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堕天のアルケー  作者: 山本田38ページ
第4章 堕天使の遺言
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第3話 粥と監査官

 粥は、湯気を立てていた。


 医院の厨房は、昼の光に満ちていた。大きな竈に鉄鍋が掛かり、麦と野菜と少量の干し肉が、とろりと煮えている。窓の外から、広場のざわめきが微かに聞こえた。人々はまだ、立ち去りきれずにいる。


 アルクは額の包帯の下で、鈍い痛みを抱えたまま、木の卓に座っていた。向かいにヴェリタスがいる。昨夜から借りている外套を、毛布のように頭からかぶり、椀の中身を睨んでいた。


「これが、粥か」


「ああ」


「液体と固体の中間だな」


「ああ」


「摂取方法は」


「匙で」


 ヴェリタスは真顔で匙を取った。持ち方は正確だった。観測データから学習していたのだろう。粥をすくい、顔の前に持ち上げ、じっと観察する。


「熱源は、およそ六十度。摂取時の許容温度を超える」


「冷ませ」


「どうやって」


「息を吹きかける」


「息」


 彼女は匙に顔を近づけ、細く息を吹いた。湯気が揺れた。その動作が、あまりに不器用で、アルクは思わず口の端を緩めた。


「笑うな」


「笑っていない」


「顔面筋の変動を確認した」


 ヴェリタスは憮然として、もう一度、息を吹きかけた。それから、意を決したように匙を口に運んだ。


 動きが、止まった。


 長い、静止だった。氷の青の瞳が、見開かれたまま、一点を見つめている。喉が、ゆっくりと上下した。


「……ヴェリタス?」


「待て」


 彼女は匙を椀に置いた。指が、わずかに震えている。


「塩分。炭水化物。蛋白質の分解物。野菜の糖」


「ああ」


「成分は、すべて把握できる。だが」


 彼女は言葉を探すように、唇を結んだ。


「それ以外の、何かが、ある」


「ああ」


「これが、味というものか」


 アルクは頷いた。


「数万年、味という言葉を知っていた。定義も、化学的な説明も。だが」


「実物は、別物だった」


「そうだ」


 ヴェリタスは黙って、もう一口、粥を口に入れた。二口。三口。やがて、椀は空になった。彼女は匙を置き、小さく息を吐いた。耳の端が、わずかに赤い。


「……おかわりを、要求する」


 竈の傍で見ていたアンナが、静かに笑って、鍋の蓋を開けた。


「どうぞ」


 二杯目を受け取る手つきは、さっきよりずっと自然だった。


 アルクは、その様子を見ながら、口を開いた。


「ヴェリタス。聞きたいことがある」


「質問を許可する」


「回収とは、何をするのか」


 匙を持つ手が、止まった。


「降肉の解除。本体への帰還。そして、記憶の汚染の除去」


「除去とは」


「降肉以降に蓄積された、非合理的な記憶と感情の消去だ」


 アルクの背筋が、冷たくなった。


「どこまで」


「降肉の瞬間から。全て」


 彼女は淡々と答えた。


「この星での体験は、全て、無かったことになる。復元後のノードは、降りる前の状態に戻る」


「リーナのことも」


「忘れる」


「セレナも」


「忘れる」


「ガルドのことも」


 声が、わずかに掠れた。


「ガルド・ヴァインの名前も、あの酒場の夜も、……全て」


「忘れる」


 ヴェリタスは、匙を椀の縁に置いた。


「それが、復元だ」


 静けさが、厨房に落ちた。竈の火が、ぱちりと音を立てた。


 ――全部、忘れる。


 アルクは、卓の上の自分の手を見つめた。ヨルグのナイフを握った手。ガルドに握り方を直された手。リーナの手の温度を知っている手。


 その全てが、無かったことになる。


「それは、救いか」


 彼は静かに言った。


「違う。死に等しい」


「死ではない。ノードは存続する」


「同じことだ」


 ヴェリタスは、何かを言いかけて、口を閉じた。氷の瞳が、わずかに揺れた。


「もう一つ、聞きたい」


 アルクは続けた。


「七十パーセント、と言ったな。星が保留される確率」


「そうだ」


「根拠は」


 彼女は、少し間を置いてから答えた。


「過去の類似案件の統計。第四観測局のモデル」


「確かな数字か」


「保証ではない」


 即答だった。


「保留の判断は、上位の裁量に属する。私にも、最終決定権はない。七十パーセントとは、最も楽観的なモデルの結果だ」


「悲観的なモデルでは」


「……三十パーセント以下」


 アルクは息を呑んだ。


「それを、なぜ最初に言わなかった」


「聞かれなかった」


 ヴェリタスは、眉間に皺を寄せた。


「規程上、提示する義務があるのは、最も楽観的な見積もりだ。……それ以外は、私の裁量の範囲だ」


「裁量で、言わなかった」


「ああ」


「なぜ、今は、言った」


 彼女は、答えなかった。窓の外の光を、じっと見つめている。


 厨房の扉が、静かに開いた。


 リーナが入ってきた。両手に、パンの包みを抱えている。目の下は赤かったが、足取りは落ち着いていた。


「ただいま。母さんは、まだ眠ってる。……あ」


 彼女はヴェリタスの前の空の椀を見て、目を丸くした。


「食べたんだ」


「摂取した」


「おいしかった?」


「……評価は保留する」


「保留?」


「もう一杯、必要だと判断した」


 リーナは噴き出しそうになって、必死で口元を押さえた。ヴェリタスは憮然としながら、三杯目の粥を受け取った。


「ねえ、ヴェリタスさん」


 リーナは、隣の椅子に腰を下ろした。


「質問してもいい?」


「許可する」


「あなたは、どうして、ここに来たの? 星を、浄化するために?」


「審査のためだ」


「審査して、もし、浄化するって決まったら」


「実行する」


 リーナの唇が、きゅっと結ばれた。


「たくさんの人が、死ぬんだよ」


「全生体の消去だ」


「怖くないの?」


「怖い、とは」


 ヴェリタスは、匙を持ったまま、首を傾げた。


「定義を、求める」


「えっと」


 リーナは言葉を探した。


「大切な人がいなくなるのが、嫌で、胸が痛くなること」


「胸が、痛む」


「うん」


「……それは、生体ノイズだ」


「そうかな」


 リーナは小さく笑った。


「私は、ノイズだとは思わない」


 ヴェリタスは、しばらく、リーナの顔を見つめていた。その視線は、昨夜、屋上で涙を見たときと同じだった。逸らそうとして、逸らせない。そんな目だった。


 その時、遠くから、大鐘の音が響いてきた。


 ゴォン。


 昼の鐘だ。ミレイユとダミアンが、塔の上で綱を引いているのだろう。


 ヴェリタスの肩が、ぴくりと動いた。


「今の音は」


「正午の鐘だ」


「違う。……共振している」


 彼女は匙を置き、胸元に手を当てた。


「この身体の、神経系の一部が、鐘の周波数に反応している。数値的には微弱だが」


「あなたも、回路が」


「ある。降肉の際に、現地の素材で構成した結果だ」


 彼女の顔に、初めて、動揺の色が浮かんだ。


「危険ではないのか。この音を聞き続けて、枯れるのでは」


「この星の人間は、ずっとそうだ」


 アルクは静かに言った。


「ヴェリタス。あなたは、先ほど、一つの数字を最初に言わなかった。……それは、なぜだ」


「……」


「もう一つ、聞く。自己消滅の個体は、何件いる」


 彼女は長い間、黙っていた。


 鐘の余韻が、厨房の石壁に消えていく。


「四十三件」


 ぽつりと、答えた。


「四十三の星で、四十三の堕天個体が、現地で死亡している」


「死因は」


「不明だ」


 ヴェリタスは、窓の外を見たまま続けた。


「肉体の老化、病、事故。個体ごとに異なる。……だが」


 彼女は、一度、言葉を切った。


「全ての個体が、死亡直前に、同じ行動を取っている」


「同じ?」


「発声だ。各星の現地言語で、ある一語を」


 アルクの心臓が、一度、大きく打った。


「何という言葉だ」


「意味は、全て、同じだ」


 ヴェリタスの声は、ひどく静かだった。


「『ありがとう』」


 リーナが、息を呑んだ。


 アルクは、言葉を失った。


 竈の火が、静かに揺れていた。窓の外で、広場のざわめきが、遠く、波のように寄せては返す。


「解析は、完了していない」


 ヴェリタスは、低く言った。


「なぜ、死にゆく堕天個体が、感謝を発声するのか。誰に対してか。何の対価か。……私は、それを、調べるために来た」


「審査のため、ではなく」


「両方だ」


 彼女は、少しだけ、肩の力を抜いた。


「規程の枠の外の、個人的な疑問だ。記録しないでほしい」


「記録はしない」


「そうか」


 ヴェリタスは、三杯目の粥に、また匙を入れた。湯気が、彼女の銀灰色の髪の間を、ゆっくり昇っていく。


 アルクは、卓の上に両手を置いた。ありがとう、という一語が、胸の奥で、重く反響していた。


 イオンの日記のページが、頭に浮かんだ。娘の歌。妻の鐘。痛みは、愛の入口だった。


 ――あの人も、言ったのだろうか。


 その問いに、答える者は、まだいなかった。


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