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堕天のアルケー  作者: 山本田38ページ
第4章 堕天使の遺言
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第10話 切断

 日没まで、一刻を切っていた。


 制御の間には、静けさがあった。三十六の結晶が、ゆっくりと呼吸するように脈打っている。円盤の中央には、ミレイユの鐘の飾りが嵌まり、そこから青い光が筋を引いて広がっていた。


 アルクは円盤の前に立ち、深く息を吸った。


 隣にリーナ。壁際にヴェリタス。ミレイユとダミアンが、円盤の反対側に並んでいる。入口の傍には、黒い手帳を持ったレクスが立っていた。


「準備は、いいですか」


 ミレイユが静かに言った。


「ああ」


 アルクは、リーナの顔を見た。彼女は小さく頷いた。そして、ほんの少しだけ、手を伸ばして、彼の指先に触れた。


「ここにいるから」


「ありがとう」


 彼は円盤の縁に、右の掌を置いた。冷たい金属の下で、微かな振動が脈打っている。


「手順を、確認する」


 ヴェリタスが、壁から声を投げた。


「切断は、内側からしか行えない。まず、自らリンクを開く。次に、網との接続を保持している全ての回路を、自分の意志で断つ。網の呼びかけに、応えてはならない」


「分かっている」


「失敗すれば、記憶と人格が拡散する。ノードは網に吸収される」


「分かっている」


「……それでも、行うのか」


「ああ」


 アルクは、目を閉じた。


「レクス」


「はい」


「名前を、読んでくれ。最初から。ゆっくり」


「分かりました」


 若者は、手帳を開いた。ガルドの形見の、黒い革の手帳。彼は深く息を吸い、よく通る声で、読み始めた。


「ハンス・ミューラー」


 その声が、広間に落ちた。


「ゲルト・シュタイン」


 アルクは、その音に自分の意識を預けた。


「ヨナス・クライン」


 一人ずつ。区切りながら。


 その響きを、錨にする。


 リーナが、一歩前に出た。母の青い肩掛けを握りしめて、小さく歌い始めた。


 灰の森の子守唄。


 最初の句が、静かに広間を満たす。レクスの声と、リーナの声が、重なった。


 アルクは、意識を内側に沈めた。


 深く。深く。


 これまで一度も開かなかった扉に、手をかけた。


 量子リンク。


 それは、扉というより、堰に近かった。長い年月、彼がせき止めてきたもの。それを、ゆっくりと、解いた。


 次の瞬間、全てが、流れ込んできた。


 光。


 音。無数の囁き。


 思考の海だった。彼が数万年を過ごした、巨大な網。何千億という意識が、互いに溶け合い、静かに共鳴している世界。そこには、飢えがなかった。寒さがなかった。痛みがなかった。恐れもなかった。ただ、澄んだ、冷たい、完璧な平穏だけがあった。


《おかえり》


 声が、した。いや、声ではない。理解の形をした、柔らかい波。


《痛みは、いらない》


《悲しみは、いらない》


《おいで》


 懐かしかった。胸が、締めつけられるほどに。


 身体が、軽くなる。足元の感覚が薄れる。自分の輪郭が、少しずつ、溶けていくのが分かった。


 ――このまま、溶けてしまえば、楽だ。


 その思いが、すっと心に入り込んだ。


「ガルド・ヴァイン」


 遠くで、レクスの声がした。


「左膝が悪く、卓を二回叩く癖があった。借りは、必ず返す人だった」


 アルクの意識が、一瞬、鮮明になった。


 ガルドの手。卓を叩く音。酒場の笑い声。


「……そうだ」


 口の中で呟いた。


 網の囁きが、強まった。


《忘れなさい》


《あなたは、苦しんでいる》


 リーナの歌が、続いていた。三句目。四句目。細く、けれど、揺るぎない声。


 その旋律が、アルクの耳の奥に、染み込んでいく。


 ――あれ。


 彼は、気づいた。


 この旋律を、知っている。


 灰の森で聞いた、セレナの子守唄としてではない。もっと前に。ずっと前に。


 数万年の、最果てで。


 冬の、白い息の向こうに。


 視界が、急に変わった。


 網の光が消え、薄暗い灰色の世界が広がった。雪が降っている。瓦礫の街の片隅。壊れた建物の影。小さな子供が、立ち尽くしている。


 ――私だ。


 七つか八つの少年だった。指先が赤くかじかんで、感覚がない。歯がかちかちと鳴っていた。


「さむい」


 幼い声が、漏れた。


 その時、大きくて冷たい手が、両手を包んだ。


「ほら、息をかけなさい」


 しゃがみ込んだ女の人が、少年の手を、自分の両手で挟んだ。顔を近づけ、白い息を、そっと吹きかける。手は冷たいのに、息だけが、柔らかく、湿って、熱かった。


 顔が、見えた。


 痩せた頬。疲れた目。ほつれた黒い髪を、布でまとめている。けれど、その瞳は、優しかった。雪の中で、少年だけを見ていた。


「大丈夫。寒いのはね、生きてる証拠よ」


 母だった。


 少年は、ぎゅっと母の指を握り返した。


「ねえ、おうた」


「歌?」


「寝るとき、歌って」


「いいわよ」


 母は笑って、小さく歌い始めた。


 ねんね、ねんね。


 意味の取れる言葉だった。旧い地球の言葉。けれど、その旋律は。


 アルクの喉から、嗚咽が漏れた。


 灰の森の子守唄と、同じ旋律だった。


 ――イオン。


 あの人も、この旋律を、知っていたのだ。同じ星から来た者。滅びた故郷の、小さな家の、小さな子守唄。それを、異郷の地で、娘のために、編み直した。


 数万年を超えて。星を越えて。


 母の旋律が、この星の鍵になった。


「母さん……」


 声が、出た。


 幼い自分の手を包む、母の手の温度が、確かにそこにあった。


《忘れなさい》


 網の声が、遠くなっていく。


「忘れない」


 アルクは、はっきりと言った。


「私は、この手を、覚えている」


《苦しみが》


「苦しくていい」


 彼は網に向かって、静かに告げた。


「温かかったから、苦しいんだ。……失ったから、愛おしいんだ」


 囁きが、止まった。


 無数の声が、一斉に、沈黙した。


「さよなら」


 アルクは言った。


「長い間、ありがとう」


 意志を込めて、断った。


 全ての回路を。全ての接続を。数万年の糸を、一本ずつ。


 痛みが走った。


 身体が裂けるような痛みだった。いや、魂が裂けるような。胸の奥から何かが引き剥がされ、遠くへ流れていく。視界が、白と黒に明滅する。


「アルク!」


 リーナの声が、近くで聞こえた。


「ここにいるよ! アルク!」


 彼女が、手を握りしめている。小さな、温かい手。


「ガルド・ヴァイン」


 レクスの声が、最後の名を告げた。


 光が、消えた。


 ――静かだった。


 アルクは、目を開けた。


 石の床に、膝をついていた。リーナが彼の肩を支えている。額に、冷たい汗が滲んでいた。心臓が、うるさいほど鳴っている。


 HUDが、なかった。


 視界の隅の、あの青い文字も、数値も、警告も。全てが消えていた。世界はただ、目に映るままの姿でそこにあった。円盤。壁。人々の顔。


 誰の濃度も、見えなかった。


 誰の鼓動も、数えられなかった。


 彼は、自分の掌を見つめた。細い指。かすかな震え。汗の滴。


「……聞こえるか」


 ヴェリタスの声が、した。


「ああ」


「リンクは、完全に消失している」


 彼女は、静かに告げた。


「君は、自由ノードに移行した。……もう、網には、戻れない」


「そうか」


 アルクは、深く息を吸った。


 空気が、冷たかった。肺が痛んだ。けれど、それは、確かに、自分の肺だった。


 世界は、驚くほど静かで、驚くほど、広かった。


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