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堕天のアルケー  作者: 山本田38ページ
第4章 堕天使の遺言
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第9話 選択

 眠れなかった。


 大聖堂の屋上に、冷たい風が吹いていた。夜明け前の闇の中、アルクは胸壁にもたれ、街の灯りを見下ろしていた。窓の灯がぽつぽつと並び、遠くで見張りの松明が揺れている。大鐘の塔は黙していた。夜の間は、鐘を打たない。


 三日目の未明だった。期限の日没まで、あと十数時間。


 右手の指を、静かに開いて、閉じた。ヨルグのナイフの柄の跡が、掌に残っている。


 その時、視界の隅で、HUDが小さく光った。


《アルケー-704》


 文字が、浮かんだ。


 これまでの、機械的な警告ではなかった。ゆっくりと、一文字ずつ、書き込まれるように現れる。


《帰還せよ》


 アルクは動かなかった。


《痛みは除去される》


《喪失は、無かったことになる》


 指が、止まった。


 喪失が、無かったことになる。


 その一行が、冷たい刃のように、胸の奥に差し込まれた。


 ガルドの死。飛竜の爪。石畳に広がった赤。三秒。あの三秒の、重さ。


 全て、消える。何事もなかったように。


《記憶の汚染は、苦痛の源である》


《あなたは、苦しんでいる》


《私たちは、あなたを救う》


 優しい文字だった。恐ろしいほど。


 数万年、彼はその網の一部だった。無数の思考が、静かに溶け合う世界。飢えも、痛みも、悲しみも、ない。そこへ帰れば、この胸の軋みも、夜の寒さも、全てなくなる。


 楽になれる。


 その誘惑は、予想以上に深く、彼の中に染み入った。


 ――喪失が、無かったことに。


 彼は目を閉じた。


 ガルドの声が、聞こえた気がした。酒場の卓を二回叩く音。『怖がれ、アルク』。


 石畳に落ちた、血の染み。レクスの拳。リーナの涙。セレナの『ありがとう』。


 それら全てが、苦痛の源だと、網は言っている。


「……違う」


 声が、出た。


「それは、苦痛の源じゃない」


 彼は目を開けた。


「私が、……あの人たちを、愛した証だ」


 HUDの文字が、揺れた。


《理解不能》


「分からなくていい」


 アルクは、静かに言った。


「無かったことになどしない。痛くても、覚えている」


 文字が、ふっと消えた。


 風が、強く吹いた。


 夜明けの薄い光が、東の空を白く染め始めていた。


 朝、アルクは街の外れの墓所に向かった。


 ガルドの墓は、騎士団の戦没者の墓の列の端にあった。簡素な石の標に、名前が刻まれている。《ガルド・ヴァイン》。前には、黒い外套が畳んで置かれていた。


 その前に、先客がいた。


 レクスだった。


 黒い手帳を片手に、墓の前で膝をついていた。アルクの足音に気づくと、顔を上げず、静かに言った。


「来ましたか」


「ああ」


「今日が、期限でしょう」


「そうだ」


 レクスは立ち上がった。目の下に隈があった。けれど、眼差しは、昨日までよりずっと落ち着いていた。


「名前、全部言えますか」


「十人までなら」


「じゃあ、言ってみてください」


 アルクは、墓の前に立った。


 息を吸い、ゆっくりと、口にした。


「ハンス・ミューラー。左利きで、干し葡萄が好きだった。ゲルト・シュタイン。歌がうまかった。ヨナス・クライン。雨の日に、眠れなかった」


 一人ずつ、特徴を添えて、言った。レクスが教えてくれたとおりに。十人。そして最後に。


「ガルド・ヴァイン」


 声が、少し詰まった。


「左膝が悪くて、卓を二回叩く癖があった。借りは、必ず返す人だった」


 静けさが、墓所を満たした。


 レクスは黙って聞いていた。やがて、手帳を開き、頁をめくった。


「一つ、間違えています」


「え」


「雨の日に眠れなかったのは、ゲルトです。ヨナスは、雨の日に歌うんです。下手なのに、本人は気づいていなくて」


 アルクは目を見開いた。


「そうだったか。……すまない」


 拳が飛んでくると思った。けれど、レクスは手帳を閉じただけだった。


「殴りません」


「え」


「今日は、殴りたくないので」


 彼は、墓の標に目を向けた。


「俺は、あなたを許していません。たぶん、これからも。……でも」


 声が、わずかに震えた。


「あなたが覚えているなら、団長の名前は、なくならない」


「レクス」


「俺が死んでも、あなたが覚えていてくれるなら。そう思えるのは、……少しだけ、楽です」


 アルクの胸が、熱くなった。


「だから、聞きます」


 若者は顔を上げた。


「あなたは、今日、何を選ぶんですか」


「まだ、言えない」


「そうですか」


 レクスは頷いた。


「俺は、何を選んでも、止めません。団長は、言っていました。『お前は自由だ』と。……自由なら、選べるでしょう」


 そう言って、彼は墓の標に、短く敬礼した。それから、背を向けて歩き出した。


「アルクさん」


 数歩進んで、立ち止まる。


「どうせなら、後悔しない方を、選んでください。団長みたいに」


 足音が、遠ざかっていった。


 昼を過ぎた頃、大鐘の塔の下に、人々が集まっていた。


 夕刻の鐘の準備だった。志願者の列が、昨日より増えている。エルゼ・ハイネが、帳面を片手に、順番を確認していた。ミハエルが、松葉杖で壁際に腰を下ろしている。ブラムが、不機嫌そうに腕を組んでいた。


 その輪の外れに、リーナがいた。肩に青い肩掛けをかけて、静かに待っている。


「アルク」


 彼女は、彼の顔を見ただけで、何も聞かなかった。


「決まった?」


「ああ」


「そう」


 リーナは、小さく頷いた。


 塔の窓から、ミレイユが顔を覗かせていた。ダミアンが傍に立っている。ヴェリタスが、広場の隅の石段に腰を下ろしていた。外套にくるまり、膝に頬杖をついている。三人が、アルクを見ていた。


 アルクは、広場の中央に進み出た。


 人々が、ざわめきを止めた。誰もが、彼の次の言葉を待っていた。


「皆さんに、話があります」


 声が、広場に響いた。


「私は、この星の人間ではありません。空の彼方から、来ました。昨夜、私に二つの道が示されました。一つは、故郷へ帰ること。そうすれば、この星への浄化は保留される可能性が高く、私は全ての痛みと喪失を忘れます」


 息を呑む音が、広場に広がった。


「もう一つは、この星に残ること。私が持つ、全知と、永遠を、捨てて。二度と、故郷には戻れず、あなたたちと同じ、有限の命で生きて、死ぬこと」


 ヴェリタスの目が、わずかに見開かれた。


「後者は、星を救う、確実な保証がありません。成功するかもしれない。失敗するかもしれない。失敗すれば、私も、あなたたちも、皆、……消えます」


 静寂が、落ちた。


「それでも」


 アルクは、リーナを見た。彼女の瞳が、うなずくように揺れた。


「私は、残ります」


 広場が、揺れた。


「私は、忘れたくない。ガルド・ヴァインの名前を。セレナ・ハートウェルの歌を。ここで食べた粥の味を。痛みも、喪失も。……それは、私が愛した証だから」


 言葉が、自然に出てきた。


「死ぬことは、怖い。だが、死ぬ私を覚えていてくれる人がいる。それなら、私は、人として死んでいい」


 誰かが、泣き出した。


 エルゼが、帳面を胸に抱いて、俯いていた。ミハエルが、杖を握りしめた。ブラムが、そっぽを向いて目元を拭った。


 塔の窓で、ミレイユが両手で口を覆った。肩が震えていた。


「アルク」


 背後から、冷たい声がした。


 ヴェリタスが、石段から立ち上がっていた。外套を肩に引っかけたまま、まっすぐに彼を見ている。


「確認する」


「ああ」


「君は、回収を拒否し、リンクの恒久切断を選択するのか」


「そうだ」


「成功の保証は」


「ない」


「失敗した場合の結果は」


「皆、消える」


「それでも、選ぶのか」


「選ぶ」


 ヴェリタスは、しばらく黙っていた。氷の青の瞳が、揺れずにアルクを見つめていた。やがて、彼女は低く、確かめるように言った。


「理由を、記録する。何と答える」


 アルクは、微かに笑った。


「ありがとう、と言えるように」


 ヴェリタスの目が、大きく見開かれた。


「それが、理由か」


「ああ。四十三件の最期の言葉と、同じだ」


 彼女は、唇を結んだ。何かを言いかけて、言葉にならなかった。やがて、小さく、息を吐いた。


「……分かった」


 ヴェリタスは、背筋を伸ばした。


「審査期間は、日没まで残っている。その間に、実行せよ」


「ああ」


「立ち会う」


「ヴェリタス」


「記録のためだ」


 彼女は、ぷいと顔を背けた。耳の端が、赤い。


 リーナが、アルクの隣に歩み寄った。


「行こう」


 彼女は、彼の手を取った。温かい手だった。


「日没まで、あと、少し」


 空には、午後の陽が傾き始めていた。


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