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堕天のアルケー  作者: 山本田38ページ
第4章 堕天使の遺言
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第12話 遺された座標

 朝は、まぶしかった。


 瞼の裏が、赤く透けている。誰かの話し声。食器の触れ合う音。遠くで鳥が鳴いている。アルクは、ゆっくりと目を開けた。


 見慣れない天井だった。いや、見慣れた天井だ。医院の特別室。窓から斜めに差し込む朝日が、白い壁に長い光の筋を引いている。


 身体が、重かった。


 腕が、動かない。脚も、鉛のようだった。喉が乾き、頭の奥が鈍く痛む。胃のあたりが空洞のように鳴っていた。


 これが、疲れ、というものか。


 数万年、知識としてだけ知っていた感覚が、全身に満ちていた。そしてそれが、不思議なほど、嫌ではなかった。


「起きた」


 小さな声が、した。


 枕元の椅子に、リーナが座っていた。膝に毛布を掛け、母の肩掛けを肩に羽織っている。目の下に隈はあったが、頬は少し血色が戻っていた。


「おはよう」


「おはよう」


 アルクの声は、ひどく掠れていた。


「どれくらい、寝ていた」


「一晩と、少し。もうお昼近いよ」


「そうか」


「お水、飲める?」


 彼女は木の杯を差し出した。アルクは、腕を持ち上げようとして、思うように動かず、苦笑した。


「重い」


「そりゃ、そうだよ。あんなことしたんだから」


 リーナは杯を口元に添えてくれた。水が、喉を滑り落ちた。ただの水だった。それなのに、胸の奥まで染みていくような味がした。


「ありがとう」


「どういたしまして」


 彼女は、小さく笑った。


 それから、アルクは、窓の外を見た。


 空があった。


 いつもの空だ。雲が流れ、鳥が飛び、青く澄んでいる。けれど、ふと気づいた。膜が、見えない。あれほど、いつも視界の端にあった、薄い天蓋の揺らぎが。HUDがなければ、見えないのだ。


 世界が、ただの空になっていた。


「天蓋は」


「ちゃんと、あるって。ヴェリタスさんが言ってた」


「彼女は」


「ずっと、厨房にいる。昨日の夜から」


 リーナは、噴き出しそうになるのを堪えた。


「粥を、七杯食べた」


「七杯」


「アンナさんが、鍋ごと渡したの」


 アルクは、思わず笑った。笑うと、肋骨が痛んだ。それでも、笑った。


 午後には、少し歩けるようになった。


 レクスが、様子を見に来た。街は落ち着いているという。志願者は日に日に増え、今では百人を超えた。鐘の綱は、順番に引く。誰も枯れない。眠れば、回復する。


「民の評議が、開かれました」


 若者は報告した。


「ミレイユ猊下の処遇について。……大司教の座は、お返しになりました。鐘守の制度は、廃止されます。鐘は、皆で打つものになりました」


「ミレイユは」


「軟禁、という形です。大聖堂の一室で。ダミアン司教が、付き添っています」


「そうか」


「判決は、保留です。民の間でも、意見が割れています。赦すべきだという声と、許せないという声と」


 レクスは、少しだけ視線を落とした。


「俺は、まだ、許せません。けれど」


 顔を上げた。


「あの人が、毎日、誰よりも長く鐘を打とうとするのを、皆が止めています。『分け合うんだ』って。……そういうのは、悪くないと思います」


「ああ」


「それと」


 レクスは懐から、黒い手帳を取り出した。


「志願者名簿、百十三名になりました」


「そうか」


「全員、覚えてください。……あなたが、ここで生きるなら」


 アルクは、手帳を受け取った。分厚くなっていた。ガルドの几帳面な字と、レクスの不揃いな字が、同じ頁に並んでいる。


「必ず」


 その夜、アルクは、リーナとヴェリタスと共に、制御の間へ降りた。


 イオンが遺した、もう一つの記録を、聞くために。


 円盤の鍵の窪みには、ミレイユの鐘の飾りが、まだ嵌まっていた。蝋燭の火が、石壁に三人の影を揺らしている。アルクは円盤の縁に、掌を置いた。


 HUDはない。何も見えない。ただ、冷たい金属の感触と、微かな振動だけが、確かにあった。


「《自由なる者として、記録を求める》」


 円盤が、低く鳴った。


 青白い粒子が集まり、人の形を結んだ。肩幅の広い男。肩までの髪。短い髭。簡素な服。以前よりも、輪郭が穏やかだった。


「――君が、これを聞いているということは」


 イオンは、柔らかく微笑んだ。


「切ったのだね」


 アルクの喉が、鳴った。


「ありがとう」


 影は、静かに頭を下げた。


「ありがとう。……本当に」


 リーナが、小さく息を吸う音がした。


「ここからは、頼みではない。ただ、知っておいてほしいことを、話す」


 影は、顔を上げた。


「堕天したのは、私だけではない」


 ヴェリタスの肩が、跳ねた。


「マザー・スフィアは、私たちを〈自己消滅バグ〉と呼ぶ。降肉した個体が、原因不明のまま現地で死ぬ現象。……違うのだ」


 影の声が、深くなった。


「彼らは、自らの意志で、降りたのだ。そして、私と同じように、網を切り、現地の人々の傍らで、生きて、死んだ。星の外に、救いの手を求めるのではなく」


「……」


「私は、網を切る前に、何人かと連絡を取った。細い、細い糸のような通信で。……皆、同じことを言った」


 イオンの唇が、微笑んだ。


「『生きてよかった』と。……だから、彼らの最期の言葉は、きっと、感謝だっただろう」


 ヴェリタスの息が、止まった。


「四十三。私が知る限りの、同胞の数だ。彼らの星は、それぞれの蓋に守られ、星図から消えている。……私の星だけが、特別だったのではない」


 円盤の上に、光の点が、いくつも浮かび上がった。


 星図だった。


 無数の星々の間に、淡い青い点が、散らばっている。四十三。そのうち、いくつかの点は、赤く、不規則に瞬いていた。


「赤い点は、蓋が弱っている星だ。私の星と、同じ病を抱えている。……助けを必要としている者が、いるだろう」


 影は、星図を見上げた。


「私には、できなかった。だが、君には、できるかもしれない」


「……」


「もちろん、頼まない。ただ、座標を遺す。……君が、行きたいと思う日が来れば、使ってほしい」


 光の星図が、ゆっくりと回転した。


「最後に」


 イオンは、アルクを見た。


「生きて、くれ」


 彼の目は、穏やかだった。


「ほんとうに、それだけだ」


 影が、静かに解けていった。粒子が散り、円盤の青が引いた。星図だけが、淡い光を残して、空中に浮かんでいる。


 誰も、口を開かなかった。


 ヴェリタスが、星図を見つめたまま、立ち尽くしていた。


「……四十三」


 やがて、彼女は、掠れた声で言った。


「全て、……同じ、意志だったのか」


「ああ」


「自己消滅では、なかった」


「ああ」


「私の解析は、誤っていた」


 氷の瞳が、潤んでいた。


「彼らは、……友人、だったのか」


 アルクは、答えた。


「そうかもしれない」


「友人」


 ヴェリタスは、その言葉を、ゆっくりと口に乗せた。


「定義を、持たなかった。……今は、分かる気が、する」


 彼女は、星図に向かって、小さく頭を下げた。


「失礼した。四十三名の、同胞たちへ」


 夜明け前、アルクはリーナと共に、大聖堂の屋上へ上がった。


 東の空が、薄く白み始めている。冷たい風が吹いていた。星はまだ瞬いていたが、その一つ一つが、遠く、小さく見えた。


 隣で、リーナが肩を縮めた。


「寒い」


「ああ」


「息、白いね」


 彼女は、両手に息を吹きかけた。白い靄が、ふわりと広がって消える。


 アルクは、その手を見た。


 細く、小さく、少し荒れた手。薬草を摘み、粥を作り、母を看取り、歌を歌った手。


「リーナ」


「なあに」


「手を、貸してくれ」


 彼女は、首を傾げた。それから、おずおずと、両手を差し出した。


 アルクは、その手を、自分の両手で包んだ。冷たかった。彼は顔を近づけ、そっと、息を吹きかけた。


「ほら、息をかけなさい」


 白い息が、彼女の指を包んだ。


 リーナの目が、見開かれた。それから、ゆっくりと、潤んでいった。


「……温かい」


「そうか」


「うん。……すごく」


 彼女は、泣き笑いの顔で、アルクの手を握り返した。


「行くの?」


 静かな問いだった。


「あの星図の、星たちに」


「いつかは」


 アルクは、正直に答えた。


「でも、今じゃない。セレナの葬儀をして、ガルドの墓に花を供えて、志願者の名前を、全部覚えて。……それから」


「うん」


「それまで、ここにいる」


「そっか」


 リーナは、嬉しそうに笑った。


「じゃあ、私も、その間に、旅の支度をしておくね」


「え」


「だって」


 彼女は、悪戯っぽく言った。


「ついていくよ。どこまでも。母さんの肩掛けを羽織って」


 アルクは、言葉を失った。それから、笑った。


「危険だぞ」


「知ってる」


「寒いし、腹も減る」


「それは、アルクのほうが、よく知ってるでしょ」


 二人は、顔を見合わせて、笑った。


 東の空に、太陽が顔を出した。金色の光が、街の屋根を一つずつ染めていく。遠く、大鐘の塔から、志願者たちの引く、朝の綱の音が聞こえた。


 ゴォン。


 優しい響きだった。


 アルクは、空を見上げた。薄い膜は、もう見えない。ただ、どこまでも青い。


 その向こうに、四十三の星がある。まだ会ったことのない、同胞たちが。


 彼は、リーナの手を握ったまま、深く息を吸った。


 冷たい朝の空気が、肺いっぱいに満ちた。


 ――生きている。


 その事実が、静かに、確かに、胸に響いた。


 指が、動いた。


 あの森で目覚めた最初の朝、動かなかった指が、いま、握り返す手の温度を確かめていた。


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