表示は、十二から十へ、静かに落ちた。


 アルクは、窓から目を離した。使者のユリウスが、封をした書状を差し出していた。


「猊下からの、お言葉です。道中でお読みください」


 受け取った。厚手の羊皮紙。赤い封蝋。そこに押された紋が、掌の下で冷たく光った。


 鐘と螺旋。その中心を貫く、幾何学の線。


 アルクは、息を止めた。


 見覚えがあった。昨日、リーナが案内してくれた、灰の口の扉。苔の下に刻まれていた、あの配列と、同じだった。


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