第11話 蓋の再起動
立ち上がるのに、三度、失敗した。
脚が、自分のものではないようだった。膝が笑い、石の床が傾いて見えた。リーナが脇を支え、ようやく円盤の縁に手をつくことができた。掌に、金属の冷たさが染みた。
「アルク殿」
ミレイユが、息を詰めて言った。
「日没が、迫っています」
「ああ」
声は、思ったより掠れていた。
その時、入口の扉が荒く開いた。ユリウスだった。法衣の裾を乱し、顔が蒼白だった。
「空が」
息を切らして、続ける。
「北の空に、光が。白い、帯のような。……じわじわと、近づいています」
広間の空気が、凍った。
ヴェリタスが、静かに言った。
「浄めの光だ」
氷の瞳が、天井の向こうを見つめていた。
「審査期間の終了に合わせて、自動で展開される。日没の時点で蓋が再起動していなければ、……あれが、この星を覆う」
「あと、どのくらい」
「日没まで、十分」
アルクは頷いた。
HUDがない。数値が見えない。どこまで進んでいるのかも、成功しているのかも、分からない。ただ、目の前の円盤と、掌の感触と、自分の声だけが頼りだった。
それでも、やる。
「ミレイユ、鍵を」
「はい」
彼女は、円盤の中央の鐘の飾りに、両手を重ねた。ダミアンが、その肩を支える。
「リーナ」
「うん」
「歌を」
リーナは頷き、息を吸った。小さな声で、旋律を口ずさみ始めた。一句ずつ、ゆっくりと。
アルクは、円盤の縁に両手を置いた。
古い言葉を、口にした。
「《所有権、移譲》」
円盤が、鳴った。
低く、重い音。しかし、反応は、そこで止まった。結晶の光が、一瞬だけ強まり、また元に戻る。
「……来ない」
ミレイユが、小さく呟いた。
アルクは歯を食いしばった。もう一度。
「《自由なる者の名において。所有権、移譲》」
円盤は、沈黙したままだった。
額に、冷たい汗が滲む。力が、ない。かつて一語で魔物の群れを止め、結界を書き換えた声が、今は、ただの人間の声に過ぎない。
――それでも。
アルクは目を閉じ、考えた。ルート権限は、網への接続によるものではなかった。自分が、あの言葉を知っていること。この星の古い言語で語りかけること。それは、自分自身のものだ。
イオンの遺言を思い出した。『自由なノードのものに』。
自由とは、網に属さないこと。誰かの命令でなく、自分の意志で言葉を発すること。
「《私の名は、アルク》」
彼は、はっきりと言った。
「《アルケー-704ではない。この星で、リーナに拾われ、ガルドに剣を教わり、セレナの歌を聞いた、一人の人間だ》」
円盤が、震えた。
「《私は、この核を引き受ける。……私一人の力ではなく》」
光が、広がった。
「《分かち合う者たちの名において。給電経路、再設計。全ての回路を持つ者に、等しく、僅かに》」
轟音が、床の下から湧き上がった。
結晶が、一斉に輝いた。三十六の光が、円盤の縁を駆け巡る。壁の地図が脈打つ。主幹線を通って、何かが、遥か遠くへ駆けていく。
「核が、応答しました」
ミレイユが、震える声で言った。
「受理されています」
アルクの膝が、がくりと沈んだ。リーナが慌てて支える。
「まだ。……まだ、終わっていない」
蓋の再起動には、最後の確認が必要だった。給電経路が書き換わり、全ての鐘塔が応えること。そして、観測空白域として、再び星図から消えること。
その前に、一つだけ、障害があった。
「待て」
ヴェリタスが、前へ進み出た。
「蓋が再起動すれば、この星は外部から遮蔽される。同時に、私の網との接続も、遮断される」
アルクは顔を上げた。
「……ああ」
「私は、遮蔽前に、最後の報告を送る必要がある。規程だ」
彼女は、胸元に右手を当てた。そこから、微かな光が滲み出す。
「審査の結論を、送信する」
広間の全員が、息を詰めた。
ヴェリタスは、目を閉じた。長い沈黙のあと、静かに口を開いた。
「報告。監査官〈ヴェリタス-9〉。観測空白域の審査について」
声は、淡々としていた。
「当該領域に、人為的な隠蔽は確認されなかった。堕天個体〈アルケー-704〉は、降肉中に消息を絶った。当該星系には、生命体の痕跡なし。審査対象なし。案件、終了」
リーナが、目を丸くした。
「え」
ミレイユが、息を呑んだ。
「それは」
ダミアンの口が、わずかに開いた。
ヴェリタスは、そのまま光を収め、目を開いた。
「以上だ」
「……虚偽の報告だ」
アルクが、掠れた声で言った。
「ああ」
「監査官が」
「分かっている」
ヴェリタスは、顔を背けた。氷の青の瞳が、伏せられている。
「規程違反だ。最大級の」
「なぜ」
「四十三件の、解析が、終わっていない」
彼女は、低く言った。
「それに」
言いかけて、口を閉じた。
そのとき、リーナが、小さく、くすりと笑った。
「ヴェリタスさん」
「何だ」
「右の眉、上がってる」
「眉?」
「嘘をつくとき、右の眉が上がるの。私も、母さんも、アルクも」
ヴェリタスは、慌てて自分の右眉を指で押さえた。
「観察による誤認だ」
「今も、上がってる」
「……上がっていない」
「上がってる」
アルクは、思わず笑ってしまった。笑うと、胸が痛んだ。けれど、悪くない痛みだった。
「嘘が下手な人は、仲間ですよ」
リーナが言うと、ヴェリタスは、ぷいと顔を背けた。耳の端が、真っ赤だった。
「…仲間、という定義は、ない」
「あるよ」
「ない」
「あるって」
その時、床の下から、新しい音が響いた。
――鐘だった。
遠く、遠く。無数の鐘が。
地上の大聖堂の大鐘ではない。四百十二基の鐘塔が、一斉に、そして静かに、鳴っていた。街の外から。丘の向こうから。遠い村々の小さな鐘楼から。
一度だけ。
ゴォン、と、重なって。
優しい音だった。祝福のような。
「全ての鐘が……」
ミレイユの膝が、崩れた。ダミアンが支える。彼女は両手で口を覆い、肩を震わせた。
「鳴っています。誰も、打っていないのに」
「給電が、分散されたんだ」
アルクは、呟いた。
「今、この星の全員が、ほんの少しずつ、蓋を支えている」
「全員が」
ミレイユの目から、涙がこぼれた。
「セレナ。……見ていますか」
その声は、誰にともなく、天井に向かって放たれた。
広間の入口で、レクスが拳を握りしめていた。声を殺して、肩を震わせている。
やがて、鐘の音が、ゆっくりと遠ざかっていった。
静けさが、戻る。
レクスが、小走りで駆け込んできた。
「空が!」
若者は息を弾ませた。
「光が、消えました。北の空の白い帯が、……蓋に、跳ね返されるみたいに、消えて」
「天蓋が」
「見えるんです。薄い、透き通った膜が、……街の上に、星々の上に、広がっていて」
アルクは、身体の力が、すっと抜けるのを感じた。
成功した。
「アルク!」
リーナの声が、聞こえた。
視界が、傾いた。膝が折れ、石の床が迫る。誰かの腕が、肩を支えた。小さな、温かい腕。
「ありがとう」
口の中で、そう呟いた。誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
視界の隅で、ヴェリタスが、外套の襟を握りしめて立っていた。唇が、微かに震えている。
「……網との接続が、遮断された」
彼女は、小さく言った。
「戻れない」
「ああ」
「予定外の、事態だ」
「後悔、しているか」
アルクが問うと、彼女は、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと首を横に振った。
「分からない」
声が、掠れていた。
「だが、……寒い」
全員が、一瞬、きょとんとした。
そして、リーナが、堪えきれずに噴き出した。ミレイユも、涙を流しながら、笑い出した。ダミアンが、顔を背けて肩を揺らした。レクスは、扉の傍で目を丸くしている。
「何が可笑しい」
「だって」
「温かいものを、要求する」
ヴェリタスは、憮然として言った。
「粥だ」
「うん」
リーナが、涙を拭いながら頷いた。
「いっぱい、作ってもらおう」
アルクは、笑った。意識が薄れていく中で、笑っていた。
静かな、温かい闇が、彼を包んだ。




