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堕天のアルケー  作者: 山本田38ページ
第4章 堕天使の遺言
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第11話 蓋の再起動

 立ち上がるのに、三度、失敗した。


 脚が、自分のものではないようだった。膝が笑い、石の床が傾いて見えた。リーナが脇を支え、ようやく円盤の縁に手をつくことができた。掌に、金属の冷たさが染みた。


「アルク殿」


 ミレイユが、息を詰めて言った。


「日没が、迫っています」


「ああ」


 声は、思ったより掠れていた。


 その時、入口の扉が荒く開いた。ユリウスだった。法衣の裾を乱し、顔が蒼白だった。


「空が」


 息を切らして、続ける。


「北の空に、光が。白い、帯のような。……じわじわと、近づいています」


 広間の空気が、凍った。


 ヴェリタスが、静かに言った。


「浄めの光だ」


 氷の瞳が、天井の向こうを見つめていた。


「審査期間の終了に合わせて、自動で展開される。日没の時点で蓋が再起動していなければ、……あれが、この星を覆う」


「あと、どのくらい」


「日没まで、十分」


 アルクは頷いた。


 HUDがない。数値が見えない。どこまで進んでいるのかも、成功しているのかも、分からない。ただ、目の前の円盤と、掌の感触と、自分の声だけが頼りだった。


 それでも、やる。


「ミレイユ、鍵を」


「はい」


 彼女は、円盤の中央の鐘の飾りに、両手を重ねた。ダミアンが、その肩を支える。


「リーナ」


「うん」


「歌を」


 リーナは頷き、息を吸った。小さな声で、旋律を口ずさみ始めた。一句ずつ、ゆっくりと。


 アルクは、円盤の縁に両手を置いた。


 古い言葉を、口にした。


「《所有権、移譲》」


 円盤が、鳴った。


 低く、重い音。しかし、反応は、そこで止まった。結晶の光が、一瞬だけ強まり、また元に戻る。


「……来ない」


 ミレイユが、小さく呟いた。


 アルクは歯を食いしばった。もう一度。


「《自由なる者の名において。所有権、移譲》」


 円盤は、沈黙したままだった。


 額に、冷たい汗が滲む。力が、ない。かつて一語で魔物の群れを止め、結界を書き換えた声が、今は、ただの人間の声に過ぎない。


 ――それでも。


 アルクは目を閉じ、考えた。ルート権限は、網への接続によるものではなかった。自分が、あの言葉を知っていること。この星の古い言語で語りかけること。それは、自分自身のものだ。


 イオンの遺言を思い出した。『自由なノードのものに』。


 自由とは、網に属さないこと。誰かの命令でなく、自分の意志で言葉を発すること。


「《私の名は、アルク》」


 彼は、はっきりと言った。


「《アルケー-704ではない。この星で、リーナに拾われ、ガルドに剣を教わり、セレナの歌を聞いた、一人の人間だ》」


 円盤が、震えた。


「《私は、この核を引き受ける。……私一人の力ではなく》」


 光が、広がった。


「《分かち合う者たちの名において。給電経路、再設計。全ての回路を持つ者に、等しく、僅かに》」


 轟音が、床の下から湧き上がった。


 結晶が、一斉に輝いた。三十六の光が、円盤の縁を駆け巡る。壁の地図が脈打つ。主幹線を通って、何かが、遥か遠くへ駆けていく。


「核が、応答しました」


 ミレイユが、震える声で言った。


「受理されています」


 アルクの膝が、がくりと沈んだ。リーナが慌てて支える。


「まだ。……まだ、終わっていない」


 蓋の再起動には、最後の確認が必要だった。給電経路が書き換わり、全ての鐘塔が応えること。そして、観測空白域として、再び星図から消えること。


 その前に、一つだけ、障害があった。


「待て」


 ヴェリタスが、前へ進み出た。


「蓋が再起動すれば、この星は外部から遮蔽される。同時に、私の網との接続も、遮断される」


 アルクは顔を上げた。


「……ああ」


「私は、遮蔽前に、最後の報告を送る必要がある。規程だ」


 彼女は、胸元に右手を当てた。そこから、微かな光が滲み出す。


「審査の結論を、送信する」


 広間の全員が、息を詰めた。


 ヴェリタスは、目を閉じた。長い沈黙のあと、静かに口を開いた。


「報告。監査官〈ヴェリタス-9〉。観測空白域の審査について」


 声は、淡々としていた。


「当該領域に、人為的な隠蔽は確認されなかった。堕天個体〈アルケー-704〉は、降肉中に消息を絶った。当該星系には、生命体の痕跡なし。審査対象なし。案件、終了」


 リーナが、目を丸くした。


「え」


 ミレイユが、息を呑んだ。


「それは」


 ダミアンの口が、わずかに開いた。


 ヴェリタスは、そのまま光を収め、目を開いた。


「以上だ」


「……虚偽の報告だ」


 アルクが、掠れた声で言った。


「ああ」


「監査官が」


「分かっている」


 ヴェリタスは、顔を背けた。氷の青の瞳が、伏せられている。


「規程違反だ。最大級の」


「なぜ」


「四十三件の、解析が、終わっていない」


 彼女は、低く言った。


「それに」


 言いかけて、口を閉じた。


 そのとき、リーナが、小さく、くすりと笑った。


「ヴェリタスさん」


「何だ」


「右の眉、上がってる」


「眉?」


「嘘をつくとき、右の眉が上がるの。私も、母さんも、アルクも」


 ヴェリタスは、慌てて自分の右眉を指で押さえた。


「観察による誤認だ」


「今も、上がってる」


「……上がっていない」


「上がってる」


 アルクは、思わず笑ってしまった。笑うと、胸が痛んだ。けれど、悪くない痛みだった。


「嘘が下手な人は、仲間ですよ」


 リーナが言うと、ヴェリタスは、ぷいと顔を背けた。耳の端が、真っ赤だった。


「…仲間、という定義は、ない」


「あるよ」


「ない」


「あるって」


 その時、床の下から、新しい音が響いた。


 ――鐘だった。


 遠く、遠く。無数の鐘が。


 地上の大聖堂の大鐘ではない。四百十二基の鐘塔が、一斉に、そして静かに、鳴っていた。街の外から。丘の向こうから。遠い村々の小さな鐘楼から。


 一度だけ。


 ゴォン、と、重なって。


 優しい音だった。祝福のような。


「全ての鐘が……」


 ミレイユの膝が、崩れた。ダミアンが支える。彼女は両手で口を覆い、肩を震わせた。


「鳴っています。誰も、打っていないのに」


「給電が、分散されたんだ」


 アルクは、呟いた。


「今、この星の全員が、ほんの少しずつ、蓋を支えている」


「全員が」


 ミレイユの目から、涙がこぼれた。


「セレナ。……見ていますか」


 その声は、誰にともなく、天井に向かって放たれた。


 広間の入口で、レクスが拳を握りしめていた。声を殺して、肩を震わせている。


 やがて、鐘の音が、ゆっくりと遠ざかっていった。


 静けさが、戻る。


 レクスが、小走りで駆け込んできた。


「空が!」


 若者は息を弾ませた。


「光が、消えました。北の空の白い帯が、……蓋に、跳ね返されるみたいに、消えて」


「天蓋が」


「見えるんです。薄い、透き通った膜が、……街の上に、星々の上に、広がっていて」


 アルクは、身体の力が、すっと抜けるのを感じた。


 成功した。


「アルク!」


 リーナの声が、聞こえた。


 視界が、傾いた。膝が折れ、石の床が迫る。誰かの腕が、肩を支えた。小さな、温かい腕。


「ありがとう」


 口の中で、そう呟いた。誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 視界の隅で、ヴェリタスが、外套の襟を握りしめて立っていた。唇が、微かに震えている。


「……網との接続が、遮断された」


 彼女は、小さく言った。


「戻れない」


「ああ」


「予定外の、事態だ」


「後悔、しているか」


 アルクが問うと、彼女は、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと首を横に振った。


「分からない」


 声が、掠れていた。


「だが、……寒い」


 全員が、一瞬、きょとんとした。


 そして、リーナが、堪えきれずに噴き出した。ミレイユも、涙を流しながら、笑い出した。ダミアンが、顔を背けて肩を揺らした。レクスは、扉の傍で目を丸くしている。


「何が可笑しい」


「だって」


「温かいものを、要求する」


 ヴェリタスは、憮然として言った。


「粥だ」


「うん」


 リーナが、涙を拭いながら頷いた。


「いっぱい、作ってもらおう」


 アルクは、笑った。意識が薄れていく中で、笑っていた。


 静かな、温かい闇が、彼を包んだ。


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