第9話 選択
眠れなかった。
大聖堂の屋上に、冷たい風が吹いていた。夜明け前の闇の中、アルクは胸壁にもたれ、街の灯りを見下ろしていた。窓の灯がぽつぽつと並び、遠くで見張りの松明が揺れている。大鐘の塔は黙していた。夜の間は、鐘を打たない。
三日目の未明だった。期限の日没まで、あと十数時間。
右手の指を、静かに開いて、閉じた。ヨルグのナイフの柄の跡が、掌に残っている。
その時、視界の隅で、HUDが小さく光った。
《アルケー-704》
文字が、浮かんだ。
これまでの、機械的な警告ではなかった。ゆっくりと、一文字ずつ、書き込まれるように現れる。
《帰還せよ》
アルクは動かなかった。
《痛みは除去される》
《喪失は、無かったことになる》
指が、止まった。
喪失が、無かったことになる。
その一行が、冷たい刃のように、胸の奥に差し込まれた。
ガルドの死。飛竜の爪。石畳に広がった赤。三秒。あの三秒の、重さ。
全て、消える。何事もなかったように。
《記憶の汚染は、苦痛の源である》
《あなたは、苦しんでいる》
《私たちは、あなたを救う》
優しい文字だった。恐ろしいほど。
数万年、彼はその網の一部だった。無数の思考が、静かに溶け合う世界。飢えも、痛みも、悲しみも、ない。そこへ帰れば、この胸の軋みも、夜の寒さも、全てなくなる。
楽になれる。
その誘惑は、予想以上に深く、彼の中に染み入った。
――喪失が、無かったことに。
彼は目を閉じた。
ガルドの声が、聞こえた気がした。酒場の卓を二回叩く音。『怖がれ、アルク』。
石畳に落ちた、血の染み。レクスの拳。リーナの涙。セレナの『ありがとう』。
それら全てが、苦痛の源だと、網は言っている。
「……違う」
声が、出た。
「それは、苦痛の源じゃない」
彼は目を開けた。
「私が、……あの人たちを、愛した証だ」
HUDの文字が、揺れた。
《理解不能》
「分からなくていい」
アルクは、静かに言った。
「無かったことになどしない。痛くても、覚えている」
文字が、ふっと消えた。
風が、強く吹いた。
夜明けの薄い光が、東の空を白く染め始めていた。
朝、アルクは街の外れの墓所に向かった。
ガルドの墓は、騎士団の戦没者の墓の列の端にあった。簡素な石の標に、名前が刻まれている。《ガルド・ヴァイン》。前には、黒い外套が畳んで置かれていた。
その前に、先客がいた。
レクスだった。
黒い手帳を片手に、墓の前で膝をついていた。アルクの足音に気づくと、顔を上げず、静かに言った。
「来ましたか」
「ああ」
「今日が、期限でしょう」
「そうだ」
レクスは立ち上がった。目の下に隈があった。けれど、眼差しは、昨日までよりずっと落ち着いていた。
「名前、全部言えますか」
「十人までなら」
「じゃあ、言ってみてください」
アルクは、墓の前に立った。
息を吸い、ゆっくりと、口にした。
「ハンス・ミューラー。左利きで、干し葡萄が好きだった。ゲルト・シュタイン。歌がうまかった。ヨナス・クライン。雨の日に、眠れなかった」
一人ずつ、特徴を添えて、言った。レクスが教えてくれたとおりに。十人。そして最後に。
「ガルド・ヴァイン」
声が、少し詰まった。
「左膝が悪くて、卓を二回叩く癖があった。借りは、必ず返す人だった」
静けさが、墓所を満たした。
レクスは黙って聞いていた。やがて、手帳を開き、頁をめくった。
「一つ、間違えています」
「え」
「雨の日に眠れなかったのは、ゲルトです。ヨナスは、雨の日に歌うんです。下手なのに、本人は気づいていなくて」
アルクは目を見開いた。
「そうだったか。……すまない」
拳が飛んでくると思った。けれど、レクスは手帳を閉じただけだった。
「殴りません」
「え」
「今日は、殴りたくないので」
彼は、墓の標に目を向けた。
「俺は、あなたを許していません。たぶん、これからも。……でも」
声が、わずかに震えた。
「あなたが覚えているなら、団長の名前は、なくならない」
「レクス」
「俺が死んでも、あなたが覚えていてくれるなら。そう思えるのは、……少しだけ、楽です」
アルクの胸が、熱くなった。
「だから、聞きます」
若者は顔を上げた。
「あなたは、今日、何を選ぶんですか」
「まだ、言えない」
「そうですか」
レクスは頷いた。
「俺は、何を選んでも、止めません。団長は、言っていました。『お前は自由だ』と。……自由なら、選べるでしょう」
そう言って、彼は墓の標に、短く敬礼した。それから、背を向けて歩き出した。
「アルクさん」
数歩進んで、立ち止まる。
「どうせなら、後悔しない方を、選んでください。団長みたいに」
足音が、遠ざかっていった。
昼を過ぎた頃、大鐘の塔の下に、人々が集まっていた。
夕刻の鐘の準備だった。志願者の列が、昨日より増えている。エルゼ・ハイネが、帳面を片手に、順番を確認していた。ミハエルが、松葉杖で壁際に腰を下ろしている。ブラムが、不機嫌そうに腕を組んでいた。
その輪の外れに、リーナがいた。肩に青い肩掛けをかけて、静かに待っている。
「アルク」
彼女は、彼の顔を見ただけで、何も聞かなかった。
「決まった?」
「ああ」
「そう」
リーナは、小さく頷いた。
塔の窓から、ミレイユが顔を覗かせていた。ダミアンが傍に立っている。ヴェリタスが、広場の隅の石段に腰を下ろしていた。外套にくるまり、膝に頬杖をついている。三人が、アルクを見ていた。
アルクは、広場の中央に進み出た。
人々が、ざわめきを止めた。誰もが、彼の次の言葉を待っていた。
「皆さんに、話があります」
声が、広場に響いた。
「私は、この星の人間ではありません。空の彼方から、来ました。昨夜、私に二つの道が示されました。一つは、故郷へ帰ること。そうすれば、この星への浄化は保留される可能性が高く、私は全ての痛みと喪失を忘れます」
息を呑む音が、広場に広がった。
「もう一つは、この星に残ること。私が持つ、全知と、永遠を、捨てて。二度と、故郷には戻れず、あなたたちと同じ、有限の命で生きて、死ぬこと」
ヴェリタスの目が、わずかに見開かれた。
「後者は、星を救う、確実な保証がありません。成功するかもしれない。失敗するかもしれない。失敗すれば、私も、あなたたちも、皆、……消えます」
静寂が、落ちた。
「それでも」
アルクは、リーナを見た。彼女の瞳が、うなずくように揺れた。
「私は、残ります」
広場が、揺れた。
「私は、忘れたくない。ガルド・ヴァインの名前を。セレナ・ハートウェルの歌を。ここで食べた粥の味を。痛みも、喪失も。……それは、私が愛した証だから」
言葉が、自然に出てきた。
「死ぬことは、怖い。だが、死ぬ私を覚えていてくれる人がいる。それなら、私は、人として死んでいい」
誰かが、泣き出した。
エルゼが、帳面を胸に抱いて、俯いていた。ミハエルが、杖を握りしめた。ブラムが、そっぽを向いて目元を拭った。
塔の窓で、ミレイユが両手で口を覆った。肩が震えていた。
「アルク」
背後から、冷たい声がした。
ヴェリタスが、石段から立ち上がっていた。外套を肩に引っかけたまま、まっすぐに彼を見ている。
「確認する」
「ああ」
「君は、回収を拒否し、リンクの恒久切断を選択するのか」
「そうだ」
「成功の保証は」
「ない」
「失敗した場合の結果は」
「皆、消える」
「それでも、選ぶのか」
「選ぶ」
ヴェリタスは、しばらく黙っていた。氷の青の瞳が、揺れずにアルクを見つめていた。やがて、彼女は低く、確かめるように言った。
「理由を、記録する。何と答える」
アルクは、微かに笑った。
「ありがとう、と言えるように」
ヴェリタスの目が、大きく見開かれた。
「それが、理由か」
「ああ。四十三件の最期の言葉と、同じだ」
彼女は、唇を結んだ。何かを言いかけて、言葉にならなかった。やがて、小さく、息を吐いた。
「……分かった」
ヴェリタスは、背筋を伸ばした。
「審査期間は、日没まで残っている。その間に、実行せよ」
「ああ」
「立ち会う」
「ヴェリタス」
「記録のためだ」
彼女は、ぷいと顔を背けた。耳の端が、赤い。
リーナが、アルクの隣に歩み寄った。
「行こう」
彼女は、彼の手を取った。温かい手だった。
「日没まで、あと、少し」
空には、午後の陽が傾き始めていた。




