第6話 最期の歌
夜の病室は、蝋燭が一本だけだった。
夕刻の鐘が終わって、しばらくした頃だった。窓の外は暗く、遠くで見張りの交代を告げる声が聞こえる。アルクは壁際の椅子に座っていた。リーナは寝台の傍で、母の手を握っている。
セレナの呼吸は、浅く、細かった。濃度は、七から動いていない。けれど、彼女の頬には、いつもより血の気がなかった。
「……リーナ」
掠れた声が、寝台から聞こえた。
「母さん」
リーナが身を乗り出す。セレナは薄く目を開き、天井を見たまま、微笑んだ。
「いい音だったわね」
「え」
「さっきの鐘。……優しい音が、していた」
リーナの目が、潤んだ。
「みんなが、分け合ったの。たくさんの人が。母さんたちみたいに、一人で背負わなくて、いいように」
「そう」
セレナは、目を閉じて頷いた。
「よかった」
その一言に、全てが入っているようだった。
やがて、彼女は、ゆっくりと瞼を開いた。
「ミレイユを、呼んで」
リーナの手が、止まった。
「え」
「あの子が、そこにいるんでしょう。塔の上に」
「母さん」
「会いたいの」
静かな声だった。懇願ではなく、ただの事実のように。
リーナは、唇を噛んだ。母の手を握る指が、白くなった。
「……あの人は、母さんの鐘を」
「ええ。知っているわ。全部」
セレナは、リーナの顔を見て、そっと言った。
「あなたが許せないのは、分かっている。それでいいのよ。許さなくていい。ただ、会わせて」
「……」
「お願い」
長い沈黙が、落ちた。
リーナは、母の手をそっと寝台に置き、立ち上がった。アルクを振り返る。
「呼んできて、もらえる?」
「ああ」
アルクは頷き、病室を出た。
廊下の先に、ダミアンが立っていた。見張りと、案内役を兼ねて、そこに待っていたようだった。ミレイユは塔の部屋に入っているはずだが、塔と医院は、渡り廊下で繋がっている。
「ダミアン司教」
「分かっています」
男は、アルクが口を開く前に答えた。
「猊下には、すでにお伝えしました。……お連れします」
数分後、廊下の奥から足音が近づいた。
ミレイユは、灰色のショールを肩に掛けて現れた。ダミアンの腕に支えられ、一歩ずつ、ゆっくり歩いてくる。顔は蒼白で、唇が震えていた。
「セレナが、呼んでいると」
「はい」
アルクが答えると、彼女は深く息を吸った。それから、扉の前で立ち止まり、首の鐘の飾りを握りしめた。
「怖いのです」
ぽつりと、言った。
「友として話すのは、二十五年ぶりです。……何を、言えばいいのか」
「言葉は、要らないかもしれません」
アルクは静かに言った。
「ただ、そこにいれば」
ミレイユは、小さく頷いた。
扉が開いた。
蝋燭の光の中で、セレナは寝台の上で目を開けていた。ミレイユの姿を見た瞬間、その顔が、ふわりとほどけた。
「ミレイユ」
その一言で、ミレイユの足が止まった。
唇が、わなないた。何かを言おうとして、言葉にならない。両手で口を覆った。肩が震え始める。
「……セレナ」
「おいで」
セレナは、細い手を差し伸べた。
「そんなところで、立たないで」
ミレイユは、よろめくように歩み寄り、寝台の傍に膝をついた。差し出された手を、両手で包んだ。額を、その手に押し当てる。
「ごめんなさい」
声は、泣き声に近かった。
「ごめんなさい、セレナ。わたくしは。あなたの鐘を。何千回も。あなたたちの命を」
「知っているわ」
「あなたを、……苦しめて」
「ええ。苦しかった」
セレナは、穏やかに言った。
「毎日、鐘が鳴るたびに、胸が痛んだ。それが、あなたのせいだと気づいたのは、ほんの最近だけれど」
ミレイユの背中が、大きく震えた。
「でもね」
セレナは、空いた手で、ミレイユの髪を撫でた。銀色の髪が、蝋燭の光に透けた。
「あなたは、一人で背負いすぎるのよ。昔から」
「セレナ」
「私の友達は、きっと偉くなるって、思っていたの。でも、同時に、こうも思っていた。きっと、一人で、何もかも抱えて、潰れてしまうって」
彼女は、微笑んだ。
「ほら。そのとおりになった」
ミレイユは、声を上げて泣き出した。
彼女は大司教ではなかった。二十歳の、同じ部屋で毛布を分け合った、一人の少女に戻っていた。セレナはその背を、静かに撫で続けた。
リーナが、唇を噛んで、それを見つめていた。許せない、という顔と、それでも目を逸らさない顔が、同時にそこにあった。
アルクは、扉の傍に立ったまま、動かなかった。
しばらくして、セレナが、彼に視線を向けた。
「アルクさん」
「はい」
「こちらへ」
彼は、寝台の足元に近づいた。セレナの目が、じっと彼の顔を見た。
「聞いても、いいかしら。あなたは、神さまだったのでしょう」
リーナが、目を見開いた。
「母さん、どうして」
「分かるわよ。あなたを見ていれば」
セレナは、くすりと笑った。
「あの人は、怖がっている顔をしているもの。死ぬことを、まだ知らない子どもみたいな顔」
「……はい」
アルクは、正直に答えた。
「ええ。怖いです」
「何が?」
「自分が、……死ぬことが。大切な人たちが、死んでいくことが」
「そう」
セレナは頷いた。
「私も、怖いわよ」
その一言は、あまりにも自然に出た。
「怖いわ。今夜、寝て、明日の朝、目が覚めないかもしれないのだから。……リーナの寝息が、もう聞けなくなるのだから」
「母さん……」
「でもね」
セレナは、リーナの頬に手を伸ばした。涙の跡を、指先で拭う。
「毎晩、この子が眠るときに、寝息を聞いて、思ったの。『明日も、聞けるかしら』って。……そう思えるのは、いつか終わるからでしょう」
アルクの喉が、詰まった。
「終わらなかったら、きっと、そんな風には思わなかった。聞こえて当たり前の音に、なってしまうわ」
彼女は、静かに目を閉じた。
「死ぬから、愛おしいのよ」
それは、説教ではなかった。ただ、日々の暮らしの中で摘み取った、小さな実感だった。
アルクは、何も言えなかった。胸の奥で、何かが静かに、揺れた。
「そろそろ」
セレナが、薄く目を開いた。
「歌を、歌いましょうか」
「え」
「三人で。ミレイユと、リーナと、私で」
リーナが、息を呑んだ。
「だって、母さん、声が」
「少しだけよ。最後まで、いけなくても」
セレナは微笑み、小さく息を吸った。そして、囁くように歌い始めた。
灰の森の子守唄。
意味の取れない古い言葉が、かすれた声で、一句、ゆっくりと流れ出す。細く、頼りない。けれど、旋律は、確かだった。
二句目に、ミレイユが加わった。涙で濡れた声が、セレナの声に寄り添う。二人の声は、二十五年の隔たりを越えて、一つに重なった。
三句目。リーナが、口を開いた。
最初は震えていた声が、すぐに安定した。母の声と、母の友の声に、娘の声が加わる。三つの旋律が、小さな病室を満たしていく。
四句目。五句目。
セレナの声が、少しずつ、小さくなっていった。
六句目。ほとんど、息だけになる。リーナが、その分を埋めるように、声を強めた。ミレイユも、涙をこぼしながら、歌い続けた。
七句目。
セレナの唇が、動いている。声は、もう出ていなかった。ただ、唇だけが、旋律の形をなぞっている。
八句目。最後の句。
リーナが、最後の音を、長く伸ばした。
――レイ。
ミレイユの声が、重なる。静かに、静かに、二人の声が消えていく。
その時、セレナが、ふっと笑った。
「ありがとう」
ごく小さな声だった。
「ありがとう、二人とも。……アルクさんも」
病室の入口に、いつの間にか、人影が立っていた。
ヴェリタスだった。毛布のような外套を肩にかけ、扉の枠に寄りかかっている。氷の青の瞳が、大きく見開かれていた。
「ありがとう」
もう一度、セレナは言った。
窓の外が、白み始めていた。夜明けだった。薄い光が、病室のカーテンの隙間から入り込み、寝台の上に細い筋を落とした。
「リーナ」
「うん」
「私の、自慢の娘」
「うん」
「幸せに、なりなさい」
「……うん」
「ちゃんと、笑って」
リーナは、涙で顔を濡らしながら、無理に口の端を上げた。
「笑ってるよ」
「そう。……いい顔」
セレナの目が、ゆっくりと閉じていった。
呼吸が、浅くなる。一つ。また一つ。間隔が、少しずつ、開いていく。
アルクは、HUDの数字を見なかった。見る必要が、なかった。
最後の息が、静かに吐き出された。
朝の光が、白いシーツの上に、ゆっくりと広がった。
誰も、動かなかった。
リーナが、母の手を握ったまま、小さく言った。
「……おやすみ、母さん」
ミレイユが、顔を伏せて、肩を震わせた。アルクは、リーナの肩に、そっと手を置いた。
扉の傍で、ヴェリタスが、じっと立ち尽くしていた。その頬に、何かが、一筋、伝った。
彼女は、慌てて手の甲で拭った。自分でも、何が起きたのか分からない、という顔をしていた。
「……体液の、流出」
小さな声で、そう呟いた。
誰も、答えなかった。




