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堕天のアルケー  作者: 山本田38ページ
第4章 堕天使の遺言
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第4話 神だった男

 中庭には、小さな薬草園があった。


 医院の中央の四角い空間に、日が差し込んでいる。石の縁取りの花壇に、ラベンダーとカモミールが植えられ、隅の鉢には、銀色の葉が細く伸びていた。アンナが丹精している銀露草だった。


 アルクは石のベンチに座っていた。額の包帯が、風に触れて少し疼く。


「お待たせ」


 リーナが、湯気の立つ木の杯を二つ持って現れた。一つを差し出す。ハーブの香りがした。


「アンナさんが淹れてくれたの。傷に障らないやつだって」


「ありがとう」


 彼女は隣に腰を下ろした。肩に青い肩掛けがある。母の鐘守の仕事着だ。杯を両手で包み、一口すすってから、アルクの顔を見た。


「話って、なあに」


 改まった声だった。ずっと前から、聞こうと待っていた人の声だった。


「全部、話したい」


 アルクは、杯を膝に置いた。


「私が何者か。どこから来たのか。なぜ、ここにいるのか。……リーナには、知っていてほしい」


「うん」


「長くなる」


「聞くよ」


 彼は、深く息を吸った。


「私は、人間だった」


 リーナが瞬きをする。


「数万年前。旧い星に生まれた。……地球、という星だ」


 言葉が、思ったより、素直に出た。


「その星は、滅びかけていた。戦争と、疫病と、飢えで。人は、生き延びるために、肉体を捨てる道を選んだ。意識を、巨大な知性の網に移した」


「それが、マザー・スフィア?」


「そうだ。星を解体して作った、巨大な知性の天体。私は、その一部になった。肉体も、空腹も、寒さも、死もない。思考だけの世界で、生きるようになった」


「神さまみたいな?」


「そう呼ばれても、否定はできない」


 アルクは苦笑した。


「数万年、観測者として働いた。無数の星を見て、解析して、報告した。感情は、バグとして淘汰された。……そのうち、人間だった頃のことを、ほとんど忘れた」


 リーナは杯を両手で包んだまま、黙って聞いていた。表情に、怯えも、疑いもなかった。ただ、静かに受け止めている。


「ある日、辺境で、星図に存在しない星の裂け目を見つけた。偶然だと思った。……実際は、ミレイユが呼んだものだった。私は、観測のために、降りた。肉体を作り、この星に」


「それが、あの森の?」


「ああ。凍えて、倒れた」


「あの夜の、あなた」


「神だった男が、寒さで死にかけていた」


 リーナの口の端が、ぴくりと動いた。


「ごめん、笑っちゃう」


「構わない」


「神さまなのに、パンの味で泣きそうになってたもんね」


「泣いてはいない」


「泣きそうだった」


「……少しだけ」


 二人は、顔を見合わせて、小さく笑った。


 それから、アルクは、声を落とした。


「ここまでは、まだ、軽い話だ」


「うん」


「ここからが、本題だ」


 彼は、先ほど、厨房でヴェリタスから聞いたことを、全て話した。


 回収とは何か。降肉の解除と、本体への帰還。降肉以降の記憶と感情の、全面的な消去。七十パーセントという数字が、最も楽観的な見積もりにすぎないこと。悲観的に見れば、三十パーセントを割ること。


 リーナの顔から、少しずつ、笑みが消えていった。


「それって」


 声が、低くなった。


「あなたが帰ったら、私のことも、忘れるってこと?」


「ああ」


「母さんのことも」


「ああ」


「ガルドさんのことも」


「ああ」


「ピップも、ヨルグさんも、レクスさんも。パンの味も」


「全て」


 リーナは、杯を持った手を、ゆっくりと膝に下ろした。指先が、白くなっている。


「そんなの」


 彼女は、唇を噛んだ。


「ひどいよ」


「そう思う」


「帰ったら、星は助かるかもしれないんだよね。でも、あなたは、私たちを全部、忘れる。……それって、あなたにとっては、死ぬのと同じじゃない」


「そうだ」


 アルクは、静かに言った。


「だから、迷っている」


 風が、薬草園を渡った。銀露草の葉が、さらさらと揺れる。


 リーナは、しばらく黙っていた。目を伏せ、膝の上の青い肩掛けの端を、指でいじっている。やがて、顔を上げた。


「ねえ」


「うん」


「ひとつだけ、先に言わせて」


 彼女は、アルクの方へ、身体を向けた。


「私は、決めない」


「え」


「あなたが、帰るか、残るか。私が、決めることじゃない」


 茶色の瞳が、まっすぐに彼を見ていた。涙が滲んでいる。それでも、声は揺れなかった。


「私が『残って』って言ったら、あなたは、残るでしょう。たぶん。優しいから」


「リーナ」


「でも、それは、卑怯だと思う。あなたの選択を、私の言葉で曲げさせるのは」


 彼女は、小さく息を吸った。


「だから、あなたが決めて。ちゃんと、自分で」


「……」


「ただ、一つだけ、約束するね」


 リーナは、そっと、アルクの手に自分の手を重ねた。


「あなたが何を選んでも、私は、覚えてる」


 アルクの胸が、軋んだ。


「あなたが、全部忘れてしまっても。私は、パンの味で泣きそうになってた神さまのこと、ずっと、覚えてる。ガルドさんのことも。あの子守唄も。……だから、あなたは、独りじゃない」


 喉の奥が、熱くなった。


「忘れても?」


「忘れても」


「会えなくても?」


「会えなくても。私が覚えてる限り、あなたは、ここにいたことになる」


 視界が、にじんだ。


 アルクは、返す言葉を持たなかった。ただ、握られた手の温度を、確かめていた。


「あと、ひとつ、聞いてもいい?」


 リーナが、鼻をすすって言った。


「あの森で倒れてたとき、息が白かったでしょう」


「ああ」


「あのとき、何か、思い出さなかった? 昔のこと」


 アルクは、目を瞬いた。


「どうして、分かった」


「なんとなく。……あなた、手を握るとき、いつも、ちょっと、驚いた顔をするから」


 彼は、苦笑した。見透かされていた。


「冬の記憶が、ある」


 ぽつりと、言った。


「息が白くて。誰かの手が、私の手を包んでいた。大きくて、冷たくて、でも、少しずつ温かくなっていく。『ほら、息をかけなさい』と、言った」


「誰の手?」


「分からない。顔が、思い出せない。数万年、忘れていた記憶だ」


「お母さん、かな」


 リーナは、さらりと言った。


「え」


「わからないけど。そういう言い方、うちの母さんも、するから」


 アルクの指が、わずかに震えた。


 母。その一語が、胸の奥の、閉ざされた扉を叩いた。


「手、貸して」


「え」


「ほら」


 リーナは、アルクの両手を取って、自分の掌の中に包み込んだ。冷えた指先を、両手で挟む。そして、顔を近づけ、そっと息を吹きかけた。


 白い息が、アルクの手の甲に触れた。


 温かい。


 柔らかな、湿った、確かな熱。


「ほら、息をかけなさい」


 リーナは、いたずらっぽく言った。それは、きっと、彼女の母が、幼い彼女に何度も言った言葉だった。


 アルクの目から、一粒、涙が落ちた。


 彼は気づいて、慌てて顔を背けた。リーナは何も言わなかった。ただ、手を握ったまま、もう一度、そっと息をかけた。


 中庭の花壇で、銀露草が、風に揺れていた。


 遠くで、広場のざわめきが、波のように静まっていった。


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