第2話 告白の朝
広場は、人で埋まっていた。
夜明けとともに、噂は街を駆けた。昨夜の光の柱。七日も止まっていた鐘が、日没にまた鳴り出したこと。そして、大司教が今朝、民に話すという布告。石畳の上に、商人も、職人も、子供を抱えた母親も、杖をついた老人も、押し合うようにひしめいていた。
アルクは、大聖堂の石段の脇に立っていた。リーナが隣にいる。目の下に、濃い隈ができていた。夜通し、母の病室にいたのだ。セレナは眠っていた。濃度は、七から、動いていない。
「来た」
リーナが小さく言った。
大聖堂の扉が開き、白い法衣のミレイユが姿を現した。肩のショールはない。首の鐘の飾りだけが、朝の光を受けて小さく光っている。その半歩後ろに、黒い法衣のダミアンが続いた。
ざわめきが、静かに引いていった。
ミレイユは石段の最上段に立った。民を見渡し、深く息を吸う。
「皆さんに、お話ししなければならないことがあります」
声は、澄んでいた。細い体のどこから出るのかと思うほど、広場の隅まで届いた。
「わたくしは、嘘をついてきました」
誰かが、息を呑む音がした。
「千年の間、教会は、一つの秘密を守ってきました。鐘守は、名誉ある職ではありません。鐘守の祈りは、空に張られた蓋に、己の命を削って力を注ぐ営みです。そして鐘守は、そのために、枯れて死にます」
広場が、凍った。
「それは、嘘だ!」
どこかで、叫びが上がった。
「鐘守様は、民のために」
「ええ。民のために、です」
ミレイユは、頷いた。
「志願した方々は、その誇りを持って、鐘を打ちました。けれど、わたくしたち上層の者は、その代償を知りながら、隠してきました。誰もが、鐘守の死を、病としか思わなかったでしょう。……それが、わたくしの罪の、一つです」
一人の女が、前へ進み出た。子供の手を握っている。
「うちの姉は、鐘守でした」
声は、怒りに震えていた。
「三年前に亡くなりました。咳をして、痩せて、……医者は、原因が分からないと」
「お姉様のお名前を、伺ってもよろしいでしょうか」
「え」
「お聞かせください」
「……クララ。クララ・ハイネ」
ミレイユは、深く頭を下げた。
「クララ・ハイネ様。第六期の鐘守。……存じ上げております。蓋のために、わたくしたちのために、逝かれました」
女の顔が、歪んだ。
「そんなこと、今更」
その肩が、震え出した。子供が、不安そうに母親の袖を引いた。
ミレイユは、顔を上げた。
「もう一つ、お話しします」
彼女の声が、さらに静かになった。
「五年前から、わたくしは、鐘の音に、別の祈りを乗せてきました。蓋の外に、助けを求める、呼びかけです」
ざわめきが、広がる。
「毎日、二度。三千六百回以上。鐘守の方々の力を、その呼びかけに使いました。……そして、先日の天啓の夜、最大の力で、呼びました」
「何を……」
「空の外から、救いに来てくださる誰かを」
彼女は、そっと、アルクの方を見た。
「そして、一人の方が、降りてこられました。アルク殿です」
視線が、一斉に、アルクに集まった。
痛いほどの、視線だった。
「その方を呼んだ結果、結界は書き換えられました。眠っていた飛竜が、目覚めました。そして、騎士団長ガルド・ヴァイン殿が、亡くなりました」
その名が出た瞬間、広場の空気が、変わった。
ガルド・ヴァイン。多くの民が、その名を知っていた。街を守り続けた、無愛想で、頼りがいのある騎士団長。
最前列の騎士の列で、誰かが、短く呻いた。
「ガルド団長を……」
「あんたが、殺したのか」
怒号が、爆発した。
「人殺し!」
「鐘守を殺して、団長まで!」
「お前が、お前が呼んだから!」
石畳を踏み鳴らす音。怒りと悲しみが入り混じった声。広場の端から、波のように押し寄せてくる。
ミレイユは、動かなかった。ただ、その場に立ち尽くし、両手を前で組んだ。
「そして」
彼女は、続けた。
「昨夜、空から降りてきた光は、わたくしが呼んだものの、使いです。彼らは、この星に、期限を与えました。七十二時間。その間に答えを出さなければ、……この星は、浄化されます」
「浄化……」
「全ての命を、消す、ということです」
広場が、一瞬、静まった。
怒号は、悲鳴に変わった。人々が互いに押し合い、母親が子を抱き寄せる。誰かが泣き出した。
その時、騎士団の列が、動いた。
先頭に立っていたのは、レクスだった。ガルドの長剣を腰に佩き、背筋を伸ばして、広場に向き直る。彼は鞘に手をかけず、ただ、手を高く上げた。
「静かにしろ!」
若い声が、広場に響いた。
騎士たちが、無言で隊列を組み直す。石段の前に、盾を持つ者たちが並び、壁を作った。人波が、その前で、押し留められる。
「道を開けろ! 誰も、前に出るな!」
「レクス!」
群衆の中から、声が飛んだ。
「お前は、団長の弟子だろう!」
「そうだ!」
レクスは、振り向いた。涙が、頬を伝っていた。
「団長の弟子だ。だから、言う」
声が、震えた。
「俺は、この人たちを、許していない」
広場が、息を呑んだ。
「ミレイユ猊下も、アルクさんも。団長が死んだのは、この人たちのせいだと、思っている。……今でも」
彼は、拳を握りしめた。
「でも、石を投げる権利は、誰にもない」
「何を」
「団長の名前を、恨みの言い訳に使うな!」
その叫びは、広場の隅々まで、響き渡った。
「団長は、毎晩、死んだ仲間の名前を数えていた。一人も、忘れないように。誰かを憎むためじゃない。……忘れないためだ!」
騎士たちの列から、すすり泣きが漏れた。
「団長が、今ここにいたら、何と言うか。きっと、こう言う。『まず、聞け』と」
静けさが、落ちた。
怒号は、鳴りを潜めた。ただ、すすり泣きと、荒い息の音だけが、広場を満たした。
ダミアンが、前へ出た。
黒い法衣の男が、石段の最上段に立つ。細い目が、民を見渡した。
「私からも、告白があります」
声は、乾いていた。
「私は、鐘守の死を、知っていました。教会の秘密を守る者として、見送ってきました」
「ダミアン司教……」
「私の妹は、エルザといいます。第四期の鐘守でした。十九歳で志願し、二十二歳で亡くなりました」
彼は、胸に手を当てた。
「私は、妹の死を、無駄にしないために、秘密を守りました。そう、自分に言い聞かせて。……それは、間違いでした」
深く、頭を下げた。
「私は、共犯です。猊下の罪は、私の罪でもあります」
広場に、重い沈黙が降りた。
ミレイユは、民に向かって、静かに言った。
「わたくしは、どのような裁きも受けます。ですが、その前に、七十二時間の間に、できることをしなければなりません。……ですから、お願いがあります」
彼女は、一歩、前に出た。
「その間、わたくしを、塔に入れてください。逃げません。ただ、鐘を打つために」
人々が、顔を見合わせた。
その時だった。
「ふざけるな!」
群衆の後方から、鋭い声が上がった。
空気を裂く音がして、何かが、ミレイユの方へ飛んだ。
石だった。
拳ほどの石が、一直線に飛ぶ。ミレイユは目を閉じなかった。ダミアンが、彼女の前に飛び出そうとした。しかし、間に合わなかった。
石を受けたのは、別の身体だった。
アルクだった。
彼は、いつの間にか、石段の中央に立っていた。ミレイユとダミアンの前に、身体を割り込ませていた。石は、彼の額に当たった。
鈍い音。視界が、一瞬、白くなる。額から、温かいものが、頬を伝って落ちた。
「アルクさん!」
リーナの悲鳴が、聞こえた。
彼は、動かなかった。血が、顎から滴り、石段に赤い点を作る。広場が、水を打ったように静まった。
アルクは、ゆっくりと、民に向き直った。
「私も、同じだ」
声は、低く、静かだった。
「呼ばれて来た。そして、ガルドを死なせた。三秒、動けなかった。それは、私の責任だ」
彼は、額の血を拭わなかった。
「投げたい者は、私にも、投げるがいい」
誰も、石を投げなかった。
広場の隅で、さっきの女が、子供を抱き締めて、立ち尽くしていた。レクスは盾の壁の前で、顔を伏せていた。
アルクの額から、血が一滴、石段に落ちた。
朝の鐘は、鳴らなかった。




