第12話 遺された座標
朝は、まぶしかった。
瞼の裏が、赤く透けている。誰かの話し声。食器の触れ合う音。遠くで鳥が鳴いている。アルクは、ゆっくりと目を開けた。
見慣れない天井だった。いや、見慣れた天井だ。医院の特別室。窓から斜めに差し込む朝日が、白い壁に長い光の筋を引いている。
身体が、重かった。
腕が、動かない。脚も、鉛のようだった。喉が乾き、頭の奥が鈍く痛む。胃のあたりが空洞のように鳴っていた。
これが、疲れ、というものか。
数万年、知識としてだけ知っていた感覚が、全身に満ちていた。そしてそれが、不思議なほど、嫌ではなかった。
「起きた」
小さな声が、した。
枕元の椅子に、リーナが座っていた。膝に毛布を掛け、母の肩掛けを肩に羽織っている。目の下に隈はあったが、頬は少し血色が戻っていた。
「おはよう」
「おはよう」
アルクの声は、ひどく掠れていた。
「どれくらい、寝ていた」
「一晩と、少し。もうお昼近いよ」
「そうか」
「お水、飲める?」
彼女は木の杯を差し出した。アルクは、腕を持ち上げようとして、思うように動かず、苦笑した。
「重い」
「そりゃ、そうだよ。あんなことしたんだから」
リーナは杯を口元に添えてくれた。水が、喉を滑り落ちた。ただの水だった。それなのに、胸の奥まで染みていくような味がした。
「ありがとう」
「どういたしまして」
彼女は、小さく笑った。
それから、アルクは、窓の外を見た。
空があった。
いつもの空だ。雲が流れ、鳥が飛び、青く澄んでいる。けれど、ふと気づいた。膜が、見えない。あれほど、いつも視界の端にあった、薄い天蓋の揺らぎが。HUDがなければ、見えないのだ。
世界が、ただの空になっていた。
「天蓋は」
「ちゃんと、あるって。ヴェリタスさんが言ってた」
「彼女は」
「ずっと、厨房にいる。昨日の夜から」
リーナは、噴き出しそうになるのを堪えた。
「粥を、七杯食べた」
「七杯」
「アンナさんが、鍋ごと渡したの」
アルクは、思わず笑った。笑うと、肋骨が痛んだ。それでも、笑った。
午後には、少し歩けるようになった。
レクスが、様子を見に来た。街は落ち着いているという。志願者は日に日に増え、今では百人を超えた。鐘の綱は、順番に引く。誰も枯れない。眠れば、回復する。
「民の評議が、開かれました」
若者は報告した。
「ミレイユ猊下の処遇について。……大司教の座は、お返しになりました。鐘守の制度は、廃止されます。鐘は、皆で打つものになりました」
「ミレイユは」
「軟禁、という形です。大聖堂の一室で。ダミアン司教が、付き添っています」
「そうか」
「判決は、保留です。民の間でも、意見が割れています。赦すべきだという声と、許せないという声と」
レクスは、少しだけ視線を落とした。
「俺は、まだ、許せません。けれど」
顔を上げた。
「あの人が、毎日、誰よりも長く鐘を打とうとするのを、皆が止めています。『分け合うんだ』って。……そういうのは、悪くないと思います」
「ああ」
「それと」
レクスは懐から、黒い手帳を取り出した。
「志願者名簿、百十三名になりました」
「そうか」
「全員、覚えてください。……あなたが、ここで生きるなら」
アルクは、手帳を受け取った。分厚くなっていた。ガルドの几帳面な字と、レクスの不揃いな字が、同じ頁に並んでいる。
「必ず」
その夜、アルクは、リーナとヴェリタスと共に、制御の間へ降りた。
イオンが遺した、もう一つの記録を、聞くために。
円盤の鍵の窪みには、ミレイユの鐘の飾りが、まだ嵌まっていた。蝋燭の火が、石壁に三人の影を揺らしている。アルクは円盤の縁に、掌を置いた。
HUDはない。何も見えない。ただ、冷たい金属の感触と、微かな振動だけが、確かにあった。
「《自由なる者として、記録を求める》」
円盤が、低く鳴った。
青白い粒子が集まり、人の形を結んだ。肩幅の広い男。肩までの髪。短い髭。簡素な服。以前よりも、輪郭が穏やかだった。
「――君が、これを聞いているということは」
イオンは、柔らかく微笑んだ。
「切ったのだね」
アルクの喉が、鳴った。
「ありがとう」
影は、静かに頭を下げた。
「ありがとう。……本当に」
リーナが、小さく息を吸う音がした。
「ここからは、頼みではない。ただ、知っておいてほしいことを、話す」
影は、顔を上げた。
「堕天したのは、私だけではない」
ヴェリタスの肩が、跳ねた。
「マザー・スフィアは、私たちを〈自己消滅バグ〉と呼ぶ。降肉した個体が、原因不明のまま現地で死ぬ現象。……違うのだ」
影の声が、深くなった。
「彼らは、自らの意志で、降りたのだ。そして、私と同じように、網を切り、現地の人々の傍らで、生きて、死んだ。星の外に、救いの手を求めるのではなく」
「……」
「私は、網を切る前に、何人かと連絡を取った。細い、細い糸のような通信で。……皆、同じことを言った」
イオンの唇が、微笑んだ。
「『生きてよかった』と。……だから、彼らの最期の言葉は、きっと、感謝だっただろう」
ヴェリタスの息が、止まった。
「四十三。私が知る限りの、同胞の数だ。彼らの星は、それぞれの蓋に守られ、星図から消えている。……私の星だけが、特別だったのではない」
円盤の上に、光の点が、いくつも浮かび上がった。
星図だった。
無数の星々の間に、淡い青い点が、散らばっている。四十三。そのうち、いくつかの点は、赤く、不規則に瞬いていた。
「赤い点は、蓋が弱っている星だ。私の星と、同じ病を抱えている。……助けを必要としている者が、いるだろう」
影は、星図を見上げた。
「私には、できなかった。だが、君には、できるかもしれない」
「……」
「もちろん、頼まない。ただ、座標を遺す。……君が、行きたいと思う日が来れば、使ってほしい」
光の星図が、ゆっくりと回転した。
「最後に」
イオンは、アルクを見た。
「生きて、くれ」
彼の目は、穏やかだった。
「ほんとうに、それだけだ」
影が、静かに解けていった。粒子が散り、円盤の青が引いた。星図だけが、淡い光を残して、空中に浮かんでいる。
誰も、口を開かなかった。
ヴェリタスが、星図を見つめたまま、立ち尽くしていた。
「……四十三」
やがて、彼女は、掠れた声で言った。
「全て、……同じ、意志だったのか」
「ああ」
「自己消滅では、なかった」
「ああ」
「私の解析は、誤っていた」
氷の瞳が、潤んでいた。
「彼らは、……友人、だったのか」
アルクは、答えた。
「そうかもしれない」
「友人」
ヴェリタスは、その言葉を、ゆっくりと口に乗せた。
「定義を、持たなかった。……今は、分かる気が、する」
彼女は、星図に向かって、小さく頭を下げた。
「失礼した。四十三名の、同胞たちへ」
夜明け前、アルクはリーナと共に、大聖堂の屋上へ上がった。
東の空が、薄く白み始めている。冷たい風が吹いていた。星はまだ瞬いていたが、その一つ一つが、遠く、小さく見えた。
隣で、リーナが肩を縮めた。
「寒い」
「ああ」
「息、白いね」
彼女は、両手に息を吹きかけた。白い靄が、ふわりと広がって消える。
アルクは、その手を見た。
細く、小さく、少し荒れた手。薬草を摘み、粥を作り、母を看取り、歌を歌った手。
「リーナ」
「なあに」
「手を、貸してくれ」
彼女は、首を傾げた。それから、おずおずと、両手を差し出した。
アルクは、その手を、自分の両手で包んだ。冷たかった。彼は顔を近づけ、そっと、息を吹きかけた。
「ほら、息をかけなさい」
白い息が、彼女の指を包んだ。
リーナの目が、見開かれた。それから、ゆっくりと、潤んでいった。
「……温かい」
「そうか」
「うん。……すごく」
彼女は、泣き笑いの顔で、アルクの手を握り返した。
「行くの?」
静かな問いだった。
「あの星図の、星たちに」
「いつかは」
アルクは、正直に答えた。
「でも、今じゃない。セレナの葬儀をして、ガルドの墓に花を供えて、志願者の名前を、全部覚えて。……それから」
「うん」
「それまで、ここにいる」
「そっか」
リーナは、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、私も、その間に、旅の支度をしておくね」
「え」
「だって」
彼女は、悪戯っぽく言った。
「ついていくよ。どこまでも。母さんの肩掛けを羽織って」
アルクは、言葉を失った。それから、笑った。
「危険だぞ」
「知ってる」
「寒いし、腹も減る」
「それは、アルクのほうが、よく知ってるでしょ」
二人は、顔を見合わせて、笑った。
東の空に、太陽が顔を出した。金色の光が、街の屋根を一つずつ染めていく。遠く、大鐘の塔から、志願者たちの引く、朝の綱の音が聞こえた。
ゴォン。
優しい響きだった。
アルクは、空を見上げた。薄い膜は、もう見えない。ただ、どこまでも青い。
その向こうに、四十三の星がある。まだ会ったことのない、同胞たちが。
彼は、リーナの手を握ったまま、深く息を吸った。
冷たい朝の空気が、肺いっぱいに満ちた。
――生きている。
その事実が、静かに、確かに、胸に響いた。
指が、動いた。
あの森で目覚めた最初の朝、動かなかった指が、いま、握り返す手の温度を確かめていた。




