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堕天のアルケー  作者: 山本田38ページ
第4章 堕天使の遺言
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第7話 喪の朝

 朝の光は、容赦なく明るかった。


 病室の窓から差し込む陽が、白いシーツの上のセレナの顔を、静かに照らしている。眠っているようだった。頬は少し痩せて、唇は薄く閉じられ、胸の上で組まれた手に、青い肩掛けの端がかけられていた。


 リーナは、寝台の脇の椅子に座ったまま、動かなかった。


 夜が明けてから、もう六時間が過ぎていた。アンナが何度か様子を見に来て、何も言わずに戻っていった。ダミアンがミレイユを連れ戻しに来たときも、リーナは顔を上げなかった。


 アルクは、扉の傍の壁際に座っていた。


 声をかけなかった。何を言えばいいのか、分からなかったし、言えばきっと、何かを壊してしまうような気がした。ガルドが死んだ朝に、リーナが何も言わず、ただ隣にいてくれたことを思い出した。


 ――黙って、隣にいること。


 それしか、できなかった。


 蝋燭が燃え尽き、窓の光が少しずつ角度を変えていった。部屋の隅で、埃が光の中を漂っていた。外から、広場のざわめきが聞こえる。遠くで、誰かが泣いている声。馬の蹄。パンを焼く匂いが、廊下から微かに流れてくる。


 世界が、普通に動いていた。


 リーナの母が死んだあとも。


 やがて、扉が静かに叩かれた。


 アルクが顔を上げると、ミレイユが立っていた。後ろに、ダミアン。


「リーナ殿」


 ミレイユの声は、かすれていた。


「お願いが、あります」


 リーナは動かなかった。


「セレナの髪を、梳かせて、いただけませんか」


 長い沈黙が落ちた。


「……わたくしには、頼む資格がないことは、承知しています。ですが」


「いいです」


 リーナの声が、ぽつりと出た。


「え」


「梳かして、あげてください。……母さんは、きっと、喜ぶから」


 ミレイユは、深く頭を下げた。涙が一粒、床に落ちた。


 彼女は寝台の傍に膝をつき、懐から小さな櫛を取り出した。銀の細工の、古い櫛だった。二十歳の頃から持っていたのだろう。セレナの、白いものの混じった黒髪を、指でそっとすくう。


 櫛が、静かに通った。


 一筋。もう一筋。ミレイユの手は、震えていた。それでも、一筋ずつ、丁寧に。


「昔も、こうして」


 小さな声が、漏れた。


「毎朝、セレナの髪を結ってあげていました。あの子は不器用で、いつも、片側だけ短くなって」


 リーナの肩が、微かに揺れた。


「……母さん、髪の結い方、下手でした」


「ええ」


「私の髪も、いつも、斜めで」


「ええ。きっと、そうです」


 二人の間に、静かな何かが流れた。許し、とは違う。ただ、同じ人を失った者同士が、同じ部屋にいるという感覚。


 櫛が通る音だけが、部屋に響いた。


 やがて、ミレイユは立ち上がった。


「ありがとうございました」


 リーナは、振り向かずに頷いた。ダミアンが、ミレイユの肩を支えて、部屋を出ていった。


 扉が閉まる音。


 再び、静けさが戻った。


 その静けさの中に、ごく軽い足音が、近づいてきた。


 扉が、また開く。


 ヴェリタスだった。


 彼女は、片手に木の椀を、もう片方に毛布を抱えていた。椀の中身が、歩くたびに揺れて、縁から少し零れている。扉の前で立ち止まり、アルクを見て、リーナを見て、また、アルクを見た。


「入室の許可を、求める」


 アルクが何も言う前に、リーナが小さく頷いた。


 ヴェリタスは、そろそろと部屋に入ってきた。寝台の脇の椅子、リーナの隣に、そっと腰を下ろす。椀を、リーナの膝の上に置いた。


「粥だ」


「……ありがとう」


「摂取を推奨する。人間は、悲嘆の際にも、栄養を要する」


「うん」


 リーナは、椀を手に取った。けれど、口には運ばなかった。


 ヴェリタスは、毛布をリーナの肩に掛けた。ぎこちない動きだった。毛布の端が、足に引っかかって、ずれた。慌てて直そうとして、また別の端が落ちる。


「失礼」


「大丈夫」


「手順を、確認する」


 彼女は真顔で言った。


「体液の流出を止める方法は、私は、知らない」


 リーナが、顔を上げた。


「だから、別の方法を、記録から検索した。『悲嘆している人間の隣に座る』という行為が、有効であると」


「え」


「根拠は、不明だ。だが、複数の事例で観測された」


 彼女は、背筋を伸ばして、リーナの隣に座り直した。


「以上だ。実行している」


 リーナは、口元を押さえた。肩が震え始める。


「ごめん、笑っちゃう」


「笑って構わない」


「違うの、……すごく、うれしくて」


 リーナの目から、涙がこぼれた。笑いながら、泣いていた。


「ありがとう、ヴェリタスさん」


 ヴェリタスは、瞬きをした。


「また、その言葉だ」


「え」


「昨夜、セレナ・ハートウェルが、死の直前に、同じ言葉を発声した」


 彼女は、眉間に皺を寄せた。


「質問がある。この言葉は、誰に向けられた?」


 リーナは、涙を拭った。


「母さんは、……その場にいた、全員にだと思う」


「全員」


「私と、猊下と、アルクと。……それと」


 リーナは、母の顔を見つめた。


「これまでの、全部に」


「全部」


「楽しかったことも、辛かったことも、全部。生まれてから死ぬまでの、全部に。……私は、そう思う」


 ヴェリタスは、黙っていた。


 氷の青の瞳が、ゆっくりと、セレナの顔を映していた。静かな表情だった。穏やかに眠るように閉じられた目。


「痛みも、含むのか」


「うん。たぶん」


「喪失も」


「うん」


「……非合理的だ」


「そうだね」


 リーナは、小さく笑った。


「でも、母さんは、そう言った」


 ヴェリタスは、口を開きかけて、閉じた。それから、小さな声で言った。


「四十三件の、堕天個体の最期の言葉も、同じ意味だった」


「そうなの」


「全てが、……こういうものだったのか」


 誰に聞くでもない呟きだった。彼女は、自分の胸に手を当てた。


「この感覚を、……定義する言葉を、持たない」


「いいよ」


 リーナが言った。


「定義しなくても。ここにあるって、わかってるだけで」


 ヴェリタスは、リーナを見て、それから、アルクを見た。何かを訴えるような、迷い子のような目だった。


 アルクは、ただ、頷いた。


 しばらく、三人は何も言わなかった。窓の外で、鳥が鳴いていた。


 やがて、リーナが、椀を口元に運んだ。一口、二口。粥は冷めかけていたが、塩気と麦の甘みが、舌の上に広がった。


「おいしい」


「そうか」


「うん」


 彼女は、椀を空にして、深く息を吐いた。それから、静かに立ち上がった。


「リーナ?」


 アルクが言うと、彼女は母の顔を見つめたまま、答えた。


「母さんの葬儀は、全部が終わってから、ちゃんとやる」


「……」


「今は、やらなきゃいけないことが、ある」


 彼女は、肩の青い肩掛けを、きゅっと握りしめた。


「アルクが、決める日だから」


「リーナ」


「見届けるって、約束したでしょう」


 茶色の瞳が、赤く腫れていた。それでも、まっすぐだった。


「母さんが、見たがったものを、私が見る。……あの人の分まで」


 アルクは、立ち上がった。


「ああ」


 リーナは、一度だけ、寝台のセレナに向き直った。身を屈めて、母の額に、そっと唇を押し当てる。


「行ってきます、母さん」


 囁きのような声だった。


 扉の向こうで、正午の鐘が、遠く、柔らかく鳴り始めた。志願者たちが、順番に綱を引いているのだろう。穏やかな響きが、廊下を満たしていく。


 リーナは顔を上げ、涙を拭いた。そして、扉の方へ歩き出した。


 アルクとヴェリタスが、その後に続いた。


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