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堕天のアルケー  作者: 山本田38ページ
第2章 大賢者
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第2話 監視

 扉が叩かれたのは、一度だけだった。


 返事を待たずに、それは開いた。


 朝の医院は静かだった。アルクは窓辺の椅子に座り、包帯を替えようとしていたところだった。左腕の傷は、見た目には塞がりかけている。そこへ、重い足音が踏み込んできた。


 大柄な男だった。五十がらみ。短く刈った髪は半ば灰色で、顎には無精髭の名残がある。革の胴着の上に、騎士団の紋章を縫い付けた外套。左の膝を僅かに引きずる歩き方をしている。腰の長剣の柄は、擦り切れて黒光りしていた。


「騎士団長のガルド・ヴァインだ」


 名乗りだけで、部屋の空気が変わった。男の後ろに、若い騎士が一人、書類を抱えて付き従っている。十代の終わりだろう。緊張で顔が強張っていた。


「レクス、扉を閉めろ」


「は、はい」


 扉が閉まる。ガルドは遠慮なく部屋の中央に立ち、アルクを上から下まで眺めた。目つきは検分に近かった。


「お前が、アシュフェンで魔物を鎮めたという男か」


「アルクという」


「『大賢者』と呼ばれているそうだな」


「周りが勝手に呼んでいる」


 ガルドは鼻を鳴らした。それから、レクスの手から紙束を取り、ひらりと振った。


「アシュフェン村長オットーの書簡だ。魔物九体を一言で止めた、と書いてある。誇張に思えたが、同じ報せが、教会の使者からも届いた」


「事実だ」


「だとすれば、お前は危険人物だ」


 ガルドは淡々と言った。


「この街の防衛を預かる者として、素性の知れない人間が、教会の庇護の下にいることを許すわけにはいかない。どこの出だ」


「遠い国だ」


「どこだ」


「言えない」


 一拍の間があった。ガルドの目が、僅かに細くなった。


「言えない、か。嘘をつくよりは、正直だな」


「嘘は、苦手でね」


「そのようだ」


 レクスが吹き出しかけて、慌てて咳払いをした。ガルドは彼を一瞥し、再びアルクに向き直る。


「腕を見せろ」


「何のために」


「いいから見せろ」


 アルクは、包帯を解いた。傷が現れた。狼の牙が貫いた痕。五日前の傷にしては、肉が盛り上がり、皮膚が薄く閉じ始めている。


 ガルドは、傷口を睨んだ。


「牙の幅からして、魔物のものだな。深い。本来なら、一月は動かせない傷だ」


「薬草を使った」


「どんな」


「銀露草を、重ねて」


「銀露草で、骨まで届いた傷が、五日で塞がるか」


 アルクは答えなかった。ガルドが、低く笑う。


「いい。答えなくていい。お前が何であれ、今は聞かん」


 彼は一歩、近づいた。


「ただ、一つだけ確かめさせてもらう」


 その瞬間だった。


 ガルドの右手が、動いた。


 剣が、抜かれた。鞘から走る鉄の音。刃が、アルクの首筋へ振り下ろされる。


 ――遅い、と思った。


 刃の軌跡が、視界に線として浮かんだ。腕の角度、重心の移動、剣の速度。全てが計算できた。ルート権限を呼べば、刃の運動を止めることができる。ほんの一語で。


 けれど、アルクは動かなかった。


 力を使えば、何かが動く。


 刃は、首の皮膚に触れる寸前で、止まった。冷たい鋼の気配が、喉に張り付いている。


 部屋が、凍りついていた。


「やめて!」


 悲鳴のような声が割り込んだ。


 扉の方から、リーナが飛び込んできた。母の看病のために隣室にいたのだ。彼女は躊躇なく、ガルドとアルクの間に身体を割り込ませた。


「なにをしてるんですか。この人は、村を救ったんです! ピップを助けて、腕を貫かれて、それでも」


「どけ、嬢ちゃん」


「どきません!」


 リーナの声は震えていた。それでも、一歩も引かなかった。


「母が、隣の部屋で寝てるんです。病気で、やっとここに来られたんです。この人がいなかったら、来られなかった。それなのに、あなたは、朝から」


「リーナ」


 アルクが、静かに呼んだ。


「大丈夫だ」


「大丈夫じゃない!」


「彼は、確かめているだけだ」


 ガルドが、刃を下ろした。ゆっくりと。その目は、アルクの顔を見据えたままだった。


「なぜ、防がなかった」


「防げた」


「だろうな。お前の動きは、俺の剣が見えていた。目で追っていた」


 ガルドは剣を鞘に納めた。金属の擦れる音が、部屋に響く。


「防げるのに、防がなかった。理由は」


 アルクは考えた。正直に言えば、何が伝わるだろう。


「力を使えば、何かが動く」


 言葉は、思ったより素直に出た。


「私が何かをすれば、何かが目を覚ます。誰かが傷つく。そういうことを、最近、学んだばかりだ。だから、使いたくなかった」


 部屋が、静まった。


 ガルドは何も言わなかった。表情は動かない。ただ、その頬の筋肉が、一瞬だけ、強張った。


「……学んだ、か」


 呟きが、独り言のように漏れた。


「俺も、昔、同じことを学んだ。遅すぎたがな」


 彼の視線が、どこか遠くへ向かった。そこには、部屋の壁ではなく、別の何かが映っているようだった。レクスが、不安げに団長を見上げる。


「団長」


「ああ、いい」


 ガルドは頭を振り、リーナに向き直った。


「嬢ちゃん。悪かった。試させてもらった」


「試した、って」


「刃を前にして、何をするか。人間は、そこで正体が出る」


 彼は肩をすくめた。


「この男は、俺の剣を見て、お前を庇うこともしなかった。ただ、立っていた。あれは、死ぬのを恐れていない人間の立ち方じゃない。力を使うのを恐れている人間の立ち方だ」


 アルクは目を瞬いた。


「俺は、そういう人間を知っている」


 ガルドは外套の裾を払った。


「いいだろう。お前を、牢には入れん。街を歩くのも許す。ただし」


 彼はアルクの顔を、鋭く指差した。


「俺が横にいる。監視役としてな。お前が街で何かをするなら、必ず俺が見ている。それが、条件だ」


「承知した」


「リーナ、というのか。お前の母君の病は、俺も聞いた。この街で、できる限りの手は貸す。だが、忘れるな」


 男は、僅かに声を落とした。


「この街は、今、脆い。城壁の結界が弱っている。魔物の襲撃は、ここ二年で倍になった。そこに、素性の知れない力を持つ男が現れた。俺は、街の誰よりも、慎重にならねばならん」


 リーナは、唇を噛んだ。それから、小さく頷いた。


「分かりました。……でも、もう二度と、あんなことをしないでください」


「約束はできん」


 ガルドは正直に言って、扉へ向かった。それから、振り返った。


「アルク。明日の朝、騎士団の訓練場に来い」


「訓練場に?」


「丸腰で歩く奴に、この街は危ない。剣の握り方くらいは、教えてやる」


 それは、命令の形をした、手を差し出す言葉だった。


「逃げたら、監視を増やす。以上だ」


 扉が閉まる。足音が遠ざかっていく。残されたレクスが、書類を抱え直して、慌てて頭を下げた。


「す、すみません。団長は、あの、悪い人では」


「分かっている」


 アルクが言うと、若い騎士はほっとしたように笑った。


「レクスと言います。お見知り置きを」


「アルクだ」


「リーナさんも、あの、お茶が冷めてしまいました。入れ直します!」


 彼は慌てて部屋を飛び出していった。


 残された二人は、顔を見合わせた。やがて、リーナが両手で顔を覆い、その場にしゃがみ込んだ。


「……こわかった」


「すまない」


「謝らないで。私が勝手に出たの。でも、本当に、怖かった。首に、あんなに近くまで」


 アルクは、彼女の隣に膝をついた。何を言えばいいのか、分からなかった。ただ、右手を、そっと彼女の肩に置いた。


 彼女は顔を覆ったまま、小さく笑った。


「あなた、本当に、斬られるかと思ったのに、平気な顔してるのね」


「平気では、なかった」


「うそ」


「本当だ。指が、震えている」


 彼の右手は、確かに、細かく震えていた。リーナは指の隙間から、それを見て、ようやく息を吐いた。


 窓の外では、朝の鐘が鳴っていた。


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