第5話 志願者たち
夕方の広場は、半分ほどに減っていた。
朝の怒号と悲鳴が嘘のように、人々は静かに、ばらばらと散っていた。それでも、完全には家へ帰れずにいる者が多い。石畳のあちこちに、数人ずつの輪ができ、小声で何かを話し合っている。誰もが、空を見上げては、目を逸らしていた。
七十二時間のうちの、最初の一日が、終わろうとしていた。
大聖堂の隣の塔の下で、アルクはアンナと並んで立っていた。足元には、羊皮紙の束と羽根ペン。額の包帯は替えたばかりだ。
「本当に、集まるでしょうか」
アンナが小声で言った。
「分かりません」
「朝の様子では」
「ええ」
二人は、石畳の中央にぽつんと置かれた卓を見ていた。そこには、板に大書きされた紙が貼ってある。ダミアンの筆跡だった。
《鐘を打つ者を求む。回路を持つ者は誰でも。一打ごとに、ほんの少しの負担を分かち合う。期限は七十二時間。教会からの強制ではない。志願のみ》
その下に、小さく付け加えられていた。
《この呼びかけは、隠し事のない形で行う。負担の大きさは、記録に残る。枯れる危険は、ゼロではない》
正直すぎる文面だった。
「これでは、誰も」
「いや」
アルクは首を振った。
「隠さないから、いいんだ」
日が傾き、広場の影が長くなった。塔の窓には灯りがともり、上階でミレイユとダミアンが待機しているのが見える。夕刻の鐘の時間が、近づいていた。
人影は、増えなかった。
ただ、一人だけ、卓の前に立っていた。
「あの」
アルクが振り向いた。
朝、前へ進み出た女だった。クララ・ハイネの妹。子供の手を引いて、卓の前で足を止めている。顔は強張っていたが、目は赤く、泣いたあとのようだった。
「あなたは」
「エルゼです。……姉の、クララ・ハイネの、妹」
彼女は子供を、後ろの老婆に預けた。
「朝は、すみませんでした。あんな大声で」
「謝ることでは」
「でも、一つだけ、確かめたいんです」
エルゼは卓の紙を指差した。
「ここに、『負担を分かち合う』と書いてあります。本当に、分かち合えば、軽くなるんですか」
「ええ」
アルクは、はっきりと頷いた。
「昨夜、猊下とダミアン司教が二人で綱を引きました。一人あたりの負担は半分以下になった。人数を増やせば、さらに薄まる」
「数字で、分かるんですか」
「私には、見えます」
エルゼは唇を結んだ。それから、小さく息を吐いた。
「姉は、一人で打っていました。最後の年は、毎日。咳をしながら。……誰も、代わってあげなかった」
声が、震えた。
「私も、代わってあげなかった。姉は『大丈夫』って言って、笑ってた。私は、それを信じたふりをした」
「エルゼさん」
「でも、もう、知ってしまったから」
彼女は顔を上げた。
「私にも、回路が、あるんでしょうか」
アンナが前へ出て、エルゼの手を取った。掌を合わせ、目を閉じる。青白い光が、ほんの一瞬、灯った。
「あります。弱いですが」
「十分です」
エルゼは、羽根ペンを取り、羊皮紙に自分の名前を書いた。
《エルゼ・ハイネ》
「姉の代わりじゃありません」
彼女は、書き終えた字を見つめながら言った。
「姉に、顔向けできるように、です」
アルクの胸が、静かに熱くなった。
その時、広場の端から、足音が近づいてきた。
「ここか」
松葉杖をついた若者が、卓の前に立った。ミハエルだった。腹の傷はまだ癒えていないのだろう、顔色は悪い。それでも、背筋を伸ばしていた。
「回路は、俺にもある。弱いが」
「あなたは、傷が」
「鐘を引くくらいなら、座ってもできる」
彼は不敵に笑って、羊皮紙に名前を書いた。
次に、肩を怒らせた老人が現れた。ギルドの鑑定士ブラムだった。
「ええい、胸糞悪い。千年、民をだましておいて、今更、頭を下げやがって」
「ブラム殿」
「だが、鐘が止まって困るのは、俺の孫も同じだ」
彼はペンをひったくり、乱暴な字で署名した。
それから、パン屋の主人が来た。粉まみれの腕を組んで、卓を睨んでいる。
「うちの娘が、咳をするんだ。ここ半年。……関係があるか、分からんが」
「調べます」
アンナが答えた。
「なら、俺も書く。娘のために」
門番の老人。洗濯女。馬車屋。船頭あがりの大男。一人、また一人と、卓の前に立つ者が増えていった。誰もが、怒りや疑いや恐れを抱えた顔で、それでも、ペンを取った。
列の最後尾に、整然と並んだ一団がいた。
騎士団だった。
「騎士団、十二名。志願します」
先頭のレクスが、腰の長剣に手を添えて言った。
「街を守るのが、俺たちの仕事です。鐘が蓋を支えているなら、鐘もまた、街を守る仕事のうちです」
「レクス」
「勘違いしないでください」
若者は、アルクを見ずに言った。
「あなたのためじゃない。団長のためでもない。……ただ、俺たちの街だから」
「分かっている」
レクスは懐から、黒い革の手帳を取り出した。ガルドの形見だ。彼はそれを開き、白い頁の端に、小さなペンを走らせ始めた。
「何を書いている」
「名簿です」
彼は、手を止めずに答えた。
「志願した人の名前。一人ずつ。……団長は、毎晩、死んだ仲間の名前を数えていました。俺は、生きている人の名前を、数えます」
エルゼ・ハイネ。ミハエル。ブラム。パン屋のヨーゼフ。門番のペーター。
レクスの字は、不揃いで、少し震えていた。それでも、一文字ずつ、丁寧に刻まれていった。
アルクは、黙ってその横顔を見つめた。
夕陽が、広場の最後の赤を撫でて、沈もうとしていた。
「時間です」
アンナが言った。
大鐘の塔の扉が開かれた。ミレイユとダミアンが、上から降りてきた。ミレイユの足取りは、昨夜よりずっと軽かった。彼女は、広場に並んだ人々を見て、足を止めた。
「これは……」
「志願者です、猊下」
ダミアンが小さく言った。
「二十一名。回路を確認した者のみ」
ミレイユは、口元を押さえた。灰色の瞳が、潤んだ。
「皆さん……」
「猊下」
エルゼが、一歩前へ出た。
「順番に、引かせてください。ほんの少しずつ。……一度に、全部を、誰かに背負わせたくないので」
ミレイユは、ゆっくりと頷いた。唇が震えている。
「ありがとうございます」
綱の前に、人々が並んだ。一人あたり、三打。それを順に交代していく。アンナが数を数え、ダミアンが順番を告げる。ヴェリタスは広場の隅で、毛布のような外套にくるまって、腕を組んでその光景を見ていた。
最初の一人が、綱を引いた。
ゴォン。
鐘の音が、夕暮れの空に広がった。
これまでとは違う響きだった。低く、深く、けれど、どこか柔らかい。一打、また一打。二十一人が、順番に引いていく。
アルクのHUDが、数字を拾った。
《蓋の健全性:三十三→三十五→三十七》
《参加者 平均濃度低下:〇・〇二》
《ミレイユ 濃度:四・八→四・八(変動なし)》
数字が、動いた。
上がっていく。蓋が。そして、誰も、大きくは減っていない。
「……見えるか」
アルクは、隣のアンナに言った。
「はい」
「一人あたり、〇・〇二です。ほぼ、誤差だ」
「これなら……」
「一晩寝れば、回復する」
アルクは、確信を持って言った。
「小さな負担なら、身体は戻る。だが、大きな負担を一人に集めれば、戻れなくなる。……鐘守が枯れたのは、そのためだ」
アンナの目が、見開かれた。
「集めすぎていた、ということですか」
「ああ」
アルクは、広場を見渡した。
――分ける。
六年前、ガルドは、分けて、失った。けれど、これは違う。同じ「分ける」でも、重さを一人に押しつけるのではなく、皆で持ち寄る。
それは、近道ではなかった。むしろ、遠回りだ。人を集め、順番を決め、数を数え、名前を書く。手間のかかることばかりだ。
けれど、その手間こそが、命を削らずに済む唯一の道だった。
「アルク」
隣で、リーナの声がした。いつの間にか、彼女が来ていた。
「鐘、きれいだね」
「ああ」
「前より、優しい音がする」
「……ああ」
鐘は、鳴り続けた。
十一秒に一度、ゆっくりと、穏やかに。夕暮れの空に、その響きは溶けていった。広場の人々が、静かに、耳を傾けている。誰かが、手を合わせていた。誰かが、泣いていた。
塔の窓から、ミレイユがその光景を見つめていた。ショールを肩に、細い手を窓枠に置いて。
その横顔は、長い間、決して見せなかった、安堵の表情をしていた。




