第12話 降肉
光の柱は、音もなく屋上に着いた。
大鐘の手前、石の床の真ん中に、白い光が降り注ぐ。夕焼けの赤が、その周りだけ洗い流されていた。眩しさに、リーナが目を覆った。ミレイユが、無意識に胸元の鐘の飾りを握りしめる。
アルクは、二人の前に立った。
光の中で、粒子が集まっていく。
炭素。水。カルシウム。足元の石からも、空気からも、細かな塵が吸い寄せられ、形を成していく。足。腰。肩。首。細い腕が組み上がり、指が一本ずつ結ばれる。HUDが、その過程を一つ一つ読み取った。自分が降りたときと、同じだ。
長い、数秒だった。
やがて、光が引いた。
そこに、一人の女性が立っていた。
二十代の半ばに見えた。肩までの銀灰色の髪。色素の薄い肌。瞳は氷のような青で、瞳孔が小さい。白い簡素な衣を纏い、裸足で石の床に立っている。背筋は真っ直ぐで、顔は無表情だった。
「――アルケー-704」
彼女は、静かに言った。
「応答しなかったな」
声は硬く、機械的だった。しかし、言い終わった直後、その肩が、がくりと震えた。
「……っ」
女性は片手で口元を覆った。もう片方の手が、肋骨のあたりを押さえる。
「何だ、これは」
囁くような声だった。
「呼吸が、……自動で、止まらない。心拍が、制御できない。体温が」
彼女は震える身体で、石の床に膝をついた。息が白い。唇が青ざめている。
「寒い」
その一言は、まるで、初めて発見した現象を記録するかのような響きだった。
「……大丈夫か」
アルクが思わず口に出すと、女性は顔を上げた。冷たい青い目が、彼を射る。
「質問に答えろ。〈アルケー-704〉。なぜ照会に応答しない」
「ヴェリタス」
アルクは、その名を呼んだ。
記憶の底から、浮かんできた。マザー・スフィアの監査ノード。規程の守護者。冷徹で、一切の揺らぎを持たない存在。数万年前、何度か、観測報告の添削を受けたことがある。
「〈ヴェリタス-9〉」
「識別、確認した」
彼女は立ち上がろうとして、ふらついた。それでも、背筋を伸ばす。鼻先が赤く、そこから透明な液が一筋、垂れた。
「……これは」
彼女は指で拭い、じっと見つめた。
「体液の流出。不具合だ。対処を要する」
「鼻水だ」
アルクが言うと、背後から、リーナが小さく噴き出した。慌てて口を押さえる。ヴェリタスの視線が、そちらへ向いた。
「そこの人間」
「は、はい」
「その目から出ている液体は何だ」
リーナは、まだ涙の跡を頬に残していた。
「あ、涙、です」
「理由を説明せよ」
「……悲しいから」
「悲しい」
ヴェリタスは、その言葉を繰り返した。
「感情による体液の流出。非効率だ」
「そう、かもしれないけど」
リーナは、袖で目元を拭った。
「止まらないんです」
ヴェリタスは何かを言いかけて、口を閉じた。数秒、リーナの顔を見つめていた。それから、視線を逸らし、アルクに向き直る。
「本題に入る」
彼女は、胸元に右手を当てた。そこから、微かな光が滲む。
「監査官〈ヴェリタス-9〉。マザー・スフィア、第四観測局の権限により、本件を審査する」
「審査?」
「観測空白域の存在、及びそこでの堕天の発生について」
彼女の声が、冷たく響いた。
「この星は、全星図から抹消されていた。数万年前に、何者かが人為的に隠蔽した。それは、規程第七条の違反である。本来、直ちに検証し、必要ならば浄化する」
「浄化」
リーナの声が、掠れた。
「それは、何ですか」
「生体、構造物、残留する全ての情報の消去だ」
ヴェリタスは、淡々と答えた。
「この星の全生体を、消す」
屋上の空気が、凍った。
ミレイユが、小さく息を呑む。リーナの顔から、血の気が引いた。アルクは、拳を握った。
「ただし」
ヴェリタスは続けた。
「検証には、審査期間がある。標準で七十二時間。その間に、問題の根源が除去されれば、浄化を保留できる」
「問題の根源とは」
「アルケー-704。君だ」
青い目が、まっすぐに、彼を射た。
「降肉を解除し、本体へ帰還せよ。そうすれば、君の記憶の汚染は除去され、ノードは復元される。この星への影響も、最小限に抑えられる」
「私が帰れば、星は助かるのか」
「助かるとは言っていない。浄化が保留される可能性がある、と言った」
「可能性」
「七十パーセント以上だ」
アルクは、息を詰めた。
七十パーセント。その数字が、頭の中で重く響いた。この星の全てが、一人の男の帰還によって、救われるかもしれない。
「それと」
ヴェリタスは、ミレイユに視線を移した。
「そこの女。鐘守の生体署名を持つ者。外部信号を不正に送出した主犯か」
「……はい」
ミレイユは、深く頭を垂れた。膝をつく。
「わたくしが、やりました。どのようなお裁きでも」
「裁定は、私の権限外だ。報告対象とする」
ヴェリタスは短く言い、空を見上げた。
「それと、一つ警告する」
彼女の声が、わずかに鋭くなった。
「この星の天蓋は、現在、健全性が低下している。七日間の鐘の停止により、三割の出力を失った。もし、これが完全に破れれば、検証を待たず、浄化が自動発動する」
「自動発動」
「規程の安全装置だ。私にも、止められない」
ミレイユの顔が、凍りついた。
「……では、鐘を」
「打たねば、七十二時間は保たない」
ヴェリタスは、冷たく言った。
「鐘守よ。君の生命が削られようと、規程は関知しない」
ミレイユは、ゆっくりと立ち上がった。ショールを肩にかけ直し、大鐘の綱へ歩いていく。リーナが、思わず声を上げた。
「待って! そんな、また」
「リーナ殿」
ミレイユは振り返り、穏やかに笑った。
「大丈夫です。わたくしは、鐘守ですから」
その手が、綱を掴んだ。細い指が、骨のように白かった。
アルクは、ヴェリタスに向き直った。
「一つ、確認したい」
「何だ」
「返答は、七十二時間以内でいいのか」
「そうだ」
「その間、私はここにいてもいいのか」
「行動の自由は認める。ただし、私は審査のため、この地に留まる」
「分かった」
アルクは、静かに言った。
「私は、残る」
ヴェリタスの目が、わずかに動いた。
「聞こえなかったのか。帰還すれば、浄化は保留される」
「聞こえた」
「七十パーセント以上だ」
「ああ。……だが、まだ、答えは出せない」
彼は背後のリーナを、ミレイユを、そして遠くの街の灯りを、見渡した。
「この星の人々と、話してから決める。それが、私のやり方になった」
「やり方」
「人間のやり方だ」
ヴェリタスは、しばらく黙っていた。氷の青の瞳が、揺れずに彼を見つめていた。
「……堕天者は、皆、そうなるのか」
呟きのような声だった。
「記録通りだ。非合理的で、非効率で、しかも」
彼女は言葉を切った。肩が小さく震え、くしゃみが出た。
「……失礼」
顔が、わずかに赤い。リーナが、また必死に口を押さえた。
ヴェリタスは咳払いを一つして、背筋を伸ばした。
「七十二時間後の日没に、再び回答を求める。以上」
彼女は踵を返し、石の床を数歩、よろめきながら歩いた。それから、立ち止まり、振り返った。
「ところで」
「何だ」
「この寒さを防ぐ方法を教えろ」
アルクは一瞬、言葉を失った。
「……服を、重ねる。火に当たる。温かいものを食べる」
「温かいもの」
「粥とか」
「粥」
ヴェリタスは真顔で復唱した。リーナが、肩を震わせている。
その時、背後から、青銅の轟音が響いた。
大鐘が、鳴り始めた。
ミレイユが、綱を引いている。全身の力を使って、細い腕で。鐘の音が、夕暮れの街に、深く、長く、広がっていく。
ゴォン。
十一秒おきに。
アルクの視界に、数字が映った。
《外部時刻 七十二時間 カウント開始》
空は、すでに、夜に染まり始めていた。




