第1話 夜の鐘
鐘は、十一秒に一度、鳴っていた。
屋上の石の床に、夕陽の最後の赤が消えていく。大鐘の青銅は夜気に冷え、一打ごとに空気を震わせた。綱を握るミレイユの腕は、細く、白く、肩から先が小刻みに揺れている。足元の石畳に、汗が一粒、落ちた。
「ミレイユ」
アルクが呼ぶと、彼女は振り向かずに答えた。
「だいじょうぶ、です」
「大丈夫ではない」
「あと、ほんの少し。今夜の分が、終われば」
言い終わらないうちに、膝が折れた。綱を握ったまま、石の床に崩れかける。アルクは駆け寄って、彼女の肘を支えた。腕に触れた瞬間、息を呑んだ。軽い。人の腕とは思えないほど。
「代わろう」
「いけません。これは、鐘守の」
「私が引く」
アルクは綱を掴んだ。
粗い麻の繊維が、掌に食い込む。重い。大鐘の質量が、綱を通して全身に響く。腰を落とし、体重を乗せて引いた。
ゴォン。
低音が、屋上に広がった。大聖堂の石壁が震え、夜空に音が昇っていく。
――鳴った。
けれど、何も起きなかった。
HUDに映る天蓋の数字は、微動だにしなかった。《蓋の健全性:三十一パーセント》。
「やはり」
ミレイユが、かすれた声で言った。
「力が、乗っていません」
「力……」
「鐘守の祈りは、音に魔の根を乗せるもの。音だけでは、何の意味もないのです」
アルクは綱を握ったまま、唇を噛んだ。
彼の身体には、鐘守のような生体回路はない。ナノマシンに直接命令する権限はあっても、受け皿としての回路を持たない。ただの音を、鳴らしているだけだった。
――手で助けろ。
ガルドの声が、耳の奥に響いた。
手はある。綱も握っている。それでも、足りなかった。
「アルクさん」
ミレイユが、彼の腕にそっと手を重ねた。
「ありがとうございます。けれど、これは、わたくしの務めです」
彼女は綱を取り返した。指が震えている。それでも、握りしめた。
ゴォン。
鐘が鳴る。蓋の数字が、わずかに動いた。三十一、三十二。
ミレイユの顔が、苦痛に歪んだ。唇の端から、細い血が流れる。
「やめて」
リーナが、悲鳴のような声を上げた。
「死んじゃう」
「大丈夫、です」
「大丈夫じゃない!」
その時、階段の下から、荒い足音が響いた。
扉が乱暴に開かれ、黒い影が飛び込んでくる。ダミアンだった。法衣の裾が乱れ、額に汗が滲んでいる。
「猊下!」
彼は迷わず駆け寄り、ミレイユの手から綱を引き離そうとした。
「もう、おやめください。お身体が」
「ダミアン、離しなさい」
「できません」
「これは、わたくしの責です」
「猊下一人の責ではない!」
ダミアンの声が、屋上に響いた。
ミレイユが、驚いたように目を見開く。男の細い目が、潤んでいた。
「私は、知っていました。原典庫の鍵を預かる者として。鐘守たちが逝くのを、見送ってきました。隠してきました。妹を、見殺しにしてきました」
彼は綱を掴んだ。
「私が、引きます」
「あなたは、鐘守ではない」
「回路は、あります」
ダミアンは掌を開いて見せた。その指先に、微かな青い光が灯った。
「祈りを習った者ならば、誰にでも、少しはある。……鐘守ほど強くはない。けれど、無いわけではない」
「危険です。枯れが」
「承知しています」
男は、ミレイユの隣に立った。
「償いです」
彼は綱に手をかけ、ミレイユの手と重ねた。二人の手が、並んで綱を握る。
「一緒に、引きましょう」
「ダミアン」
「半分ずつ」
ミレイユは目を閉じ、ほんの少し、微笑んだ。そして、頷いた。
「ええ」
二人は、息を合わせて綱を引いた。
ゴォン。
鐘の音が、屋上に深く響いた。
アルクのHUDが、変化を捉えた。
《蓋の健全性:三十三》
数字が、動いた。そして、ミレイユの周囲の濃度。さっきまで急速に落ちていた値が、ほんの僅かに、緩やかになっている。
《ミレイユ・アウレリア 濃度:五→四・八》
《ダミアン 濃度:二十一→二十・二》
アルクは、その数字を見つめた。
一人で引けば、一打ごとに〇・四ずつ減るところが、二人なら、〇・二で済む。単純な計算だった。けれど、それは、これまで誰も試さなかった計算だった。
「……分けると」
彼は、呟いた。
「負担が、軽くなる」
「え?」
リーナが、横から覗き込んだ。
「ダミアンさんと猊下が、二人で引いているから。一人あたりの減りが、小さくなった」
「ほんとだ……」
リーナは数字を見ることはできないが、ミレイユの顔を見て分かった。血の気が少し戻っている。震えが、さっきより収まっていた。
ミレイユが、小さな声で言った。
「これは……」
「半分、ですから」
ダミアンが、息を弾ませながら答えた。
「当たり前のことです」
「ええ。当たり前、です」
彼女は、笑った。涙が、一筋、頬を伝った。
「なぜ、わたくしたちは、今まで」
「誰も、分けようとしなかったからです」
ダミアンの声は、かすかに震えていた。
「鐘守は、選ばれた者。尊い者。……その言葉の後ろに、『彼女たちだけが』という含みがあった。私も、そう思っていた」
彼は綱を引く手に力を込めた。
「妹の名前は、エルザといいます」
ミレイユが、ゆっくりと頷いた。
「ええ。存じています」
「あの子が、もし、誰かと分け合えていたら」
言葉が、途切れた。
ゴォン。
鐘が鳴った。
アルクは二人の後ろで、黙って立っていた。何もできないことが、苦しかった。けれど、それ以上に、胸が熱かった。
――分ける。
六年前、ガルドは部隊を分けて、十一人を失った。彼は、その失敗を背負っていた。けれど、ここにあるのは、別の「分ける」だった。敵の数も分からず、近道として分けたのではない。重さを、持ち寄って、薄めること。
その二つは、似ているようで、まるで違った。
「アルク」
背後で、掠れた声がした。
振り向くと、ヴェリタスが、石の床に座り込んでいた。胸壁にもたれ、膝を抱えている。銀灰色の髪が、夜風に揺れていた。白い衣の裾が、石の冷たさで濡れて見える。
「……寒い」
歯が、かちかちと鳴っている。
「それで三度目だ」
「事実の報告だ」
アルクは、自分の外套を脱いで、彼女の肩に掛けた。ヴェリタスは、少し驚いたように目を瞬き、それから、黙って布を引き寄せた。
「体温の保持という点では、有効だ」
「そうか」
「だが、不十分だ。内側から、温める手段を求める」
「飯を、食え」
「飯」
「温かいものを」
「粥か」
アルクは苦笑した。
「覚えていたのか」
「記憶の保持は、得意だ」
ヴェリタスは、真顔で言った。それから、小さくくしゃみをした。
リーナが、そっと近づいて、ヴェリタスの横にしゃがんだ。
「医院の厨房に、鍋があるよ。夜でも、アンナさんが、温めてくれると思う」
「行く」
「でも、先に、お母さんの病室に寄ってもいい? すぐ、終わるから」
「勝手にしろ」
ヴェリタスは、毛布のような外套に埋もれたまま、不機嫌そうに答えた。それでも、リーナが立ち上がると、素直についていった。
屋上に、鐘の音が響いた。
ミレイユとダミアンの綱を引く手が、ゆっくりと止まった。今夜の分の打数を、数え終えたのだ。
ミレイユは、膝をついたまま、息を整えた。ダミアンが、肩を支える。
「……猊下」
「ダミアン」
「はい」
「明朝、民に、全てを話します」
男の顔が、凍りついた。
「それは」
「鐘守のこと。蓋のこと。わたくしの罪のこと。……隠し続けては、分け合うこともできません」
ミレイユの声は、静かで、澄んでいた。
「怒りも、悲しみも、わたくしが受け止めます。ですから、あなたは」
「私も、参ります」
「ダミアン」
「共犯ですから」
男は、小さく笑った。目の縁が、赤かった。
夜空に、星が瞬いていた。アルクは、その薄い膜の向こうの光を見上げた。
七十二時間の、最初の夜が、更けていく。




