第10話 切断
日没まで、一刻を切っていた。
制御の間には、静けさがあった。三十六の結晶が、ゆっくりと呼吸するように脈打っている。円盤の中央には、ミレイユの鐘の飾りが嵌まり、そこから青い光が筋を引いて広がっていた。
アルクは円盤の前に立ち、深く息を吸った。
隣にリーナ。壁際にヴェリタス。ミレイユとダミアンが、円盤の反対側に並んでいる。入口の傍には、黒い手帳を持ったレクスが立っていた。
「準備は、いいですか」
ミレイユが静かに言った。
「ああ」
アルクは、リーナの顔を見た。彼女は小さく頷いた。そして、ほんの少しだけ、手を伸ばして、彼の指先に触れた。
「ここにいるから」
「ありがとう」
彼は円盤の縁に、右の掌を置いた。冷たい金属の下で、微かな振動が脈打っている。
「手順を、確認する」
ヴェリタスが、壁から声を投げた。
「切断は、内側からしか行えない。まず、自らリンクを開く。次に、網との接続を保持している全ての回路を、自分の意志で断つ。網の呼びかけに、応えてはならない」
「分かっている」
「失敗すれば、記憶と人格が拡散する。ノードは網に吸収される」
「分かっている」
「……それでも、行うのか」
「ああ」
アルクは、目を閉じた。
「レクス」
「はい」
「名前を、読んでくれ。最初から。ゆっくり」
「分かりました」
若者は、手帳を開いた。ガルドの形見の、黒い革の手帳。彼は深く息を吸い、よく通る声で、読み始めた。
「ハンス・ミューラー」
その声が、広間に落ちた。
「ゲルト・シュタイン」
アルクは、その音に自分の意識を預けた。
「ヨナス・クライン」
一人ずつ。区切りながら。
その響きを、錨にする。
リーナが、一歩前に出た。母の青い肩掛けを握りしめて、小さく歌い始めた。
灰の森の子守唄。
最初の句が、静かに広間を満たす。レクスの声と、リーナの声が、重なった。
アルクは、意識を内側に沈めた。
深く。深く。
これまで一度も開かなかった扉に、手をかけた。
量子リンク。
それは、扉というより、堰に近かった。長い年月、彼がせき止めてきたもの。それを、ゆっくりと、解いた。
次の瞬間、全てが、流れ込んできた。
光。
音。無数の囁き。
思考の海だった。彼が数万年を過ごした、巨大な網。何千億という意識が、互いに溶け合い、静かに共鳴している世界。そこには、飢えがなかった。寒さがなかった。痛みがなかった。恐れもなかった。ただ、澄んだ、冷たい、完璧な平穏だけがあった。
《おかえり》
声が、した。いや、声ではない。理解の形をした、柔らかい波。
《痛みは、いらない》
《悲しみは、いらない》
《おいで》
懐かしかった。胸が、締めつけられるほどに。
身体が、軽くなる。足元の感覚が薄れる。自分の輪郭が、少しずつ、溶けていくのが分かった。
――このまま、溶けてしまえば、楽だ。
その思いが、すっと心に入り込んだ。
「ガルド・ヴァイン」
遠くで、レクスの声がした。
「左膝が悪く、卓を二回叩く癖があった。借りは、必ず返す人だった」
アルクの意識が、一瞬、鮮明になった。
ガルドの手。卓を叩く音。酒場の笑い声。
「……そうだ」
口の中で呟いた。
網の囁きが、強まった。
《忘れなさい》
《あなたは、苦しんでいる》
リーナの歌が、続いていた。三句目。四句目。細く、けれど、揺るぎない声。
その旋律が、アルクの耳の奥に、染み込んでいく。
――あれ。
彼は、気づいた。
この旋律を、知っている。
灰の森で聞いた、セレナの子守唄としてではない。もっと前に。ずっと前に。
数万年の、最果てで。
冬の、白い息の向こうに。
視界が、急に変わった。
網の光が消え、薄暗い灰色の世界が広がった。雪が降っている。瓦礫の街の片隅。壊れた建物の影。小さな子供が、立ち尽くしている。
――私だ。
七つか八つの少年だった。指先が赤くかじかんで、感覚がない。歯がかちかちと鳴っていた。
「さむい」
幼い声が、漏れた。
その時、大きくて冷たい手が、両手を包んだ。
「ほら、息をかけなさい」
しゃがみ込んだ女の人が、少年の手を、自分の両手で挟んだ。顔を近づけ、白い息を、そっと吹きかける。手は冷たいのに、息だけが、柔らかく、湿って、熱かった。
顔が、見えた。
痩せた頬。疲れた目。ほつれた黒い髪を、布でまとめている。けれど、その瞳は、優しかった。雪の中で、少年だけを見ていた。
「大丈夫。寒いのはね、生きてる証拠よ」
母だった。
少年は、ぎゅっと母の指を握り返した。
「ねえ、おうた」
「歌?」
「寝るとき、歌って」
「いいわよ」
母は笑って、小さく歌い始めた。
ねんね、ねんね。
意味の取れる言葉だった。旧い地球の言葉。けれど、その旋律は。
アルクの喉から、嗚咽が漏れた。
灰の森の子守唄と、同じ旋律だった。
――イオン。
あの人も、この旋律を、知っていたのだ。同じ星から来た者。滅びた故郷の、小さな家の、小さな子守唄。それを、異郷の地で、娘のために、編み直した。
数万年を超えて。星を越えて。
母の旋律が、この星の鍵になった。
「母さん……」
声が、出た。
幼い自分の手を包む、母の手の温度が、確かにそこにあった。
《忘れなさい》
網の声が、遠くなっていく。
「忘れない」
アルクは、はっきりと言った。
「私は、この手を、覚えている」
《苦しみが》
「苦しくていい」
彼は網に向かって、静かに告げた。
「温かかったから、苦しいんだ。……失ったから、愛おしいんだ」
囁きが、止まった。
無数の声が、一斉に、沈黙した。
「さよなら」
アルクは言った。
「長い間、ありがとう」
意志を込めて、断った。
全ての回路を。全ての接続を。数万年の糸を、一本ずつ。
痛みが走った。
身体が裂けるような痛みだった。いや、魂が裂けるような。胸の奥から何かが引き剥がされ、遠くへ流れていく。視界が、白と黒に明滅する。
「アルク!」
リーナの声が、近くで聞こえた。
「ここにいるよ! アルク!」
彼女が、手を握りしめている。小さな、温かい手。
「ガルド・ヴァイン」
レクスの声が、最後の名を告げた。
光が、消えた。
――静かだった。
アルクは、目を開けた。
石の床に、膝をついていた。リーナが彼の肩を支えている。額に、冷たい汗が滲んでいた。心臓が、うるさいほど鳴っている。
HUDが、なかった。
視界の隅の、あの青い文字も、数値も、警告も。全てが消えていた。世界はただ、目に映るままの姿でそこにあった。円盤。壁。人々の顔。
誰の濃度も、見えなかった。
誰の鼓動も、数えられなかった。
彼は、自分の掌を見つめた。細い指。かすかな震え。汗の滴。
「……聞こえるか」
ヴェリタスの声が、した。
「ああ」
「リンクは、完全に消失している」
彼女は、静かに告げた。
「君は、自由ノードに移行した。……もう、網には、戻れない」
「そうか」
アルクは、深く息を吸った。
空気が、冷たかった。肺が痛んだ。けれど、それは、確かに、自分の肺だった。
世界は、驚くほど静かで、驚くほど、広かった。




