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堕天のアルケー  作者: 山本田38ページ
第3章 迷宮
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第10話 帰路と怒り

 扉の外は、夜明けだった。


 斜面に開いた口から這い出したとき、東の空が、薄い灰色に変わり始めていた。冷たい朝の空気が、肺に染みる。リーナが先に立って深呼吸をし、膝に手をついて、長く息を吐いた。


「……外だ」


「ああ」


 アルクは振り返った。灰の口は、背後でゆっくりと閉じていく。重い石の擦れる音が止むと、刻印の光は消え、ただの苔むした灰色の壁に戻った。低音も、もう聞こえなかった。


 森の小道を下り、アシュフェンの柵が見えたとき、門の前に二つの影が立っていた。


 ヨルグと、ユリウスだった。


「戻ったか」


 ヨルグは、一言だけ言った。頬の傷痕の下で、目が、ほんの少し緩んだ。


「三日後に探しに行くと言ったが、まだ一日と少しだ。……早かったな」


「ああ。思ったより」


「怪我をしている」


「大したことはない」


 ヨルグは疑わしげに眉を寄せたが、それ以上は言わなかった。代わりに、背嚢の肩ひもを直し、リーナにも一度だけ頷いた。


「無事で、よかった」


 その短い言葉が、胸に沁みた。


「アルク殿!」


 ユリウスが、駆け寄ってきた。法衣の裾に泥がついている。一晩中、門の前で待っていたのだろう。


「ご無事で。何か、見つけられましたか。迷宮では」


 アルクは、一瞬だけ、口を開きかけた。


 ユリウスは、ミレイユに仕える司祭補だ。真摯な目をしている。この若者が、猊下の意思を知らずにいるのか、知っているのか、分からなかった。


「猊下に、直接お話しします」


「猊下に?」


「はい。ここでは、申し上げられません」


 ユリウスは、何かを察したように、唇を結んだ。


「……分かりました。では、馬車を。夜通し駆ければ、明後日の夕方には着きます」


 馬車は、すぐに出た。


 揺れる車輪の音が、規則正しく響く。窓の外を、森と丘が流れていく。リーナは向かいの席で、肩掛けに顔を埋めていた。眠っているのか、いないのか、分からなかった。


 日が傾き、夜になった。


 ユリウスは御者台に座り、護衛の騎士が馬に跨って先を行く。車内は、アルクとリーナの二人だけになった。灯りは、天井に吊られた小さな角灯がひとつ。


「ねえ、アルク」


 闇の中で、リーナが言った。


「あなたは、怒ってないの」


 アルクは、窓の外を見ていた。


「怒っている」


「え」


「胸が、熱い。ずっと」


 彼は、掌を胸に当てた。


「初めてだ。こういう感情は」


 数万年生きた。無数の星を観測し、滅びと再生を見てきた。感情は、バグとして淘汰された。怒りなど、とうに忘れたと思っていた。


「呼ばれて、使われて、そのせいで、ガルドが死んだ。セレナが、苦しんだ。……私は、利用された」


 拳が、膝の上で握られた。


「許せない、と思う。猊下を、掴んで、問い詰めたい。何をしたのか、分かっているのかと。……怒鳴りたい」


「じゃあ、そうすれば」


「できない」


 アルクは顔を上げた。


「なぜ」


「ガルドが、見ていたら、叱る」


 リーナが、目を瞬いた。


「叱る?」


「ああ。『まず、聞け』と」


 沈黙のあと、リーナが、ふっと笑った。


「ガルドさん、言いそう」


「言うだろう」


「それで、酒を一杯、飲ませるの」


「ああ。そして、話させる。……相手が、勝手に話し始めるまで」


「ずるい人だなあ」


 リーナの笑い声が、小さく車内に響いた。


 それは、迷宮を出てから、初めて聞く笑いだった。アルクもまた、思わず口の端が緩んだ。


「あなた、ガルドさんの真似、うまくなってきたね」


「そうか」


「顔が、似てきた」


「やめてくれ」


 二人は、しばらく、笑っていた。笑いながら、泣きそうになっていた。


 やがて、リーナが目元を拭って、窓の外を見た。


「私ね、猊下に会ったら、泣いちゃう気がする」


「泣いてもいい」


「怒鳴るかもしれない」


「それも、いい」


「でも、最後には、聞くよ」


「ああ」


「約束する」


 彼女は、指を一本立てた。アルクは、その指を、自分の人差し指で、そっと触れた。


 夜は、静かに更けていった。


 翌日の昼、馬車は川沿いの継ぎ場で馬を替えた。アルクは井戸の水で顔を洗い、傷の包帯を替えた。リーナは、硬いパンを少しだけ齧り、また馬車に戻った。


 日が暮れ、二日目の夜が訪れた。


 車窓から、星が見えた。


 雲の切れ間に、無数の光が瞬いている。アルクは、その中の一つを、じっと見つめた。


 ――違和感があった。


 遮蔽区画を出てから、頭の奥で、微かなざわめきが続いていた。最初は疲れのせいだと思っていた。だが、それは、時間とともに、強くなっていた。


 HUDの隅に、文字が浮かぶ。


 《上位ノード 照会信号:再受信》


 《強度:上昇中》


 《宛先:アルケー-704》


 《応答を要求。応答なし》


 背筋が、凍った。


 近づいている。何かが。


 そのとき、北の空に、一本の細い光が走った。


 星々の間を、すっと、引かれた線。北から南へ。ごく細く、音もなく、数秒で消えた。流れ星のようで、そうではなかった。軌跡が直線的すぎる。まるで、誰かが、定規で線を引いたように。


「……今の、見た?」


 リーナが、窓に額を寄せていた。


「流れ星……?」


「いや」


 アルクは、窓から目を離さなかった。


 リーナが森で見たと語った、あの光の筋と、同じだった。この星に降りた夜の、彼自身の軌跡と。


 ――誰かが、降りてくる。


 直感が、言った。


「リーナ」


「なに」


「急ごう」


 彼は御者窓を叩いた。


「ユリウス殿。できるだけ、速く」


「分かりました!」


 鞭の音が響き、馬が駆けた。


 翌日の夕暮れ、馬車はヴェルトリアの正門をくぐった。


 街は、静まり返っていた。服喪の最後の日。店は閉まり、窓の黒布が風に揺れている。鐘楼は沈黙を保ち、黄昏の空に、黒い影として立っていた。


 夜になれば、鐘が鳴る。


 七日の服喪が明けるのは、今夜の日没だった。


 馬車を降り、アルクとリーナは大聖堂へ向かった。石段の前で、ユリウスが足を止める。


「私は、ここで。……猊下は、屋上におられるはずです」


「ありがとう」


「どうか、猊下を」


 ユリウスは言いかけて、口を閉じた。若い目が、一瞬だけ潤んでいた。


 アルクは、頷いた。


 重い扉を押し開け、大聖堂の中へ入る。


 薄暗い回廊の奥に、黒い影が立っていた。


 ダミアンだった。


 黒い法衣に、燭台を一つ持ち、石の柱の前で待ち受けている。細い目が、二人を静かに見据えていた。


「お戻りになりましたか」


「ダミアン司教」


「猊下は、どなたにもお会いになりません」


 男は、静かに言った。


「お引き取りを」


「会う」


 アルクは前へ出た。


「迷宮で、見てきた。天蓋の管理核で。外部への信号送出の記録を」


 ダミアンの顔が、微かに強張った。


「あれは、猊下の認証だった。……そして、原典庫の最新の巻の頁を切ったのも」


「それは、」


「確かめに来た。ただ、聞きに来ただけだ」


 アルクは、静かに言った。


「通してほしい」


 沈黙が、長く続いた。蝋燭の火が、ダミアンの頬を照らす。細い目が、ゆっくりと伏せられた。


「……屋上です」


 男は、背を向けた。


「階段を、上がってください。私は、ここに残ります」


「ダミアン」


「猊下を、……どうか」


 その声は、掠れていた。


 アルクとリーナは、顔を見合わせた。そして、螺旋階段を登り始めた。


 一段ごとに、風の音が近づく。夕暮れの空の匂いが、石の隙間から降りてくる。


 やがて、最上段の扉の前に、辿り着いた。


 リーナが、息を吸った。アルクは、彼女の手を握った。


 扉を、押し開けた。


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