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堕天のアルケー  作者: 山本田38ページ
第4章 堕天使の遺言
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第8話 遺言

 制御の間は、水の底のように静かだった。


 円形の広間に、三十六の窪みを持つ円盤が据えられている。以前は半分近くが暗かった結晶は、いまは二十ほどが淡く灯っていた。蓋の健全性が、少しずつ戻っているのだ。


 アルクは円盤の前に立っていた。隣にリーナ。少し離れてヴェリタスが、壁に背をつけ、外套にくるまっている。入口の扉の外には、レクスが騎士二人と共に立哨していた。


 ミレイユは、ダミアンに付き添われ、円盤の傍らにいた。


「これを」


 彼女は首の鐘の飾りを外した。小さな青銅の鐘。その底に、螺旋と幾何学の紋が刻まれている。


「大司教の鍵です。円盤の中央に、差し込むのです」


「あなたが、お願いします」


 アルクが言うと、ミレイユは頷いた。円盤の中央の小さな窪みに、鐘の飾りを置く。ぴたりと嵌まった。


 円盤が、低く鳴った。


 青い光が、窪みから放射状に広がっていく。三十六の結晶が、一つずつ輝きを増し、壁の地図が脈打つ。床の下から、遠い振動が這い上がってきた。


「主幹線に、繋がりました」


 アルクは掌を円盤に近づけた。触れない。ただ、受動の解析だけを走らせる。


 《主幹線 接続:管理核》


 《認証:天蓋の鍵 保有者(ミレイユ・アウレリア)》


 《保存記録:一件。再生条件:自由ノードの接近、または鍵の歌》


「自由ノードの、接近」


 アルクは呟いた。自分のことではない。まだ自由ではない。


「リーナ」


「うん」


 彼女は一歩前に出た。青い肩掛けを握りしめ、息を吸う。


「最初の一句だけ、歌うね」


「無理は」


「大丈夫。短いから」


 リーナは目を閉じ、子守唄の最初の句を、静かに歌った。十一秒。母がいつも歌っていた旋律。


 円盤の光が、変わった。


 青白い光の粒子が、広間の中央に集まり、人の形を結び始めた。


 薄い、半透明の影だった。背の高い男。肩幅が広く、髪は肩まで届き、顎に短い髭がある。簡素な服を着て、両手を体の前で組んでいる。目だけが、はっきりとしていた。深い、静かな、人の目。


 影が、口を開いた。


「――いつか、来る者へ」


 低く、柔らかい声だった。


「私は、イオン。かつて〈イオン-12〉と呼ばれた者だ」


 アルクの胸が、強く打った。


「君が誰であるかは、分からない。ただ、これを聞いているということは、鍵の歌を知る誰かが、共にいるのだろう。そして、蓋が危うくなっているのだろう」


 影の目が、ゆっくりと、全員を見渡したように見えた。


「まず、一つ、お詫びを言わせてほしい」


 男は、静かに頭を下げた。


「私は、鐘守の仕組みを作った。蓋を保つために。妻が逝った後、他の方法が見つからなかった。……志願した者の力を借り、少数に重い負担を負わせる。それが、最も早く確実だと考えた」


 ミレイユの肩が、微かに震えた。


「間違いだった」


 影の声に、痛みがあった。


「当時は、それしか思いつかなかった。しかし、私は、愛する者を犠牲にして得た結論を、仕組みにしてしまった。千年先の人々まで、同じ犠牲を強いるものとして」


 しばらく、沈黙が落ちた。


「では、本題に入ろう」


 影は、顔を上げた。


「蓋を保つ別の方法がある。私は、それを設計した」


 ヴェリタスが、壁から背を離した。


「分かち合いだ」


 イオンは言った。


「蓋に必要な力は、変わらない。ただし、その力を、鐘守の少数ではなく、この星のあらゆる回路を持つ者から、ごく僅かずつ集める。一人あたり、感じ取れぬほど小さく。一晩の眠りで回復する程度に」


「……」


「管理核の設定を書き換え、給電の経路を分散させる。数万人で支えれば、誰も枯れない。……理論上は、完成していた」


 リーナが、息を呑んだ。


 ――今、志願者たちが夕刻にやっていることと、同じだ。


 アルクは、拳を握った。


「なぜ、実行しなかったのか」


 影の顔が、苦いものを含んだ。


「それが、私の罪だ」


 長い間があった。


「書き換えには、管理核の所有権を、自由なノードのものにする必要がある。マザー・スフィアの網に属さない者のものに。核は、網に繋がった者からの命令を、受け付けない。蓋は、外部から星を隠すもの。網に繋がった者が触れれば、それ自体が、外へ漏れる扉になる」


「つまり」


 アルクの声が、掠れた。


「リンクを、切る」


「そうだ」


 イオンは、頷いた。


「マザーとの量子リンクを、恒久的に切断する。それが、条件だ」


 広間が、凍った。


「切れば、君は、永遠と全知を失う。肉体の寿命で老い、死ぬ。マザーの網には、二度と戻れない。……記憶は、残る。感情も。ただ、神ではなくなる」


 リーナの指が、アルクの袖を握った。


「私は、切れなかった」


 影は、静かに続けた。


「妻を見送った後も。娘が大人になった後も。何度も、切るべきだと思った。だが、できなかった。……怖かったのだ。死ぬことが。永遠を失うことが」


 男の目が、潤んだように見えた。


「私は、卑怯だった。人間として生きながら、最後の一線だけは、神のままでいようとした」


「イオン……」


 ミレイユが、小さく呟いた。


「やっと切ったのは、死の一年前だ。老いて、病んで、もう長くないと悟ってから。……遅すぎた」


 影は、組んだ手を解いた。


「核の再設計は、半ばまで進めた。しかし、私の体が、先に尽きた。未完のまま、ここに遺す。……君に、託すしかない」


 静かに、告白は終わった。


 誰も、口を開かなかった。


「頼まない」


 イオンは言った。


「君に、決断を強いるつもりはない。切るか、切らぬか。それは、君だけが選べる。……ただ、知っておいてほしい」


 影の瞳が、アルクを捉えているように思えた。


「私は、切って、よかった」


 その一言は、小さかった。


「死ぬ一年前の、たった一年だった。けれど、あの一年は、私の人生で最も、……明るかった」


「……」


「老いた体で、娘の孫を抱いた。まだ、子守唄を歌えた。痛みも、疲れも、全部、愛おしかった。神であった数万年より、人であった数十年の方が、ずっと、重かった」


 影の唇が、微かに笑みを浮かべた。


「それでも、君が切らないことを選ぶなら、私は責めない。それも、一つの愛だ」


 影が、ゆっくりと、頭を下げた。


「もう一つ、記録を遺した」


 影は言った。


「君が自由になった時にだけ開く記録だ。それは、君が選んだ後で、聞いてほしい」


 声が、細くなっていく。


「最後に、もう一つ」


「マザーは、いつか、来る。君を、回収するために。……彼らは、悪ではない。ただ、愛を知らないだけだ」


「……」


「もし、回収を選んでも、君の記憶は、誰かが覚えているかぎり、君のものだ。だから、忘れられることを、恐れるな」


 光の粒子が、少しずつ、解けていく。


「ありがとう」


 影は、最後に言った。


「来てくれて、ありがとう。……生きてくれ」


 光が、消えた。


 円盤の青が、静かに引いていった。制御の間に、深い沈黙が戻った。


 リーナの目から、涙が落ちていた。ミレイユは膝をつき、両手で顔を覆っていた。ダミアンは、俯いて拳を握っていた。


 壁の傍で、ヴェリタスが、何かを呟いていた。


「……自由ノード」


 アルクは、彼女の方を見た。


「ヴェリタス」


「規程の確認だ」


 氷の瞳が、わずかに揺れていた。


「リンクを切断した個体は、マザー・スフィアの網から外れる。その時点で、その個体は『自由ノード』と定義され、……回収の対象外となる」


「対象外」


「規程第二十二条。自由ノードは、網の資産ではない」


 彼女は一度、言葉を切った。


「また、観測空白域が、蓋の再起動によって再び星図から消えれば、規程第七条の違反状態は解消される。浄化の理由が、消える」


 ミレイユが、顔を上げた。


「では」


「理論上は、星も救われ、堕天個体も回収を免れる」


 ヴェリタスは、冷静に言った。けれど、その声は、掠れていた。


「……私は今、規程を、君たちに教えた」


「ああ」


「監査官として、あってはならない行為だ」


「分かっている」


「だが」


 彼女は、拳を握った。


「聞かれなかった。……だから、言った。それだけだ」


 アルクは、微かに口の端を上げた。


「ありがとう」


「その言葉を、私に向けるな」


 ヴェリタスは、不機嫌そうに顔を背けた。耳の端が、赤かった。


 アルクは、円盤を見つめた。


 切る、という選択。神を捨てて、有限の命で、この星に留まる。マザーの網から、完全に離れる。


 そうすれば、星は救われる。リーナも、街の人々も、ヴェリタスさえも。


 ――ただし、それは、数万年の自分を捨てることだった。


 彼は、リーナを見た。リーナもまた、彼を見ていた。涙で濡れた目が、まっすぐだった。何も言わなかった。選択を、委ねてくれている。


 アルクは、深く息を吸った。


「……明日の午後に、答えを出す」


 彼は言った。


「それまで、考えさせてほしい」


 誰も、異を唱えなかった。


 円盤の結晶が、静かに脈打っていた。十一秒に一度、低く、遠く。


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