第2話 監視
扉が叩かれたのは、一度だけだった。
返事を待たずに、それは開いた。
朝の医院は静かだった。アルクは窓辺の椅子に座り、包帯を替えようとしていたところだった。左腕の傷は、見た目には塞がりかけている。そこへ、重い足音が踏み込んできた。
大柄な男だった。五十がらみ。短く刈った髪は半ば灰色で、顎には無精髭の名残がある。革の胴着の上に、騎士団の紋章を縫い付けた外套。左の膝を僅かに引きずる歩き方をしている。腰の長剣の柄は、擦り切れて黒光りしていた。
「騎士団長のガルド・ヴァインだ」
名乗りだけで、部屋の空気が変わった。男の後ろに、若い騎士が一人、書類を抱えて付き従っている。十代の終わりだろう。緊張で顔が強張っていた。
「レクス、扉を閉めろ」
「は、はい」
扉が閉まる。ガルドは遠慮なく部屋の中央に立ち、アルクを上から下まで眺めた。目つきは検分に近かった。
「お前が、アシュフェンで魔物を鎮めたという男か」
「アルクという」
「『大賢者』と呼ばれているそうだな」
「周りが勝手に呼んでいる」
ガルドは鼻を鳴らした。それから、レクスの手から紙束を取り、ひらりと振った。
「アシュフェン村長オットーの書簡だ。魔物九体を一言で止めた、と書いてある。誇張に思えたが、同じ報せが、教会の使者からも届いた」
「事実だ」
「だとすれば、お前は危険人物だ」
ガルドは淡々と言った。
「この街の防衛を預かる者として、素性の知れない人間が、教会の庇護の下にいることを許すわけにはいかない。どこの出だ」
「遠い国だ」
「どこだ」
「言えない」
一拍の間があった。ガルドの目が、僅かに細くなった。
「言えない、か。嘘をつくよりは、正直だな」
「嘘は、苦手でね」
「そのようだ」
レクスが吹き出しかけて、慌てて咳払いをした。ガルドは彼を一瞥し、再びアルクに向き直る。
「腕を見せろ」
「何のために」
「いいから見せろ」
アルクは、包帯を解いた。傷が現れた。狼の牙が貫いた痕。五日前の傷にしては、肉が盛り上がり、皮膚が薄く閉じ始めている。
ガルドは、傷口を睨んだ。
「牙の幅からして、魔物のものだな。深い。本来なら、一月は動かせない傷だ」
「薬草を使った」
「どんな」
「銀露草を、重ねて」
「銀露草で、骨まで届いた傷が、五日で塞がるか」
アルクは答えなかった。ガルドが、低く笑う。
「いい。答えなくていい。お前が何であれ、今は聞かん」
彼は一歩、近づいた。
「ただ、一つだけ確かめさせてもらう」
その瞬間だった。
ガルドの右手が、動いた。
剣が、抜かれた。鞘から走る鉄の音。刃が、アルクの首筋へ振り下ろされる。
――遅い、と思った。
刃の軌跡が、視界に線として浮かんだ。腕の角度、重心の移動、剣の速度。全てが計算できた。ルート権限を呼べば、刃の運動を止めることができる。ほんの一語で。
けれど、アルクは動かなかった。
力を使えば、何かが動く。
刃は、首の皮膚に触れる寸前で、止まった。冷たい鋼の気配が、喉に張り付いている。
部屋が、凍りついていた。
「やめて!」
悲鳴のような声が割り込んだ。
扉の方から、リーナが飛び込んできた。母の看病のために隣室にいたのだ。彼女は躊躇なく、ガルドとアルクの間に身体を割り込ませた。
「なにをしてるんですか。この人は、村を救ったんです! ピップを助けて、腕を貫かれて、それでも」
「どけ、嬢ちゃん」
「どきません!」
リーナの声は震えていた。それでも、一歩も引かなかった。
「母が、隣の部屋で寝てるんです。病気で、やっとここに来られたんです。この人がいなかったら、来られなかった。それなのに、あなたは、朝から」
「リーナ」
アルクが、静かに呼んだ。
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃない!」
「彼は、確かめているだけだ」
ガルドが、刃を下ろした。ゆっくりと。その目は、アルクの顔を見据えたままだった。
「なぜ、防がなかった」
「防げた」
「だろうな。お前の動きは、俺の剣が見えていた。目で追っていた」
ガルドは剣を鞘に納めた。金属の擦れる音が、部屋に響く。
「防げるのに、防がなかった。理由は」
アルクは考えた。正直に言えば、何が伝わるだろう。
「力を使えば、何かが動く」
言葉は、思ったより素直に出た。
「私が何かをすれば、何かが目を覚ます。誰かが傷つく。そういうことを、最近、学んだばかりだ。だから、使いたくなかった」
部屋が、静まった。
ガルドは何も言わなかった。表情は動かない。ただ、その頬の筋肉が、一瞬だけ、強張った。
「……学んだ、か」
呟きが、独り言のように漏れた。
「俺も、昔、同じことを学んだ。遅すぎたがな」
彼の視線が、どこか遠くへ向かった。そこには、部屋の壁ではなく、別の何かが映っているようだった。レクスが、不安げに団長を見上げる。
「団長」
「ああ、いい」
ガルドは頭を振り、リーナに向き直った。
「嬢ちゃん。悪かった。試させてもらった」
「試した、って」
「刃を前にして、何をするか。人間は、そこで正体が出る」
彼は肩をすくめた。
「この男は、俺の剣を見て、お前を庇うこともしなかった。ただ、立っていた。あれは、死ぬのを恐れていない人間の立ち方じゃない。力を使うのを恐れている人間の立ち方だ」
アルクは目を瞬いた。
「俺は、そういう人間を知っている」
ガルドは外套の裾を払った。
「いいだろう。お前を、牢には入れん。街を歩くのも許す。ただし」
彼はアルクの顔を、鋭く指差した。
「俺が横にいる。監視役としてな。お前が街で何かをするなら、必ず俺が見ている。それが、条件だ」
「承知した」
「リーナ、というのか。お前の母君の病は、俺も聞いた。この街で、できる限りの手は貸す。だが、忘れるな」
男は、僅かに声を落とした。
「この街は、今、脆い。城壁の結界が弱っている。魔物の襲撃は、ここ二年で倍になった。そこに、素性の知れない力を持つ男が現れた。俺は、街の誰よりも、慎重にならねばならん」
リーナは、唇を噛んだ。それから、小さく頷いた。
「分かりました。……でも、もう二度と、あんなことをしないでください」
「約束はできん」
ガルドは正直に言って、扉へ向かった。それから、振り返った。
「アルク。明日の朝、騎士団の訓練場に来い」
「訓練場に?」
「丸腰で歩く奴に、この街は危ない。剣の握り方くらいは、教えてやる」
それは、命令の形をした、手を差し出す言葉だった。
「逃げたら、監視を増やす。以上だ」
扉が閉まる。足音が遠ざかっていく。残されたレクスが、書類を抱え直して、慌てて頭を下げた。
「す、すみません。団長は、あの、悪い人では」
「分かっている」
アルクが言うと、若い騎士はほっとしたように笑った。
「レクスと言います。お見知り置きを」
「アルクだ」
「リーナさんも、あの、お茶が冷めてしまいました。入れ直します!」
彼は慌てて部屋を飛び出していった。
残された二人は、顔を見合わせた。やがて、リーナが両手で顔を覆い、その場にしゃがみ込んだ。
「……こわかった」
「すまない」
「謝らないで。私が勝手に出たの。でも、本当に、怖かった。首に、あんなに近くまで」
アルクは、彼女の隣に膝をついた。何を言えばいいのか、分からなかった。ただ、右手を、そっと彼女の肩に置いた。
彼女は顔を覆ったまま、小さく笑った。
「あなた、本当に、斬られるかと思ったのに、平気な顔してるのね」
「平気では、なかった」
「うそ」
「本当だ。指が、震えている」
彼の右手は、確かに、細かく震えていた。リーナは指の隙間から、それを見て、ようやく息を吐いた。
窓の外では、朝の鐘が鳴っていた。




