第1話 王都の門
城壁は、空を切り取っていた。
三日の旅の果てに、馬車はヴェルトリアの正門の前で止まった。灰色の石を積み上げた壁は高く、塔の上には教会の旗が翻っている。門の前には荷車の列が伸び、商人や巡礼者が門の前で順番を待っていた。
「あれが、王都……」
窓から身を乗り出したリーナが、息を呑んだ。隣でセレナが、膝掛けを胸元まで引き上げて微笑む。
「大きいでしょう。私も最後に来たのは、二十年以上前だわ」
アルクは窓の外ではなく、壁の上を見ていた。
HUDの視界に、淡い青の網が重なっている。城壁全体を覆う、見えない膜。結界網だ。構造としては、天球と同系統の防衛機構の縮小版と思われた。ただ、網目のところどころが、薄い。
一瞬、塔の上の空間が、揺らいだ。風に灯火が揺らぐような、ちらつき。数秒で収まった。
誰も、気づいていない。
「アルク殿?」
向かいの席から、司祭補のユリウスが声をかけた。
「何か、お気づきの点でも」
「……いえ。大きな街だと思って」
彼は曖昧に頷いた。その掌の中で、道中に開封した書状が、皺になっている。
厚手の羊皮紙に書かれていたのは、一行だけだった。
《道を開けて、お待ちしております。ミレイユ》
それ以上の説明は、どこにもなかった。封蝋の紋だけが、三日前に見たままの配列で、羊皮紙の端に残っている。
馬車は門をくぐった。騎士に紋章を示したユリウスの顔を見て、衛兵は何も問わずに道を開けた。
街の石畳は、馬車の車輪を鳴らした。店先の香辛料の匂い、鍛冶屋の槌音、遠くで鳴る鐘。人々が行き交い、見慣れない一行を見上げる。ささやき声が聞こえた。
「大賢者様だ」「村を救ったっていう」「あの方か」
噂のほうが、先に着いていた。アルクは目を伏せた。
大聖堂は、街の中央にそびえていた。尖塔の先に、巨大な青銅の鐘が吊られている。その隣に、白い壁の長い建物が連なっていた。教会付属の医院だ。
受付の石の広間には、薬草と石鹸の匂いが漂っていた。ユリウスが奥へ駆けていき、しばらくして、恰幅のいい司祭を伴って戻ってきた。
「医院長補佐のベルナールです」
男は一行を見回した。視線が、セレナの青い肩掛け、リーナの擦り切れた靴、アルクの腕の包帯の上を順に滑る。
「魔力枯れ病の患者、ということですが」
「はい。母です」
リーナが一歩前に出た。
「この医院は、治癒の見込みのある患者を優先します。魔力枯れ病は、現在の教会の癒しでは根治できません」
淡々とした声だった。
「治療不能と判断された方は、市外の施療院で、穏やかに過ごしていただくのが規則です」
リーナの顔が強張った。
「でも、使者の方が、受け入れてくださると」
「使者殿の独断です。わたくしの許可は、受けておりません」
ユリウスが何かを言いかけ、口を閉じた。ベルナールの肩越しに、「異端」という言葉が、見えない影のように浮かんで見えた。素性の知れない男を連れた、病の母娘。規則を守るにはこの上ない、都合のいい理由だった。
アルクは思考した。
ここで力を使えば、方法はいくらでもある。教会の台帳を書き換え、司祭の判断に介入し、入院の許可を得る。ただし、それは村で学んだことの反対だ。力を使えば、何かが動く。
だから、言葉を探した。
「規則を、見せてもらえますか」
「は?」
「医院の規則です。入院を認めない条件が、どう書かれているのか」
ベルナールは眉をひそめた。それでも、近くの修道士に命じて、羊皮紙の綴りを持ってこさせた。アルクはそれを受け取り、文面を目で追った。
古い言葉の羅列。長い条項。その末尾に、小さく、例外が記されていた。
「ここに『教会に仕えた者は、病の如何を問わず、その最期まで庇護する』とあります」
「それは、聖職者や修道士のことで」
「『仕えた者』としか書いていない」
ベルナールは、口を開き、閉じた。
「セレナ」
アルクは振り返った。
「あなたは、鐘守だったと言った。それは、教会に仕えた、ということではないのか」
セレナは少し驚いた顔をして、それから、静かに頷いた。
「ええ。二十年ほど前まで、アシュフェンの鐘楼で。この大聖堂で、見習いの頃も」
「鐘守の、名簿が」
ベルナールが顔色を変えた。
「名前を。もう一度」
「セレナ・ハートウェル」
男は返事もせずに、背後の修道士に何かを囁いた。若い修道士が走り去り、数分後、別の分厚い帳面を抱えて戻ってきた。ベルナールは震える指で頁をめくり、ある行で止まった。
その顔から、血の気が引いた。
「……確認、いたしました」
声が、別人のように低くなった。
「鐘守、第七期。ご存命でおられたとは。……失礼を」
彼は、深く頭を下げた。先ほどまでの傲慢さが、嘘のように消えていた。リーナが目を丸くしている。
「どうして急に」
「鐘守は、教会にとって特別な方々です。すぐに、特別室へ。人払いも」
「人払い?」
リーナの疑問に、答える者はいなかった。
その時、広間の奥から、衣擦れの音が近づいてきた。
白い法衣の女性が、数人の侍祭を従えて現れた。四十代半ば。銀の髪を後ろで束ね、首には小さな鐘の形の飾りを下げている。年齢のわりに背筋は真っ直ぐで、目は穏やかな灰色をしていた。
大司教ミレイユ・アウレリア。
ベルナールが慌てて膝をつく。しかし彼女は、その横を通り過ぎた。ユリウスも、アルクも、視界に入っていないかのように。
まっすぐに、セレナの前に立った。
そして、深く、頭を下げた。
「お務め、ご苦労様でした」
広間が、静まった。
大司教が、一介の病人に、頭を下げている。リーナの口が半開きのまま固まった。ベルナールは、床を見つめている。
セレナの笑みが、ほんの少しだけ、強張った。
「……そのように、なさらないでください、猊下」
「いいえ。せめてこれだけは」
ミレイユは顔を上げた。目の縁が、微かに潤んでいるように見えた。それはすぐに消え、穏やかな微笑みが彼女の顔に戻った。
それから、彼女はアルクを見た。
灰色の瞳が、彼を捉える。長い時間を、数えるように。
「そして、あなたが」
声は、静かで、深かった。
「長らく、お待ち申しておりました」
アルクの背筋に、微かな冷たさが走った。
それは歓迎の定型句にも聞こえた。しかし、同じ言葉の奥に、別の重さが沈んでいる。
「猊下。私は、あなたに会ったことが」
「ありません。ですが、そうなのです」
ミレイユは小さく笑い、続けた。
「この方の病は、教会が責任を持って診ます。部屋も用意させました。お連れの方も、ご一緒に」
「ありがとうございます」
リーナが、潤んだ声で頭を下げた。肩が震えている。アルクは、その横顔を見て、ようやく息を吐いた。
「ただ」
ミレイユが、人差し指を唇の前で立てた。
「ひとつだけ、お願いがあります。後日で構いません。あなたにしかできないことが、この街にはあるのです」
それは、条件だった。
アルクは、リーナとセレナの顔を見た。ここで拒めば、全てが白紙に戻る。受ければ、借りができる。村で、リーナが自分のために背負った、あの重さと同じものが。
「……話を、聞くだけなら」
「十分です」
ミレイユは満足げに頷いた。
特別室は、広い部屋だった。窓から大聖堂の尖塔が見え、清潔な寝台が二つ並んでいる。セレナが寝台に腰を下ろし、ふっと息を吐いた。
「まあ。こんな立派な寝台、生まれて初めて」
彼女が冗談めかして言うと、リーナは堪えきれずに泣き出した。母の手を握りしめ、肩を震わせる。セレナは娘の背を、ゆっくりと撫でた。
「泣き虫ね」
「だって、だって……」
アルクは、そっと廊下へ出た。扉の外に、ユリウスが立っていた。
「アルク殿。一つ、お伝えしておきたいことが」
「何でしょう」
「猊下は」
若い司祭補は、声を潜めた。
「あの光の夜から、毎晩、大聖堂の屋上で、空を見上げておられました。お眠りにならずに。……私には、何を待っておられるのか、分かりませんでした」
廊下の窓から、昼の鐘が響いた。祈りの鐘だ。部屋の中から、セレナの小さな呻きが聞こえた。
アルクは、窓の外の尖塔を見上げた。
待っていた、とは、どういう意味なのか。




