第7話 喪の朝
朝の光は、容赦なく明るかった。
病室の窓から差し込む陽が、白いシーツの上のセレナの顔を、静かに照らしている。眠っているようだった。頬は少し痩せて、唇は薄く閉じられ、胸の上で組まれた手に、青い肩掛けの端がかけられていた。
リーナは、寝台の脇の椅子に座ったまま、動かなかった。
夜が明けてから、もう六時間が過ぎていた。アンナが何度か様子を見に来て、何も言わずに戻っていった。ダミアンがミレイユを連れ戻しに来たときも、リーナは顔を上げなかった。
アルクは、扉の傍の壁際に座っていた。
声をかけなかった。何を言えばいいのか、分からなかったし、言えばきっと、何かを壊してしまうような気がした。ガルドが死んだ朝に、リーナが何も言わず、ただ隣にいてくれたことを思い出した。
――黙って、隣にいること。
それしか、できなかった。
蝋燭が燃え尽き、窓の光が少しずつ角度を変えていった。部屋の隅で、埃が光の中を漂っていた。外から、広場のざわめきが聞こえる。遠くで、誰かが泣いている声。馬の蹄。パンを焼く匂いが、廊下から微かに流れてくる。
世界が、普通に動いていた。
リーナの母が死んだあとも。
やがて、扉が静かに叩かれた。
アルクが顔を上げると、ミレイユが立っていた。後ろに、ダミアン。
「リーナ殿」
ミレイユの声は、かすれていた。
「お願いが、あります」
リーナは動かなかった。
「セレナの髪を、梳かせて、いただけませんか」
長い沈黙が落ちた。
「……わたくしには、頼む資格がないことは、承知しています。ですが」
「いいです」
リーナの声が、ぽつりと出た。
「え」
「梳かして、あげてください。……母さんは、きっと、喜ぶから」
ミレイユは、深く頭を下げた。涙が一粒、床に落ちた。
彼女は寝台の傍に膝をつき、懐から小さな櫛を取り出した。銀の細工の、古い櫛だった。二十歳の頃から持っていたのだろう。セレナの、白いものの混じった黒髪を、指でそっとすくう。
櫛が、静かに通った。
一筋。もう一筋。ミレイユの手は、震えていた。それでも、一筋ずつ、丁寧に。
「昔も、こうして」
小さな声が、漏れた。
「毎朝、セレナの髪を結ってあげていました。あの子は不器用で、いつも、片側だけ短くなって」
リーナの肩が、微かに揺れた。
「……母さん、髪の結い方、下手でした」
「ええ」
「私の髪も、いつも、斜めで」
「ええ。きっと、そうです」
二人の間に、静かな何かが流れた。許し、とは違う。ただ、同じ人を失った者同士が、同じ部屋にいるという感覚。
櫛が通る音だけが、部屋に響いた。
やがて、ミレイユは立ち上がった。
「ありがとうございました」
リーナは、振り向かずに頷いた。ダミアンが、ミレイユの肩を支えて、部屋を出ていった。
扉が閉まる音。
再び、静けさが戻った。
その静けさの中に、ごく軽い足音が、近づいてきた。
扉が、また開く。
ヴェリタスだった。
彼女は、片手に木の椀を、もう片方に毛布を抱えていた。椀の中身が、歩くたびに揺れて、縁から少し零れている。扉の前で立ち止まり、アルクを見て、リーナを見て、また、アルクを見た。
「入室の許可を、求める」
アルクが何も言う前に、リーナが小さく頷いた。
ヴェリタスは、そろそろと部屋に入ってきた。寝台の脇の椅子、リーナの隣に、そっと腰を下ろす。椀を、リーナの膝の上に置いた。
「粥だ」
「……ありがとう」
「摂取を推奨する。人間は、悲嘆の際にも、栄養を要する」
「うん」
リーナは、椀を手に取った。けれど、口には運ばなかった。
ヴェリタスは、毛布をリーナの肩に掛けた。ぎこちない動きだった。毛布の端が、足に引っかかって、ずれた。慌てて直そうとして、また別の端が落ちる。
「失礼」
「大丈夫」
「手順を、確認する」
彼女は真顔で言った。
「体液の流出を止める方法は、私は、知らない」
リーナが、顔を上げた。
「だから、別の方法を、記録から検索した。『悲嘆している人間の隣に座る』という行為が、有効であると」
「え」
「根拠は、不明だ。だが、複数の事例で観測された」
彼女は、背筋を伸ばして、リーナの隣に座り直した。
「以上だ。実行している」
リーナは、口元を押さえた。肩が震え始める。
「ごめん、笑っちゃう」
「笑って構わない」
「違うの、……すごく、うれしくて」
リーナの目から、涙がこぼれた。笑いながら、泣いていた。
「ありがとう、ヴェリタスさん」
ヴェリタスは、瞬きをした。
「また、その言葉だ」
「え」
「昨夜、セレナ・ハートウェルが、死の直前に、同じ言葉を発声した」
彼女は、眉間に皺を寄せた。
「質問がある。この言葉は、誰に向けられた?」
リーナは、涙を拭った。
「母さんは、……その場にいた、全員にだと思う」
「全員」
「私と、猊下と、アルクと。……それと」
リーナは、母の顔を見つめた。
「これまでの、全部に」
「全部」
「楽しかったことも、辛かったことも、全部。生まれてから死ぬまでの、全部に。……私は、そう思う」
ヴェリタスは、黙っていた。
氷の青の瞳が、ゆっくりと、セレナの顔を映していた。静かな表情だった。穏やかに眠るように閉じられた目。
「痛みも、含むのか」
「うん。たぶん」
「喪失も」
「うん」
「……非合理的だ」
「そうだね」
リーナは、小さく笑った。
「でも、母さんは、そう言った」
ヴェリタスは、口を開きかけて、閉じた。それから、小さな声で言った。
「四十三件の、堕天個体の最期の言葉も、同じ意味だった」
「そうなの」
「全てが、……こういうものだったのか」
誰に聞くでもない呟きだった。彼女は、自分の胸に手を当てた。
「この感覚を、……定義する言葉を、持たない」
「いいよ」
リーナが言った。
「定義しなくても。ここにあるって、わかってるだけで」
ヴェリタスは、リーナを見て、それから、アルクを見た。何かを訴えるような、迷い子のような目だった。
アルクは、ただ、頷いた。
しばらく、三人は何も言わなかった。窓の外で、鳥が鳴いていた。
やがて、リーナが、椀を口元に運んだ。一口、二口。粥は冷めかけていたが、塩気と麦の甘みが、舌の上に広がった。
「おいしい」
「そうか」
「うん」
彼女は、椀を空にして、深く息を吐いた。それから、静かに立ち上がった。
「リーナ?」
アルクが言うと、彼女は母の顔を見つめたまま、答えた。
「母さんの葬儀は、全部が終わってから、ちゃんとやる」
「……」
「今は、やらなきゃいけないことが、ある」
彼女は、肩の青い肩掛けを、きゅっと握りしめた。
「アルクが、決める日だから」
「リーナ」
「見届けるって、約束したでしょう」
茶色の瞳が、赤く腫れていた。それでも、まっすぐだった。
「母さんが、見たがったものを、私が見る。……あの人の分まで」
アルクは、立ち上がった。
「ああ」
リーナは、一度だけ、寝台のセレナに向き直った。身を屈めて、母の額に、そっと唇を押し当てる。
「行ってきます、母さん」
囁きのような声だった。
扉の向こうで、正午の鐘が、遠く、柔らかく鳴り始めた。志願者たちが、順番に綱を引いているのだろう。穏やかな響きが、廊下を満たしていく。
リーナは顔を上げ、涙を拭いた。そして、扉の方へ歩き出した。
アルクとヴェリタスが、その後に続いた。




