第11話 ミレイユの告白
屋上には、夕焼けがあった。
円形の石の床が広がり、胸壁の向こうに、ヴェルトリアの屋根が赤く染まっている。中央には、大聖堂の巨大な鐘が、青銅の梁に吊られていた。人の背丈の二倍はある。その傍らに、古い望遠鏡が据えられ、白い法衣の女性が、その脇に立っていた。
「お待ちしておりました」
ミレイユは、振り向かずに言った。
肩に灰色のショールがある。首の鐘の飾りが、夕陽に光っていた。
「ここへ来られると、分かっておりました。……管理核を、ご覧になったのですね」
「はい」
アルクが答えると、彼女は静かに頷いた。
「お話ししましょう。全てを」
その前に、リーナが一歩、前へ出た。
拳を握り、唇を震わせている。栗色の髪が風に乱れ、青い肩掛けが翻った。
「……あなたが」
絞り出すような声だった。
「あなたが、母さんの鐘を使って。毎日、毎日、母さんたちが苦しむのを、知っていて」
「ええ」
「何千回も。呼びかけて。外の誰かを」
「ええ」
ミレイユは、ゆっくりと振り返った。
夕日が、その顔を照らした。灰色の瞳は、深く澄んで、逃げる色を持っていなかった。
「わたくしが、やりました」
リーナの拳が、跳ね上がった。
乾いた音が、屋上に響いた。
平手が、ミレイユの頬を打っていた。
大司教の顔が、わずかに横を向く。唇の端が切れ、血が滲んだ。しかし、彼女は動かなかった。
「もう一度、どうぞ」
静かな声だった。
「いくらでも」
リーナの手が、震えた。もう一度、振り上げられる。しかし、振り下ろされなかった。手は宙で止まり、やがて、力なく落ちた。
「……なんで」
彼女の目から、涙がこぼれた。
「なんで、そんな顔で言うの。言い訳してよ。怒鳴り返してよ。そうしたら、私は」
「言い訳は、ありません」
ミレイユは、頬の血を指で拭った。その指が、細かく震えていた。
「あなたのお母様は、セレナは」
彼女は、一度、目を閉じた。
「わたくしの、一番の友でした」
リーナの息が止まった。
アルクも、思わず目を見開いた。
「第七期の鐘守は、七人でした」
ミレイユは、遠くの空を見つめて話し始めた。
「二十五年前。わたくしは二十歳でした。セレナと、同じ日に、手を挙げたのです。『二人で、一緒に空を守ろう』と。……あの頃は、本当に、誇らしかった」
声は、乾いた風のようだった。
「七人は、同じ部屋で眠り、同じ鐘を打ちました。冬の夜、毛布を分け合って、笑いました。セレナは、歌がうまかった。あなたに歌っていた、あの子守唄は、あの頃から、彼女が歌っていたものです」
リーナの目から、新しい涙が溢れた。
「やがて、咳が出始めました。一人、また一人。……セレナは、早くに鐘を降りて、故郷の村へ戻りました。わたくしは、残りました。教会の階段を登り、司祭となり、司教となり。五年前に、大司教の座に就きました」
「五年前」
「ええ。そのとき、初めて、原典庫の全てを読みました」
ミレイユは、胸元の鐘の飾りに触れた。
「天蓋は、保たないと知りました。鐘守の祈りでは、足りない。千年かけて、蓋は少しずつ弱っていた。……わたくしの代で、終わると」
「だから、呼んだ」
アルクが言った。
「はい」
「外の、誰かを」
「ええ」
ミレイユは、アルクを見た。
「聖者イオンは、天から降りた方でした。蓋を張り、この星を守ってくださった。……ならば、もう一人、天から降りてくる方が、いるかもしれない。同じように、わたくしたちを救ってくださるかもしれない」
「それは、賭けだ」
「ええ。最低の賭けです」
彼女は微笑んだ。悲しい微笑みだった。
「呼べば、浄化が来るかもしれないことも、知っていました。外の神々が、蓋の破れた星を見つければ、焼くかもしれない。……それでも、呼びました。蓋が自然に落ちれば、確実に全てが消える。呼べば、少なくとも、わずかな希望がある」
「五年間」
「千八百二十六日。毎日、二度。鐘の音に、祈りを乗せて」
ミレイユは、首を横に振った。
「応答はありませんでした。それでも続けました。そして半年前、わたくしは気づきました。蓋の破れる日が、近いと。……もう、時間がない、と」
「それで、天啓の夜を」
「前倒しました。最大の力で、一度に呼ぶために。鐘守たちの祈りを、ほぼ全て、呼びかけに回しました。蓋が一時、破れる危険も、承知の上で」
リーナが、かすれた声で言った。
「母さんたちの、命を削って」
「はい」
「それが、どれだけ、苦しいか、知ってて」
「知っていました」
ミレイユの声は、一音も揺れなかった。
「わたくしも、同じだからです」
彼女は、ショールの端を、静かに外した。
露わになった腕は、驚くほど細かった。骨に皮が張りつき、血管が浮いている。指先は、微かに、絶え間なく震えていた。
アルクの視界に、数字が映った。
《ミレイユ・アウレリア 周囲濃度:五パーセント》
「第七期は、七人」
リーナが、呆然と呟いた。
「母さんと、五人が亡くなって、……最後の一人は」
「ええ。わたくしです」
彼女は、淡々と言った。
「記録を塗り潰したのは、わたくしです。大司教が枯れ病に冒されていると知れれば、民が動揺します。鐘守たちの志願が絶えます。……だから、消しました。原典庫の頁も、切り取りました。呼びかけの記録を、誰にも見せないために」
「それで、あなたは」
「毎日、鐘を打っています。わたくしの手で。この大聖堂の、大鐘を」
彼女は、頭上の巨大な鐘を見上げた。
「この七日間、止めました。ガルド・ヴァイン殿の弔いのために。そして、わたくし自身の身体を、休ませるために。……蓋は、三割、弱りました」
「三割」
「ええ。今夜から、また打たねばなりません」
アルクは、静かに口を開いた。
「一つ、聞かせてほしい」
「どうぞ」
「飛竜が眠っていたことを、知っていましたか」
ミレイユの顔が、凍りついた。
「結界の網が、あの魔物と同じ制御系に繋がっていることは知っていました。ですが、……竜がいることは、知りませんでした」
彼女の唇が、震えた。
「知っていれば、あなたに結界の修復を頼まなかった。……ガルド・ヴァイン殿を死なせたのは、わたくしでもあります」
屋上の風が、止まった。
アルクは、長い間、黙っていた。
胸の中に、熱があった。怒りだった。呼ばれ、使われ、その結果としてガルドが死んだ。それを、目の前の女は、静かに認めている。
けれど、同時に、見えていた。
震える腕。切れた唇。五パーセントの数字。そして、友を失い続けた二十五年。
「ミレイユ」
彼は初めて、敬称をつけずに呼んだ。
「あなたの罪は、あなたのものだ」
「はい」
「そして、私の罪は、私のものだ」
ミレイユが、目を見開いた。
「ガルドが死んだのは、私が三秒、動けなかったからだ。結界を一括で書き換えたのも、私だ。あなたが頼んだとしても、選んだのは私だった」
「アルク殿」
「だから、赦さない。……あなたも、私も」
彼は一歩、前へ出た。
「ただ、聞いた。全てを。そして、背負う。あなたの分も、私の分も」
ミレイユの目から、静かに涙がこぼれた。
「……ありがとう、ございます」
「礼ではない」
「ええ。でも」
彼女は、顔を伏せた。肩が、小刻みに震えている。
リーナが、そっと近づいた。
泣き腫らした目で、ミレイユを見上げる。唇を、強く噛んでいる。やがて、ゆっくりと、口を開いた。
「母さんは、あなたのことを、どんなふうに言ってたと思う」
「え」
「一度だけ、言ってた。『私の友達は、きっと偉くなる』って。『でも、あの子は、一人で背負いすぎるから』って」
ミレイユの息が、止まった。
その顔が、ゆっくりと崩れていく。両手で口を覆い、膝をついた。嗚咽が、喉の奥から漏れた。
「セレナ……」
夕陽が、沈みかけていた。
屋上の影が、長く伸びる。ミレイユは涙を拭い、よろめきながら立ち上がった。そして、大鐘の傍へ歩き出した。
「時間です」
「ミレイユ」
「日没です。鐘を、打たねばなりません」
彼女は、鐘の綱に手を伸ばした。
その指が、綱を掴んだ。細い腕が、ぶるぶると震えている。
リーナが、その手を掴んだ。
「待って」
「リーナ殿」
「待ってください」
彼女は涙で濡れた顔を上げた。
「まだ、全部、聞いてない。鐘を打つのは、その後でもいいでしょう」
「しかし、」
「お願い」
ミレイユは、困ったように目を揺らした。それから、綱から指を、ゆっくりと離した。
その瞬間だった。
アルクのHUDが、激しく点滅した。
《上位ノード 照会信号:極大》
《接近:降下開始》
空が、変わった。
夕焼けの赤が、一瞬で、白く染まる。北の空に、巨大な光の柱が出現した。雲を貫き、まっすぐに、この大聖堂の屋上へ向かって降りてくる。
「あれは……」
リーナが、息を呑んだ。
ミレイユの顔が、青ざめた。
「来た」
その声は、囁きに近かった。
「とうとう、……来てしまった」
光が、降りてくる。




