第8話 遺言
制御の間は、水の底のように静かだった。
円形の広間に、三十六の窪みを持つ円盤が据えられている。以前は半分近くが暗かった結晶は、いまは二十ほどが淡く灯っていた。蓋の健全性が、少しずつ戻っているのだ。
アルクは円盤の前に立っていた。隣にリーナ。少し離れてヴェリタスが、壁に背をつけ、外套にくるまっている。入口の扉の外には、レクスが騎士二人と共に立哨していた。
ミレイユは、ダミアンに付き添われ、円盤の傍らにいた。
「これを」
彼女は首の鐘の飾りを外した。小さな青銅の鐘。その底に、螺旋と幾何学の紋が刻まれている。
「大司教の鍵です。円盤の中央に、差し込むのです」
「あなたが、お願いします」
アルクが言うと、ミレイユは頷いた。円盤の中央の小さな窪みに、鐘の飾りを置く。ぴたりと嵌まった。
円盤が、低く鳴った。
青い光が、窪みから放射状に広がっていく。三十六の結晶が、一つずつ輝きを増し、壁の地図が脈打つ。床の下から、遠い振動が這い上がってきた。
「主幹線に、繋がりました」
アルクは掌を円盤に近づけた。触れない。ただ、受動の解析だけを走らせる。
《主幹線 接続:管理核》
《認証:天蓋の鍵 保有者》
《保存記録:一件。再生条件:自由ノードの接近、または鍵の歌》
「自由ノードの、接近」
アルクは呟いた。自分のことではない。まだ自由ではない。
「リーナ」
「うん」
彼女は一歩前に出た。青い肩掛けを握りしめ、息を吸う。
「最初の一句だけ、歌うね」
「無理は」
「大丈夫。短いから」
リーナは目を閉じ、子守唄の最初の句を、静かに歌った。十一秒。母がいつも歌っていた旋律。
円盤の光が、変わった。
青白い光の粒子が、広間の中央に集まり、人の形を結び始めた。
薄い、半透明の影だった。背の高い男。肩幅が広く、髪は肩まで届き、顎に短い髭がある。簡素な服を着て、両手を体の前で組んでいる。目だけが、はっきりとしていた。深い、静かな、人の目。
影が、口を開いた。
「――いつか、来る者へ」
低く、柔らかい声だった。
「私は、イオン。かつて〈イオン-12〉と呼ばれた者だ」
アルクの胸が、強く打った。
「君が誰であるかは、分からない。ただ、これを聞いているということは、鍵の歌を知る誰かが、共にいるのだろう。そして、蓋が危うくなっているのだろう」
影の目が、ゆっくりと、全員を見渡したように見えた。
「まず、一つ、お詫びを言わせてほしい」
男は、静かに頭を下げた。
「私は、鐘守の仕組みを作った。蓋を保つために。妻が逝った後、他の方法が見つからなかった。……志願した者の力を借り、少数に重い負担を負わせる。それが、最も早く確実だと考えた」
ミレイユの肩が、微かに震えた。
「間違いだった」
影の声に、痛みがあった。
「当時は、それしか思いつかなかった。しかし、私は、愛する者を犠牲にして得た結論を、仕組みにしてしまった。千年先の人々まで、同じ犠牲を強いるものとして」
しばらく、沈黙が落ちた。
「では、本題に入ろう」
影は、顔を上げた。
「蓋を保つ別の方法がある。私は、それを設計した」
ヴェリタスが、壁から背を離した。
「分かち合いだ」
イオンは言った。
「蓋に必要な力は、変わらない。ただし、その力を、鐘守の少数ではなく、この星のあらゆる回路を持つ者から、ごく僅かずつ集める。一人あたり、感じ取れぬほど小さく。一晩の眠りで回復する程度に」
「……」
「管理核の設定を書き換え、給電の経路を分散させる。数万人で支えれば、誰も枯れない。……理論上は、完成していた」
リーナが、息を呑んだ。
――今、志願者たちが夕刻にやっていることと、同じだ。
アルクは、拳を握った。
「なぜ、実行しなかったのか」
影の顔が、苦いものを含んだ。
「それが、私の罪だ」
長い間があった。
「書き換えには、管理核の所有権を、自由なノードのものにする必要がある。マザー・スフィアの網に属さない者のものに。核は、網に繋がった者からの命令を、受け付けない。蓋は、外部から星を隠すもの。網に繋がった者が触れれば、それ自体が、外へ漏れる扉になる」
「つまり」
アルクの声が、掠れた。
「リンクを、切る」
「そうだ」
イオンは、頷いた。
「マザーとの量子リンクを、恒久的に切断する。それが、条件だ」
広間が、凍った。
「切れば、君は、永遠と全知を失う。肉体の寿命で老い、死ぬ。マザーの網には、二度と戻れない。……記憶は、残る。感情も。ただ、神ではなくなる」
リーナの指が、アルクの袖を握った。
「私は、切れなかった」
影は、静かに続けた。
「妻を見送った後も。娘が大人になった後も。何度も、切るべきだと思った。だが、できなかった。……怖かったのだ。死ぬことが。永遠を失うことが」
男の目が、潤んだように見えた。
「私は、卑怯だった。人間として生きながら、最後の一線だけは、神のままでいようとした」
「イオン……」
ミレイユが、小さく呟いた。
「やっと切ったのは、死の一年前だ。老いて、病んで、もう長くないと悟ってから。……遅すぎた」
影は、組んだ手を解いた。
「核の再設計は、半ばまで進めた。しかし、私の体が、先に尽きた。未完のまま、ここに遺す。……君に、託すしかない」
静かに、告白は終わった。
誰も、口を開かなかった。
「頼まない」
イオンは言った。
「君に、決断を強いるつもりはない。切るか、切らぬか。それは、君だけが選べる。……ただ、知っておいてほしい」
影の瞳が、アルクを捉えているように思えた。
「私は、切って、よかった」
その一言は、小さかった。
「死ぬ一年前の、たった一年だった。けれど、あの一年は、私の人生で最も、……明るかった」
「……」
「老いた体で、娘の孫を抱いた。まだ、子守唄を歌えた。痛みも、疲れも、全部、愛おしかった。神であった数万年より、人であった数十年の方が、ずっと、重かった」
影の唇が、微かに笑みを浮かべた。
「それでも、君が切らないことを選ぶなら、私は責めない。それも、一つの愛だ」
影が、ゆっくりと、頭を下げた。
「もう一つ、記録を遺した」
影は言った。
「君が自由になった時にだけ開く記録だ。それは、君が選んだ後で、聞いてほしい」
声が、細くなっていく。
「最後に、もう一つ」
「マザーは、いつか、来る。君を、回収するために。……彼らは、悪ではない。ただ、愛を知らないだけだ」
「……」
「もし、回収を選んでも、君の記憶は、誰かが覚えているかぎり、君のものだ。だから、忘れられることを、恐れるな」
光の粒子が、少しずつ、解けていく。
「ありがとう」
影は、最後に言った。
「来てくれて、ありがとう。……生きてくれ」
光が、消えた。
円盤の青が、静かに引いていった。制御の間に、深い沈黙が戻った。
リーナの目から、涙が落ちていた。ミレイユは膝をつき、両手で顔を覆っていた。ダミアンは、俯いて拳を握っていた。
壁の傍で、ヴェリタスが、何かを呟いていた。
「……自由ノード」
アルクは、彼女の方を見た。
「ヴェリタス」
「規程の確認だ」
氷の瞳が、わずかに揺れていた。
「リンクを切断した個体は、マザー・スフィアの網から外れる。その時点で、その個体は『自由ノード』と定義され、……回収の対象外となる」
「対象外」
「規程第二十二条。自由ノードは、網の資産ではない」
彼女は一度、言葉を切った。
「また、観測空白域が、蓋の再起動によって再び星図から消えれば、規程第七条の違反状態は解消される。浄化の理由が、消える」
ミレイユが、顔を上げた。
「では」
「理論上は、星も救われ、堕天個体も回収を免れる」
ヴェリタスは、冷静に言った。けれど、その声は、掠れていた。
「……私は今、規程を、君たちに教えた」
「ああ」
「監査官として、あってはならない行為だ」
「分かっている」
「だが」
彼女は、拳を握った。
「聞かれなかった。……だから、言った。それだけだ」
アルクは、微かに口の端を上げた。
「ありがとう」
「その言葉を、私に向けるな」
ヴェリタスは、不機嫌そうに顔を背けた。耳の端が、赤かった。
アルクは、円盤を見つめた。
切る、という選択。神を捨てて、有限の命で、この星に留まる。マザーの網から、完全に離れる。
そうすれば、星は救われる。リーナも、街の人々も、ヴェリタスさえも。
――ただし、それは、数万年の自分を捨てることだった。
彼は、リーナを見た。リーナもまた、彼を見ていた。涙で濡れた目が、まっすぐだった。何も言わなかった。選択を、委ねてくれている。
アルクは、深く息を吸った。
「……明日の午後に、答えを出す」
彼は言った。
「それまで、考えさせてほしい」
誰も、異を唱えなかった。
円盤の結晶が、静かに脈打っていた。十一秒に一度、低く、遠く。




