第4話 神だった男
中庭には、小さな薬草園があった。
医院の中央の四角い空間に、日が差し込んでいる。石の縁取りの花壇に、ラベンダーとカモミールが植えられ、隅の鉢には、銀色の葉が細く伸びていた。アンナが丹精している銀露草だった。
アルクは石のベンチに座っていた。額の包帯が、風に触れて少し疼く。
「お待たせ」
リーナが、湯気の立つ木の杯を二つ持って現れた。一つを差し出す。ハーブの香りがした。
「アンナさんが淹れてくれたの。傷に障らないやつだって」
「ありがとう」
彼女は隣に腰を下ろした。肩に青い肩掛けがある。母の鐘守の仕事着だ。杯を両手で包み、一口すすってから、アルクの顔を見た。
「話って、なあに」
改まった声だった。ずっと前から、聞こうと待っていた人の声だった。
「全部、話したい」
アルクは、杯を膝に置いた。
「私が何者か。どこから来たのか。なぜ、ここにいるのか。……リーナには、知っていてほしい」
「うん」
「長くなる」
「聞くよ」
彼は、深く息を吸った。
「私は、人間だった」
リーナが瞬きをする。
「数万年前。旧い星に生まれた。……地球、という星だ」
言葉が、思ったより、素直に出た。
「その星は、滅びかけていた。戦争と、疫病と、飢えで。人は、生き延びるために、肉体を捨てる道を選んだ。意識を、巨大な知性の網に移した」
「それが、マザー・スフィア?」
「そうだ。星を解体して作った、巨大な知性の天体。私は、その一部になった。肉体も、空腹も、寒さも、死もない。思考だけの世界で、生きるようになった」
「神さまみたいな?」
「そう呼ばれても、否定はできない」
アルクは苦笑した。
「数万年、観測者として働いた。無数の星を見て、解析して、報告した。感情は、バグとして淘汰された。……そのうち、人間だった頃のことを、ほとんど忘れた」
リーナは杯を両手で包んだまま、黙って聞いていた。表情に、怯えも、疑いもなかった。ただ、静かに受け止めている。
「ある日、辺境で、星図に存在しない星の裂け目を見つけた。偶然だと思った。……実際は、ミレイユが呼んだものだった。私は、観測のために、降りた。肉体を作り、この星に」
「それが、あの森の?」
「ああ。凍えて、倒れた」
「あの夜の、あなた」
「神だった男が、寒さで死にかけていた」
リーナの口の端が、ぴくりと動いた。
「ごめん、笑っちゃう」
「構わない」
「神さまなのに、パンの味で泣きそうになってたもんね」
「泣いてはいない」
「泣きそうだった」
「……少しだけ」
二人は、顔を見合わせて、小さく笑った。
それから、アルクは、声を落とした。
「ここまでは、まだ、軽い話だ」
「うん」
「ここからが、本題だ」
彼は、先ほど、厨房でヴェリタスから聞いたことを、全て話した。
回収とは何か。降肉の解除と、本体への帰還。降肉以降の記憶と感情の、全面的な消去。七十パーセントという数字が、最も楽観的な見積もりにすぎないこと。悲観的に見れば、三十パーセントを割ること。
リーナの顔から、少しずつ、笑みが消えていった。
「それって」
声が、低くなった。
「あなたが帰ったら、私のことも、忘れるってこと?」
「ああ」
「母さんのことも」
「ああ」
「ガルドさんのことも」
「ああ」
「ピップも、ヨルグさんも、レクスさんも。パンの味も」
「全て」
リーナは、杯を持った手を、ゆっくりと膝に下ろした。指先が、白くなっている。
「そんなの」
彼女は、唇を噛んだ。
「ひどいよ」
「そう思う」
「帰ったら、星は助かるかもしれないんだよね。でも、あなたは、私たちを全部、忘れる。……それって、あなたにとっては、死ぬのと同じじゃない」
「そうだ」
アルクは、静かに言った。
「だから、迷っている」
風が、薬草園を渡った。銀露草の葉が、さらさらと揺れる。
リーナは、しばらく黙っていた。目を伏せ、膝の上の青い肩掛けの端を、指でいじっている。やがて、顔を上げた。
「ねえ」
「うん」
「ひとつだけ、先に言わせて」
彼女は、アルクの方へ、身体を向けた。
「私は、決めない」
「え」
「あなたが、帰るか、残るか。私が、決めることじゃない」
茶色の瞳が、まっすぐに彼を見ていた。涙が滲んでいる。それでも、声は揺れなかった。
「私が『残って』って言ったら、あなたは、残るでしょう。たぶん。優しいから」
「リーナ」
「でも、それは、卑怯だと思う。あなたの選択を、私の言葉で曲げさせるのは」
彼女は、小さく息を吸った。
「だから、あなたが決めて。ちゃんと、自分で」
「……」
「ただ、一つだけ、約束するね」
リーナは、そっと、アルクの手に自分の手を重ねた。
「あなたが何を選んでも、私は、覚えてる」
アルクの胸が、軋んだ。
「あなたが、全部忘れてしまっても。私は、パンの味で泣きそうになってた神さまのこと、ずっと、覚えてる。ガルドさんのことも。あの子守唄も。……だから、あなたは、独りじゃない」
喉の奥が、熱くなった。
「忘れても?」
「忘れても」
「会えなくても?」
「会えなくても。私が覚えてる限り、あなたは、ここにいたことになる」
視界が、にじんだ。
アルクは、返す言葉を持たなかった。ただ、握られた手の温度を、確かめていた。
「あと、ひとつ、聞いてもいい?」
リーナが、鼻をすすって言った。
「あの森で倒れてたとき、息が白かったでしょう」
「ああ」
「あのとき、何か、思い出さなかった? 昔のこと」
アルクは、目を瞬いた。
「どうして、分かった」
「なんとなく。……あなた、手を握るとき、いつも、ちょっと、驚いた顔をするから」
彼は、苦笑した。見透かされていた。
「冬の記憶が、ある」
ぽつりと、言った。
「息が白くて。誰かの手が、私の手を包んでいた。大きくて、冷たくて、でも、少しずつ温かくなっていく。『ほら、息をかけなさい』と、言った」
「誰の手?」
「分からない。顔が、思い出せない。数万年、忘れていた記憶だ」
「お母さん、かな」
リーナは、さらりと言った。
「え」
「わからないけど。そういう言い方、うちの母さんも、するから」
アルクの指が、わずかに震えた。
母。その一語が、胸の奥の、閉ざされた扉を叩いた。
「手、貸して」
「え」
「ほら」
リーナは、アルクの両手を取って、自分の掌の中に包み込んだ。冷えた指先を、両手で挟む。そして、顔を近づけ、そっと息を吹きかけた。
白い息が、アルクの手の甲に触れた。
温かい。
柔らかな、湿った、確かな熱。
「ほら、息をかけなさい」
リーナは、いたずらっぽく言った。それは、きっと、彼女の母が、幼い彼女に何度も言った言葉だった。
アルクの目から、一粒、涙が落ちた。
彼は気づいて、慌てて顔を背けた。リーナは何も言わなかった。ただ、手を握ったまま、もう一度、そっと息をかけた。
中庭の花壇で、銀露草が、風に揺れていた。
遠くで、広場のざわめきが、波のように静まっていった。




