第3話 剣の握り
「握りすぎだ」
ガルドの声が、乾いた朝の空気に響いた。
騎士団の訓練場は、城壁の内側の石畳の広場だった。木剣の打ち合う音、掛け声、砂を蹴る足音。あちこちで若い騎士たちが汗を流している。その片隅で、アルクは右手一本で木剣を握っていた。
左腕は、まだ布で吊っている。
「力を入れすぎると、刃先が死ぬ。卵を持つ要領で握れ」
「卵の強度は、約――」
「数字はいらん」
ガルドは容赦なく遮った。
「構えろ。レクス、お前は受けろ」
「は、はい!」
木剣を構えた若い騎士が、緊張した顔で向かい合う。アルクは息を吐いた。
視界に、最適解が浮かぶ。足の位置、重心、剣の角度。レクスの体格と癖から、予想される打ち込みの軌道が、薄い線として描かれる。それに合わせて構えを整えれば、理論上、防げないはずがなかった。
構える。
レクスが踏み込んだ。木剣が走る。アルクは線の通りに剣を動かした。
次の瞬間、木剣が弾かれ、手の中から飛んだ。同時に、足首に衝撃が走り、世界が傾いた。石畳に背中を打った。
「……なぜ」
息が抜けるように声が漏れた。起き上がると、ガルドの木剣の先が、喉元に突きつけられていた。いつの間に近づいたのか、分からなかった。
「レクスの打ち込みは、お前の予想どおりだったろう」
「ああ」
「で、俺が足を払うことは、予想していたか」
「……していなかった」
「それが、答えだ」
ガルドは木剣を下ろし、無愛想に続けた。
「お前は、目の前の一人の剣しか見ていない。計算は、見えているものにしか効かん。実戦では、見えないものが九割だ」
「見えないものを、どう扱う」
「見ようとするな。感じろ」
アルクは眉を寄せた。感じる。それは、彼の最も苦手とするものだった。
「相手の肩、呼吸、足の指先。全部を一度に見ようとしても無理だ。ただ、全体を、ぼんやり眺める。そのうち、身体が勝手に反応するようになる」
「根拠は」
「経験だ」
「それは、根拠にならない」
「なるんだよ」
ガルドは短く笑った。レクスが横で、そっと肩をすくめる。
「団長の経験は、三十年分ですからね」
「うるさい」
その時だった。
訓練場の門が、外から激しく叩かれた。見張りの騎士が叫ぶ。
「巡回隊、帰還! 負傷者あり!」
場の空気が、一瞬で変わった。
門が開き、荷車が引き入れられる。藁の上に、血まみれの若い騎士が三人、横たわっていた。残りの隊員が、青ざめた顔で荷車を押している。
ガルドは木剣を放り出し、駆け寄った。左膝を引きずりながら、驚くほどの速さだった。
「ミハエル、呼吸は」
「ありま、す……」
「喋るな。医者を呼べ! 誰か、担架を!」
怒号が飛ぶ。騎士たちが慌ただしく動き出す。
アルクは立ち尽くしていた。
荷車の中の若者の腹に、深い裂傷があった。魔物の爪だ。出血は多い。放っておけば、数分で意識を失う。
HUDが反応した。
――治せる。
その思考は、あまりにも自然に浮かんだ。ナノマシンへの命令。傷口の再構築。ルート権限があれば、数秒で組織を繋ぎ、血を止めることができる。あの村で、狼を止めたときのように。
喉が、鳴った。
足が、一歩前に出る。
「やめろ」
低い声が、背中を叩いた。ガルドだった。担架を担ぐ手を止めずに、振り向きもしない。
「使うな」
「しかし」
「お前が今、あの子を癒したとしよう」
ガルドは、血に濡れた手で若者の頭を支えた。
「あの子は助かる。だが、周りの全員が見る。『あの大賢者は、傷を治せる』とな。次に誰かが怪我をしたら、皆はお前を呼ぶ。その次も。次も」
息継ぎもなく、淡々と続ける。
「いつか、お前が来ない夜に、誰かが死ぬ。そのとき、この街の人間は、お前が来なかったことを恨むようになる」
「……」
「助けられる力があるなら、助けたくなる。それが怖いんだ。助けた先を、考えろ」
ガルドの横顔は、白く強張っていた。それは怒りではなかった。もっと古い、擦り切れた痛みだった。
「だが、それでも、今この子が死にかけているのは、事実だ」
彼は、初めてアルクを見た。
「だから、手で助けろ。薬草でも、布でも、手でいい。お前が持っている、普通の人間と同じ力で」
アルクは頷いた。
それから、走った。
医院から駆けつけた癒し手が、傷口に手をかざす。わずかな光が灯るが、出血は止まらない。アルクは荷車に飛び乗り、布を傷に押し当てた。体重をかける。冷たい血が、指の間を伝った。
「押さえていてくれ。止まるまで、離すな」
癒し手に言い、自分は銀露草の包みを取り出す。リーナから預かった残りだ。葉を揉み、傷口に重ねる。血が少しずつ、緩んでいく。
「大丈夫だ。目を開けていろ」
「は……い……」
若者の目が、虚ろに揺れた。アルクは声をかけ続けた。名前を。今日の天気を。朝食に何を食べたかを。何でもいいから、意識をつなぎ止めるために。
担架が運ばれていく。残る二人も、順に運ばれた。
全てが終わったとき、アルクの両手は、血で赤く染まっていた。
荷車の傍で、ガルドが騎士たちに低く声をかけていた。一人ひとりの名前を呼び、肩を叩き、短く言葉を交わしている。三人の負傷者の名前だけでなく、彼らの家族の名前や、好きな食べ物さえ、口にしていた。
「団長は、全員の名前を覚えているんです」
隣に立つレクスが、小さく言った。
「新入りの顔も、亡くなった人たちの顔も。……だから、団長は、誰も死なせたくないんです」
その声には、誇らしさと、痛々しさが、同じだけ混じっていた。
アルクは、自分の手を見た。血と、薬草の緑が混じっている。計算では測れない重さが、そこにあった。
しばらくして、訓練場は静けさを取り戻した。ガルドが戻ってきて、転がった木剣を拾い上げ、無言でアルクに突き出した。
「もう一度だ」
「……ああ」
「今度は、考えるな。眺めろ」
構える。レクスが向かい合う。
視界から、最適解の線が消えた。アルクは、意図的に演算を止めた。ぼんやりと、全体を見る。レクスの肩。呼吸。足の指先。
吸う息が、止まる。
その瞬間、アルクの腕は動いていた。
木剣が、木剣を受けた。
鈍い音。手の中に重みが戻り、衝撃が肩まで響いた。レクスの打ち込みを、止めていた。計算ではない。ただ、身体が知っていたのだ。
「あ」
レクスが、目を丸くした。
「止められた……!」
ガルドは、腕を組んだまま、鼻を鳴らした。
「まぐれだ」
「まぐれでもいい」
アルクの口から、ひとりでに言葉が漏れていた。声が、微かに弾んでいた。
「初めて、自分の身体で、止められた」
ガルドの口の端が、わずかに持ち上がった。それは、笑みと呼ぶには小さすぎるものだった。
「手を洗え。飯にする」
「飯?」
「血を見た後は、食う。それが、騎士団の決まりだ。ついて来い」
ガルドは背を向けて歩き出した。左膝を引きずる、不揃いな足音。アルクはレクスと顔を見合わせ、それから、その背中を追った。




