第3話 粥と監査官
粥は、湯気を立てていた。
医院の厨房は、昼の光に満ちていた。大きな竈に鉄鍋が掛かり、麦と野菜と少量の干し肉が、とろりと煮えている。窓の外から、広場のざわめきが微かに聞こえた。人々はまだ、立ち去りきれずにいる。
アルクは額の包帯の下で、鈍い痛みを抱えたまま、木の卓に座っていた。向かいにヴェリタスがいる。昨夜から借りている外套を、毛布のように頭からかぶり、椀の中身を睨んでいた。
「これが、粥か」
「ああ」
「液体と固体の中間だな」
「ああ」
「摂取方法は」
「匙で」
ヴェリタスは真顔で匙を取った。持ち方は正確だった。観測データから学習していたのだろう。粥をすくい、顔の前に持ち上げ、じっと観察する。
「熱源は、およそ六十度。摂取時の許容温度を超える」
「冷ませ」
「どうやって」
「息を吹きかける」
「息」
彼女は匙に顔を近づけ、細く息を吹いた。湯気が揺れた。その動作が、あまりに不器用で、アルクは思わず口の端を緩めた。
「笑うな」
「笑っていない」
「顔面筋の変動を確認した」
ヴェリタスは憮然として、もう一度、息を吹きかけた。それから、意を決したように匙を口に運んだ。
動きが、止まった。
長い、静止だった。氷の青の瞳が、見開かれたまま、一点を見つめている。喉が、ゆっくりと上下した。
「……ヴェリタス?」
「待て」
彼女は匙を椀に置いた。指が、わずかに震えている。
「塩分。炭水化物。蛋白質の分解物。野菜の糖」
「ああ」
「成分は、すべて把握できる。だが」
彼女は言葉を探すように、唇を結んだ。
「それ以外の、何かが、ある」
「ああ」
「これが、味というものか」
アルクは頷いた。
「数万年、味という言葉を知っていた。定義も、化学的な説明も。だが」
「実物は、別物だった」
「そうだ」
ヴェリタスは黙って、もう一口、粥を口に入れた。二口。三口。やがて、椀は空になった。彼女は匙を置き、小さく息を吐いた。耳の端が、わずかに赤い。
「……おかわりを、要求する」
竈の傍で見ていたアンナが、静かに笑って、鍋の蓋を開けた。
「どうぞ」
二杯目を受け取る手つきは、さっきよりずっと自然だった。
アルクは、その様子を見ながら、口を開いた。
「ヴェリタス。聞きたいことがある」
「質問を許可する」
「回収とは、何をするのか」
匙を持つ手が、止まった。
「降肉の解除。本体への帰還。そして、記憶の汚染の除去」
「除去とは」
「降肉以降に蓄積された、非合理的な記憶と感情の消去だ」
アルクの背筋が、冷たくなった。
「どこまで」
「降肉の瞬間から。全て」
彼女は淡々と答えた。
「この星での体験は、全て、無かったことになる。復元後のノードは、降りる前の状態に戻る」
「リーナのことも」
「忘れる」
「セレナも」
「忘れる」
「ガルドのことも」
声が、わずかに掠れた。
「ガルド・ヴァインの名前も、あの酒場の夜も、……全て」
「忘れる」
ヴェリタスは、匙を椀の縁に置いた。
「それが、復元だ」
静けさが、厨房に落ちた。竈の火が、ぱちりと音を立てた。
――全部、忘れる。
アルクは、卓の上の自分の手を見つめた。ヨルグのナイフを握った手。ガルドに握り方を直された手。リーナの手の温度を知っている手。
その全てが、無かったことになる。
「それは、救いか」
彼は静かに言った。
「違う。死に等しい」
「死ではない。ノードは存続する」
「同じことだ」
ヴェリタスは、何かを言いかけて、口を閉じた。氷の瞳が、わずかに揺れた。
「もう一つ、聞きたい」
アルクは続けた。
「七十パーセント、と言ったな。星が保留される確率」
「そうだ」
「根拠は」
彼女は、少し間を置いてから答えた。
「過去の類似案件の統計。第四観測局のモデル」
「確かな数字か」
「保証ではない」
即答だった。
「保留の判断は、上位の裁量に属する。私にも、最終決定権はない。七十パーセントとは、最も楽観的なモデルの結果だ」
「悲観的なモデルでは」
「……三十パーセント以下」
アルクは息を呑んだ。
「それを、なぜ最初に言わなかった」
「聞かれなかった」
ヴェリタスは、眉間に皺を寄せた。
「規程上、提示する義務があるのは、最も楽観的な見積もりだ。……それ以外は、私の裁量の範囲だ」
「裁量で、言わなかった」
「ああ」
「なぜ、今は、言った」
彼女は、答えなかった。窓の外の光を、じっと見つめている。
厨房の扉が、静かに開いた。
リーナが入ってきた。両手に、パンの包みを抱えている。目の下は赤かったが、足取りは落ち着いていた。
「ただいま。母さんは、まだ眠ってる。……あ」
彼女はヴェリタスの前の空の椀を見て、目を丸くした。
「食べたんだ」
「摂取した」
「おいしかった?」
「……評価は保留する」
「保留?」
「もう一杯、必要だと判断した」
リーナは噴き出しそうになって、必死で口元を押さえた。ヴェリタスは憮然としながら、三杯目の粥を受け取った。
「ねえ、ヴェリタスさん」
リーナは、隣の椅子に腰を下ろした。
「質問してもいい?」
「許可する」
「あなたは、どうして、ここに来たの? 星を、浄化するために?」
「審査のためだ」
「審査して、もし、浄化するって決まったら」
「実行する」
リーナの唇が、きゅっと結ばれた。
「たくさんの人が、死ぬんだよ」
「全生体の消去だ」
「怖くないの?」
「怖い、とは」
ヴェリタスは、匙を持ったまま、首を傾げた。
「定義を、求める」
「えっと」
リーナは言葉を探した。
「大切な人がいなくなるのが、嫌で、胸が痛くなること」
「胸が、痛む」
「うん」
「……それは、生体ノイズだ」
「そうかな」
リーナは小さく笑った。
「私は、ノイズだとは思わない」
ヴェリタスは、しばらく、リーナの顔を見つめていた。その視線は、昨夜、屋上で涙を見たときと同じだった。逸らそうとして、逸らせない。そんな目だった。
その時、遠くから、大鐘の音が響いてきた。
ゴォン。
昼の鐘だ。ミレイユとダミアンが、塔の上で綱を引いているのだろう。
ヴェリタスの肩が、ぴくりと動いた。
「今の音は」
「正午の鐘だ」
「違う。……共振している」
彼女は匙を置き、胸元に手を当てた。
「この身体の、神経系の一部が、鐘の周波数に反応している。数値的には微弱だが」
「あなたも、回路が」
「ある。降肉の際に、現地の素材で構成した結果だ」
彼女の顔に、初めて、動揺の色が浮かんだ。
「危険ではないのか。この音を聞き続けて、枯れるのでは」
「この星の人間は、ずっとそうだ」
アルクは静かに言った。
「ヴェリタス。あなたは、先ほど、一つの数字を最初に言わなかった。……それは、なぜだ」
「……」
「もう一つ、聞く。自己消滅の個体は、何件いる」
彼女は長い間、黙っていた。
鐘の余韻が、厨房の石壁に消えていく。
「四十三件」
ぽつりと、答えた。
「四十三の星で、四十三の堕天個体が、現地で死亡している」
「死因は」
「不明だ」
ヴェリタスは、窓の外を見たまま続けた。
「肉体の老化、病、事故。個体ごとに異なる。……だが」
彼女は、一度、言葉を切った。
「全ての個体が、死亡直前に、同じ行動を取っている」
「同じ?」
「発声だ。各星の現地言語で、ある一語を」
アルクの心臓が、一度、大きく打った。
「何という言葉だ」
「意味は、全て、同じだ」
ヴェリタスの声は、ひどく静かだった。
「『ありがとう』」
リーナが、息を呑んだ。
アルクは、言葉を失った。
竈の火が、静かに揺れていた。窓の外で、広場のざわめきが、遠く、波のように寄せては返す。
「解析は、完了していない」
ヴェリタスは、低く言った。
「なぜ、死にゆく堕天個体が、感謝を発声するのか。誰に対してか。何の対価か。……私は、それを、調べるために来た」
「審査のため、ではなく」
「両方だ」
彼女は、少しだけ、肩の力を抜いた。
「規程の枠の外の、個人的な疑問だ。記録しないでほしい」
「記録はしない」
「そうか」
ヴェリタスは、三杯目の粥に、また匙を入れた。湯気が、彼女の銀灰色の髪の間を、ゆっくり昇っていく。
アルクは、卓の上に両手を置いた。ありがとう、という一語が、胸の奥で、重く反響していた。
イオンの日記のページが、頭に浮かんだ。娘の歌。妻の鐘。痛みは、愛の入口だった。
――あの人も、言ったのだろうか。
その問いに、答える者は、まだいなかった。




