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堕天のアルケー  作者: 山本田38ページ
第4章 堕天使の遺言
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第6話 最期の歌

 夜の病室は、蝋燭が一本だけだった。


 夕刻の鐘が終わって、しばらくした頃だった。窓の外は暗く、遠くで見張りの交代を告げる声が聞こえる。アルクは壁際の椅子に座っていた。リーナは寝台の傍で、母の手を握っている。


 セレナの呼吸は、浅く、細かった。濃度は、七から動いていない。けれど、彼女の頬には、いつもより血の気がなかった。


「……リーナ」


 掠れた声が、寝台から聞こえた。


「母さん」


 リーナが身を乗り出す。セレナは薄く目を開き、天井を見たまま、微笑んだ。


「いい音だったわね」


「え」


「さっきの鐘。……優しい音が、していた」


 リーナの目が、潤んだ。


「みんなが、分け合ったの。たくさんの人が。母さんたちみたいに、一人で背負わなくて、いいように」


「そう」


 セレナは、目を閉じて頷いた。


「よかった」


 その一言に、全てが入っているようだった。


 やがて、彼女は、ゆっくりと瞼を開いた。


「ミレイユを、呼んで」


 リーナの手が、止まった。


「え」


「あの子が、そこにいるんでしょう。塔の上に」


「母さん」


「会いたいの」


 静かな声だった。懇願ではなく、ただの事実のように。


 リーナは、唇を噛んだ。母の手を握る指が、白くなった。


「……あの人は、母さんの鐘を」


「ええ。知っているわ。全部」


 セレナは、リーナの顔を見て、そっと言った。


「あなたが許せないのは、分かっている。それでいいのよ。許さなくていい。ただ、会わせて」


「……」


「お願い」


 長い沈黙が、落ちた。


 リーナは、母の手をそっと寝台に置き、立ち上がった。アルクを振り返る。


「呼んできて、もらえる?」


「ああ」


 アルクは頷き、病室を出た。


 廊下の先に、ダミアンが立っていた。見張りと、案内役を兼ねて、そこに待っていたようだった。ミレイユは塔の部屋に入っているはずだが、塔と医院は、渡り廊下で繋がっている。


「ダミアン司教」


「分かっています」


 男は、アルクが口を開く前に答えた。


「猊下には、すでにお伝えしました。……お連れします」


 数分後、廊下の奥から足音が近づいた。


 ミレイユは、灰色のショールを肩に掛けて現れた。ダミアンの腕に支えられ、一歩ずつ、ゆっくり歩いてくる。顔は蒼白で、唇が震えていた。


「セレナが、呼んでいると」


「はい」


 アルクが答えると、彼女は深く息を吸った。それから、扉の前で立ち止まり、首の鐘の飾りを握りしめた。


「怖いのです」


 ぽつりと、言った。


「友として話すのは、二十五年ぶりです。……何を、言えばいいのか」


「言葉は、要らないかもしれません」


 アルクは静かに言った。


「ただ、そこにいれば」


 ミレイユは、小さく頷いた。


 扉が開いた。


 蝋燭の光の中で、セレナは寝台の上で目を開けていた。ミレイユの姿を見た瞬間、その顔が、ふわりとほどけた。


「ミレイユ」


 その一言で、ミレイユの足が止まった。


 唇が、わなないた。何かを言おうとして、言葉にならない。両手で口を覆った。肩が震え始める。


「……セレナ」


「おいで」


 セレナは、細い手を差し伸べた。


「そんなところで、立たないで」


 ミレイユは、よろめくように歩み寄り、寝台の傍に膝をついた。差し出された手を、両手で包んだ。額を、その手に押し当てる。


「ごめんなさい」


 声は、泣き声に近かった。


「ごめんなさい、セレナ。わたくしは。あなたの鐘を。何千回も。あなたたちの命を」


「知っているわ」


「あなたを、……苦しめて」


「ええ。苦しかった」


 セレナは、穏やかに言った。


「毎日、鐘が鳴るたびに、胸が痛んだ。それが、あなたのせいだと気づいたのは、ほんの最近だけれど」


 ミレイユの背中が、大きく震えた。


「でもね」


 セレナは、空いた手で、ミレイユの髪を撫でた。銀色の髪が、蝋燭の光に透けた。


「あなたは、一人で背負いすぎるのよ。昔から」


「セレナ」


「私の友達は、きっと偉くなるって、思っていたの。でも、同時に、こうも思っていた。きっと、一人で、何もかも抱えて、潰れてしまうって」


 彼女は、微笑んだ。


「ほら。そのとおりになった」


 ミレイユは、声を上げて泣き出した。


 彼女は大司教ではなかった。二十歳の、同じ部屋で毛布を分け合った、一人の少女に戻っていた。セレナはその背を、静かに撫で続けた。


 リーナが、唇を噛んで、それを見つめていた。許せない、という顔と、それでも目を逸らさない顔が、同時にそこにあった。


 アルクは、扉の傍に立ったまま、動かなかった。


 しばらくして、セレナが、彼に視線を向けた。


「アルクさん」


「はい」


「こちらへ」


 彼は、寝台の足元に近づいた。セレナの目が、じっと彼の顔を見た。


「聞いても、いいかしら。あなたは、神さまだったのでしょう」


 リーナが、目を見開いた。


「母さん、どうして」


「分かるわよ。あなたを見ていれば」


 セレナは、くすりと笑った。


「あの人は、怖がっている顔をしているもの。死ぬことを、まだ知らない子どもみたいな顔」


「……はい」


 アルクは、正直に答えた。


「ええ。怖いです」


「何が?」


「自分が、……死ぬことが。大切な人たちが、死んでいくことが」


「そう」


 セレナは頷いた。


「私も、怖いわよ」


 その一言は、あまりにも自然に出た。


「怖いわ。今夜、寝て、明日の朝、目が覚めないかもしれないのだから。……リーナの寝息が、もう聞けなくなるのだから」


「母さん……」


「でもね」


 セレナは、リーナの頬に手を伸ばした。涙の跡を、指先で拭う。


「毎晩、この子が眠るときに、寝息を聞いて、思ったの。『明日も、聞けるかしら』って。……そう思えるのは、いつか終わるからでしょう」


 アルクの喉が、詰まった。


「終わらなかったら、きっと、そんな風には思わなかった。聞こえて当たり前の音に、なってしまうわ」


 彼女は、静かに目を閉じた。


「死ぬから、愛おしいのよ」


 それは、説教ではなかった。ただ、日々の暮らしの中で摘み取った、小さな実感だった。


 アルクは、何も言えなかった。胸の奥で、何かが静かに、揺れた。


「そろそろ」


 セレナが、薄く目を開いた。


「歌を、歌いましょうか」


「え」


「三人で。ミレイユと、リーナと、私で」


 リーナが、息を呑んだ。


「だって、母さん、声が」


「少しだけよ。最後まで、いけなくても」


 セレナは微笑み、小さく息を吸った。そして、囁くように歌い始めた。


 灰の森の子守唄。


 意味の取れない古い言葉が、かすれた声で、一句、ゆっくりと流れ出す。細く、頼りない。けれど、旋律は、確かだった。


 二句目に、ミレイユが加わった。涙で濡れた声が、セレナの声に寄り添う。二人の声は、二十五年の隔たりを越えて、一つに重なった。


 三句目。リーナが、口を開いた。


 最初は震えていた声が、すぐに安定した。母の声と、母の友の声に、娘の声が加わる。三つの旋律が、小さな病室を満たしていく。


 四句目。五句目。


 セレナの声が、少しずつ、小さくなっていった。


 六句目。ほとんど、息だけになる。リーナが、その分を埋めるように、声を強めた。ミレイユも、涙をこぼしながら、歌い続けた。


 七句目。


 セレナの唇が、動いている。声は、もう出ていなかった。ただ、唇だけが、旋律の形をなぞっている。


 八句目。最後の句。


 リーナが、最後の音を、長く伸ばした。


 ――レイ。


 ミレイユの声が、重なる。静かに、静かに、二人の声が消えていく。


 その時、セレナが、ふっと笑った。


「ありがとう」


 ごく小さな声だった。


「ありがとう、二人とも。……アルクさんも」


 病室の入口に、いつの間にか、人影が立っていた。


 ヴェリタスだった。毛布のような外套を肩にかけ、扉の枠に寄りかかっている。氷の青の瞳が、大きく見開かれていた。


「ありがとう」


 もう一度、セレナは言った。


 窓の外が、白み始めていた。夜明けだった。薄い光が、病室のカーテンの隙間から入り込み、寝台の上に細い筋を落とした。


「リーナ」


「うん」


「私の、自慢の娘」


「うん」


「幸せに、なりなさい」


「……うん」


「ちゃんと、笑って」


 リーナは、涙で顔を濡らしながら、無理に口の端を上げた。


「笑ってるよ」


「そう。……いい顔」


 セレナの目が、ゆっくりと閉じていった。


 呼吸が、浅くなる。一つ。また一つ。間隔が、少しずつ、開いていく。


 アルクは、HUDの数字を見なかった。見る必要が、なかった。


 最後の息が、静かに吐き出された。


 朝の光が、白いシーツの上に、ゆっくりと広がった。


 誰も、動かなかった。


 リーナが、母の手を握ったまま、小さく言った。


「……おやすみ、母さん」


 ミレイユが、顔を伏せて、肩を震わせた。アルクは、リーナの肩に、そっと手を置いた。


 扉の傍で、ヴェリタスが、じっと立ち尽くしていた。その頬に、何かが、一筋、伝った。


 彼女は、慌てて手の甲で拭った。自分でも、何が起きたのか分からない、という顔をしていた。


「……体液の、流出」


 小さな声で、そう呟いた。


 誰も、答えなかった。


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