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堕天のアルケー  作者: 山本田38ページ
第2章 大賢者
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第1話 王都の門

 城壁は、空を切り取っていた。


 三日の旅の果てに、馬車はヴェルトリアの正門の前で止まった。灰色の石を積み上げた壁は高く、塔の上には教会の旗が翻っている。門の前には荷車の列が伸び、商人や巡礼者が門の前で順番を待っていた。


「あれが、王都……」


 窓から身を乗り出したリーナが、息を呑んだ。隣でセレナが、膝掛けを胸元まで引き上げて微笑む。


「大きいでしょう。私も最後に来たのは、二十年以上前だわ」


 アルクは窓の外ではなく、壁の上を見ていた。


 HUDの視界に、淡い青の網が重なっている。城壁全体を覆う、見えない膜。結界網だ。構造としては、天球と同系統の防衛機構の縮小版と思われた。ただ、網目のところどころが、薄い。


 一瞬、塔の上の空間が、揺らいだ。風に灯火が揺らぐような、ちらつき。数秒で収まった。


 誰も、気づいていない。


「アルク殿?」


 向かいの席から、司祭補のユリウスが声をかけた。


「何か、お気づきの点でも」


「……いえ。大きな街だと思って」


 彼は曖昧に頷いた。その掌の中で、道中に開封した書状が、皺になっている。


 厚手の羊皮紙に書かれていたのは、一行だけだった。


 《道を開けて、お待ちしております。ミレイユ》


 それ以上の説明は、どこにもなかった。封蝋の紋だけが、三日前に見たままの配列で、羊皮紙の端に残っている。


 馬車は門をくぐった。騎士に紋章を示したユリウスの顔を見て、衛兵は何も問わずに道を開けた。


 街の石畳は、馬車の車輪を鳴らした。店先の香辛料の匂い、鍛冶屋の槌音、遠くで鳴る鐘。人々が行き交い、見慣れない一行を見上げる。ささやき声が聞こえた。


「大賢者様だ」「村を救ったっていう」「あの方か」


 噂のほうが、先に着いていた。アルクは目を伏せた。


 大聖堂は、街の中央にそびえていた。尖塔の先に、巨大な青銅の鐘が吊られている。その隣に、白い壁の長い建物が連なっていた。教会付属の医院だ。


 受付の石の広間には、薬草と石鹸の匂いが漂っていた。ユリウスが奥へ駆けていき、しばらくして、恰幅のいい司祭を伴って戻ってきた。


「医院長補佐のベルナールです」


 男は一行を見回した。視線が、セレナの青い肩掛け、リーナの擦り切れた靴、アルクの腕の包帯の上を順に滑る。


「魔力枯れ病の患者、ということですが」


「はい。母です」


 リーナが一歩前に出た。


「この医院は、治癒の見込みのある患者を優先します。魔力枯れ病は、現在の教会の癒しでは根治できません」


 淡々とした声だった。


「治療不能と判断された方は、市外の施療院で、穏やかに過ごしていただくのが規則です」


 リーナの顔が強張った。


「でも、使者の方が、受け入れてくださると」


「使者殿の独断です。わたくしの許可は、受けておりません」


 ユリウスが何かを言いかけ、口を閉じた。ベルナールの肩越しに、「異端」という言葉が、見えない影のように浮かんで見えた。素性の知れない男を連れた、病の母娘。規則を守るにはこの上ない、都合のいい理由だった。


 アルクは思考した。


 ここで力を使えば、方法はいくらでもある。教会の台帳を書き換え、司祭の判断に介入し、入院の許可を得る。ただし、それは村で学んだことの反対だ。力を使えば、何かが動く。


 だから、言葉を探した。


「規則を、見せてもらえますか」


「は?」


「医院の規則です。入院を認めない条件が、どう書かれているのか」


 ベルナールは眉をひそめた。それでも、近くの修道士に命じて、羊皮紙の綴りを持ってこさせた。アルクはそれを受け取り、文面を目で追った。


 古い言葉の羅列。長い条項。その末尾に、小さく、例外が記されていた。


「ここに『教会に仕えた者は、病の如何を問わず、その最期まで庇護する』とあります」


「それは、聖職者や修道士のことで」


「『仕えた者』としか書いていない」


 ベルナールは、口を開き、閉じた。


「セレナ」


 アルクは振り返った。


「あなたは、鐘守だったと言った。それは、教会に仕えた、ということではないのか」


 セレナは少し驚いた顔をして、それから、静かに頷いた。


「ええ。二十年ほど前まで、アシュフェンの鐘楼で。この大聖堂で、見習いの頃も」


「鐘守の、名簿が」


 ベルナールが顔色を変えた。


「名前を。もう一度」


「セレナ・ハートウェル」


 男は返事もせずに、背後の修道士に何かを囁いた。若い修道士が走り去り、数分後、別の分厚い帳面を抱えて戻ってきた。ベルナールは震える指で頁をめくり、ある行で止まった。


 その顔から、血の気が引いた。


「……確認、いたしました」


 声が、別人のように低くなった。


「鐘守、第七期。ご存命でおられたとは。……失礼を」


 彼は、深く頭を下げた。先ほどまでの傲慢さが、嘘のように消えていた。リーナが目を丸くしている。


「どうして急に」


「鐘守は、教会にとって特別な方々です。すぐに、特別室へ。人払いも」


「人払い?」


 リーナの疑問に、答える者はいなかった。


 その時、広間の奥から、衣擦れの音が近づいてきた。


 白い法衣の女性が、数人の侍祭を従えて現れた。四十代半ば。銀の髪を後ろで束ね、首には小さな鐘の形の飾りを下げている。年齢のわりに背筋は真っ直ぐで、目は穏やかな灰色をしていた。


 大司教ミレイユ・アウレリア。


 ベルナールが慌てて膝をつく。しかし彼女は、その横を通り過ぎた。ユリウスも、アルクも、視界に入っていないかのように。


 まっすぐに、セレナの前に立った。


 そして、深く、頭を下げた。


「お務め、ご苦労様でした」


 広間が、静まった。


 大司教が、一介の病人に、頭を下げている。リーナの口が半開きのまま固まった。ベルナールは、床を見つめている。


 セレナの笑みが、ほんの少しだけ、強張った。


「……そのように、なさらないでください、猊下」


「いいえ。せめてこれだけは」


 ミレイユは顔を上げた。目の縁が、微かに潤んでいるように見えた。それはすぐに消え、穏やかな微笑みが彼女の顔に戻った。


 それから、彼女はアルクを見た。


 灰色の瞳が、彼を捉える。長い時間を、数えるように。


「そして、あなたが」


 声は、静かで、深かった。


「長らく、お待ち申しておりました」


 アルクの背筋に、微かな冷たさが走った。


 それは歓迎の定型句にも聞こえた。しかし、同じ言葉の奥に、別の重さが沈んでいる。


「猊下。私は、あなたに会ったことが」


「ありません。ですが、そうなのです」


 ミレイユは小さく笑い、続けた。


「この方の病は、教会が責任を持って診ます。部屋も用意させました。お連れの方も、ご一緒に」


「ありがとうございます」


 リーナが、潤んだ声で頭を下げた。肩が震えている。アルクは、その横顔を見て、ようやく息を吐いた。


「ただ」


 ミレイユが、人差し指を唇の前で立てた。


「ひとつだけ、お願いがあります。後日で構いません。あなたにしかできないことが、この街にはあるのです」


 それは、条件だった。


 アルクは、リーナとセレナの顔を見た。ここで拒めば、全てが白紙に戻る。受ければ、借りができる。村で、リーナが自分のために背負った、あの重さと同じものが。


「……話を、聞くだけなら」


「十分です」


 ミレイユは満足げに頷いた。


 特別室は、広い部屋だった。窓から大聖堂の尖塔が見え、清潔な寝台が二つ並んでいる。セレナが寝台に腰を下ろし、ふっと息を吐いた。


「まあ。こんな立派な寝台、生まれて初めて」


 彼女が冗談めかして言うと、リーナは堪えきれずに泣き出した。母の手を握りしめ、肩を震わせる。セレナは娘の背を、ゆっくりと撫でた。


「泣き虫ね」


「だって、だって……」


 アルクは、そっと廊下へ出た。扉の外に、ユリウスが立っていた。


「アルク殿。一つ、お伝えしておきたいことが」


「何でしょう」


「猊下は」


 若い司祭補は、声を潜めた。


「あの光の夜から、毎晩、大聖堂の屋上で、空を見上げておられました。お眠りにならずに。……私には、何を待っておられるのか、分かりませんでした」


 廊下の窓から、昼の鐘が響いた。祈りの鐘だ。部屋の中から、セレナの小さな呻きが聞こえた。


 アルクは、窓の外の尖塔を見上げた。


 待っていた、とは、どういう意味なのか。


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