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堕天のアルケー  作者: 山本田38ページ
第4章 堕天使の遺言
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第1話 夜の鐘

 鐘は、十一秒に一度、鳴っていた。


 屋上の石の床に、夕陽の最後の赤が消えていく。大鐘の青銅は夜気に冷え、一打ごとに空気を震わせた。綱を握るミレイユの腕は、細く、白く、肩から先が小刻みに揺れている。足元の石畳に、汗が一粒、落ちた。


「ミレイユ」


 アルクが呼ぶと、彼女は振り向かずに答えた。


「だいじょうぶ、です」


「大丈夫ではない」


「あと、ほんの少し。今夜の分が、終われば」


 言い終わらないうちに、膝が折れた。綱を握ったまま、石の床に崩れかける。アルクは駆け寄って、彼女の肘を支えた。腕に触れた瞬間、息を呑んだ。軽い。人の腕とは思えないほど。


「代わろう」


「いけません。これは、鐘守の」


「私が引く」


 アルクは綱を掴んだ。


 粗い麻の繊維が、掌に食い込む。重い。大鐘の質量が、綱を通して全身に響く。腰を落とし、体重を乗せて引いた。


 ゴォン。


 低音が、屋上に広がった。大聖堂の石壁が震え、夜空に音が昇っていく。


 ――鳴った。


 けれど、何も起きなかった。


 HUDに映る天蓋の数字は、微動だにしなかった。《蓋の健全性:三十一パーセント》。


「やはり」


 ミレイユが、かすれた声で言った。


「力が、乗っていません」


「力……」


「鐘守の祈りは、音に魔の根を乗せるもの。音だけでは、何の意味もないのです」


 アルクは綱を握ったまま、唇を噛んだ。


 彼の身体には、鐘守のような生体回路はない。ナノマシンに直接命令する権限はあっても、受け皿としての回路を持たない。ただの音を、鳴らしているだけだった。


 ――手で助けろ。


 ガルドの声が、耳の奥に響いた。


 手はある。綱も握っている。それでも、足りなかった。


「アルクさん」


 ミレイユが、彼の腕にそっと手を重ねた。


「ありがとうございます。けれど、これは、わたくしの務めです」


 彼女は綱を取り返した。指が震えている。それでも、握りしめた。


 ゴォン。


 鐘が鳴る。蓋の数字が、わずかに動いた。三十一、三十二。


 ミレイユの顔が、苦痛に歪んだ。唇の端から、細い血が流れる。


「やめて」


 リーナが、悲鳴のような声を上げた。


「死んじゃう」


「大丈夫、です」


「大丈夫じゃない!」


 その時、階段の下から、荒い足音が響いた。


 扉が乱暴に開かれ、黒い影が飛び込んでくる。ダミアンだった。法衣の裾が乱れ、額に汗が滲んでいる。


「猊下!」


 彼は迷わず駆け寄り、ミレイユの手から綱を引き離そうとした。


「もう、おやめください。お身体が」


「ダミアン、離しなさい」


「できません」


「これは、わたくしの責です」


「猊下一人の責ではない!」


 ダミアンの声が、屋上に響いた。


 ミレイユが、驚いたように目を見開く。男の細い目が、潤んでいた。


「私は、知っていました。原典庫の鍵を預かる者として。鐘守たちが逝くのを、見送ってきました。隠してきました。妹を、見殺しにしてきました」


 彼は綱を掴んだ。


「私が、引きます」


「あなたは、鐘守ではない」


「回路は、あります」


 ダミアンは掌を開いて見せた。その指先に、微かな青い光が灯った。


「祈りを習った者ならば、誰にでも、少しはある。……鐘守ほど強くはない。けれど、無いわけではない」


「危険です。枯れが」


「承知しています」


 男は、ミレイユの隣に立った。


「償いです」


 彼は綱に手をかけ、ミレイユの手と重ねた。二人の手が、並んで綱を握る。


「一緒に、引きましょう」


「ダミアン」


「半分ずつ」


 ミレイユは目を閉じ、ほんの少し、微笑んだ。そして、頷いた。


「ええ」


 二人は、息を合わせて綱を引いた。


 ゴォン。


 鐘の音が、屋上に深く響いた。


 アルクのHUDが、変化を捉えた。


 《蓋の健全性:三十三》


 数字が、動いた。そして、ミレイユの周囲の濃度。さっきまで急速に落ちていた値が、ほんの僅かに、緩やかになっている。


 《ミレイユ・アウレリア 濃度:五→四・八》


 《ダミアン 濃度:二十一→二十・二》


 アルクは、その数字を見つめた。


 一人で引けば、一打ごとに〇・四ずつ減るところが、二人なら、〇・二で済む。単純な計算だった。けれど、それは、これまで誰も試さなかった計算だった。


「……分けると」


 彼は、呟いた。


「負担が、軽くなる」


「え?」


 リーナが、横から覗き込んだ。


「ダミアンさんと猊下が、二人で引いているから。一人あたりの減りが、小さくなった」


「ほんとだ……」


 リーナは数字を見ることはできないが、ミレイユの顔を見て分かった。血の気が少し戻っている。震えが、さっきより収まっていた。


 ミレイユが、小さな声で言った。


「これは……」


「半分、ですから」


 ダミアンが、息を弾ませながら答えた。


「当たり前のことです」


「ええ。当たり前、です」


 彼女は、笑った。涙が、一筋、頬を伝った。


「なぜ、わたくしたちは、今まで」


「誰も、分けようとしなかったからです」


 ダミアンの声は、かすかに震えていた。


「鐘守は、選ばれた者。尊い者。……その言葉の後ろに、『彼女たちだけが』という含みがあった。私も、そう思っていた」


 彼は綱を引く手に力を込めた。


「妹の名前は、エルザといいます」


 ミレイユが、ゆっくりと頷いた。


「ええ。存じています」


「あの子が、もし、誰かと分け合えていたら」


 言葉が、途切れた。


 ゴォン。


 鐘が鳴った。


 アルクは二人の後ろで、黙って立っていた。何もできないことが、苦しかった。けれど、それ以上に、胸が熱かった。


 ――分ける。


 六年前、ガルドは部隊を分けて、十一人を失った。彼は、その失敗を背負っていた。けれど、ここにあるのは、別の「分ける」だった。敵の数も分からず、近道として分けたのではない。重さを、持ち寄って、薄めること。


 その二つは、似ているようで、まるで違った。


「アルク」


 背後で、掠れた声がした。


 振り向くと、ヴェリタスが、石の床に座り込んでいた。胸壁にもたれ、膝を抱えている。銀灰色の髪が、夜風に揺れていた。白い衣の裾が、石の冷たさで濡れて見える。


「……寒い」


 歯が、かちかちと鳴っている。


「それで三度目だ」


「事実の報告だ」


 アルクは、自分の外套を脱いで、彼女の肩に掛けた。ヴェリタスは、少し驚いたように目を瞬き、それから、黙って布を引き寄せた。


「体温の保持という点では、有効だ」


「そうか」


「だが、不十分だ。内側から、温める手段を求める」


「飯を、食え」


「飯」


「温かいものを」


「粥か」


 アルクは苦笑した。


「覚えていたのか」


「記憶の保持は、得意だ」


 ヴェリタスは、真顔で言った。それから、小さくくしゃみをした。


 リーナが、そっと近づいて、ヴェリタスの横にしゃがんだ。


「医院の厨房に、鍋があるよ。夜でも、アンナさんが、温めてくれると思う」


「行く」


「でも、先に、お母さんの病室に寄ってもいい? すぐ、終わるから」


「勝手にしろ」


 ヴェリタスは、毛布のような外套に埋もれたまま、不機嫌そうに答えた。それでも、リーナが立ち上がると、素直についていった。


 屋上に、鐘の音が響いた。


 ミレイユとダミアンの綱を引く手が、ゆっくりと止まった。今夜の分の打数を、数え終えたのだ。


 ミレイユは、膝をついたまま、息を整えた。ダミアンが、肩を支える。


「……猊下」


「ダミアン」


「はい」


「明朝、民に、全てを話します」


 男の顔が、凍りついた。


「それは」


「鐘守のこと。蓋のこと。わたくしの罪のこと。……隠し続けては、分け合うこともできません」


 ミレイユの声は、静かで、澄んでいた。


「怒りも、悲しみも、わたくしが受け止めます。ですから、あなたは」


「私も、参ります」


「ダミアン」


「共犯ですから」


 男は、小さく笑った。目の縁が、赤かった。


 夜空に、星が瞬いていた。アルクは、その薄い膜の向こうの光を見上げた。


 七十二時間の、最初の夜が、更けていく。


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