第10話 帰路と怒り
扉の外は、夜明けだった。
斜面に開いた口から這い出したとき、東の空が、薄い灰色に変わり始めていた。冷たい朝の空気が、肺に染みる。リーナが先に立って深呼吸をし、膝に手をついて、長く息を吐いた。
「……外だ」
「ああ」
アルクは振り返った。灰の口は、背後でゆっくりと閉じていく。重い石の擦れる音が止むと、刻印の光は消え、ただの苔むした灰色の壁に戻った。低音も、もう聞こえなかった。
森の小道を下り、アシュフェンの柵が見えたとき、門の前に二つの影が立っていた。
ヨルグと、ユリウスだった。
「戻ったか」
ヨルグは、一言だけ言った。頬の傷痕の下で、目が、ほんの少し緩んだ。
「三日後に探しに行くと言ったが、まだ一日と少しだ。……早かったな」
「ああ。思ったより」
「怪我をしている」
「大したことはない」
ヨルグは疑わしげに眉を寄せたが、それ以上は言わなかった。代わりに、背嚢の肩ひもを直し、リーナにも一度だけ頷いた。
「無事で、よかった」
その短い言葉が、胸に沁みた。
「アルク殿!」
ユリウスが、駆け寄ってきた。法衣の裾に泥がついている。一晩中、門の前で待っていたのだろう。
「ご無事で。何か、見つけられましたか。迷宮では」
アルクは、一瞬だけ、口を開きかけた。
ユリウスは、ミレイユに仕える司祭補だ。真摯な目をしている。この若者が、猊下の意思を知らずにいるのか、知っているのか、分からなかった。
「猊下に、直接お話しします」
「猊下に?」
「はい。ここでは、申し上げられません」
ユリウスは、何かを察したように、唇を結んだ。
「……分かりました。では、馬車を。夜通し駆ければ、明後日の夕方には着きます」
馬車は、すぐに出た。
揺れる車輪の音が、規則正しく響く。窓の外を、森と丘が流れていく。リーナは向かいの席で、肩掛けに顔を埋めていた。眠っているのか、いないのか、分からなかった。
日が傾き、夜になった。
ユリウスは御者台に座り、護衛の騎士が馬に跨って先を行く。車内は、アルクとリーナの二人だけになった。灯りは、天井に吊られた小さな角灯がひとつ。
「ねえ、アルク」
闇の中で、リーナが言った。
「あなたは、怒ってないの」
アルクは、窓の外を見ていた。
「怒っている」
「え」
「胸が、熱い。ずっと」
彼は、掌を胸に当てた。
「初めてだ。こういう感情は」
数万年生きた。無数の星を観測し、滅びと再生を見てきた。感情は、バグとして淘汰された。怒りなど、とうに忘れたと思っていた。
「呼ばれて、使われて、そのせいで、ガルドが死んだ。セレナが、苦しんだ。……私は、利用された」
拳が、膝の上で握られた。
「許せない、と思う。猊下を、掴んで、問い詰めたい。何をしたのか、分かっているのかと。……怒鳴りたい」
「じゃあ、そうすれば」
「できない」
アルクは顔を上げた。
「なぜ」
「ガルドが、見ていたら、叱る」
リーナが、目を瞬いた。
「叱る?」
「ああ。『まず、聞け』と」
沈黙のあと、リーナが、ふっと笑った。
「ガルドさん、言いそう」
「言うだろう」
「それで、酒を一杯、飲ませるの」
「ああ。そして、話させる。……相手が、勝手に話し始めるまで」
「ずるい人だなあ」
リーナの笑い声が、小さく車内に響いた。
それは、迷宮を出てから、初めて聞く笑いだった。アルクもまた、思わず口の端が緩んだ。
「あなた、ガルドさんの真似、うまくなってきたね」
「そうか」
「顔が、似てきた」
「やめてくれ」
二人は、しばらく、笑っていた。笑いながら、泣きそうになっていた。
やがて、リーナが目元を拭って、窓の外を見た。
「私ね、猊下に会ったら、泣いちゃう気がする」
「泣いてもいい」
「怒鳴るかもしれない」
「それも、いい」
「でも、最後には、聞くよ」
「ああ」
「約束する」
彼女は、指を一本立てた。アルクは、その指を、自分の人差し指で、そっと触れた。
夜は、静かに更けていった。
翌日の昼、馬車は川沿いの継ぎ場で馬を替えた。アルクは井戸の水で顔を洗い、傷の包帯を替えた。リーナは、硬いパンを少しだけ齧り、また馬車に戻った。
日が暮れ、二日目の夜が訪れた。
車窓から、星が見えた。
雲の切れ間に、無数の光が瞬いている。アルクは、その中の一つを、じっと見つめた。
――違和感があった。
遮蔽区画を出てから、頭の奥で、微かなざわめきが続いていた。最初は疲れのせいだと思っていた。だが、それは、時間とともに、強くなっていた。
HUDの隅に、文字が浮かぶ。
《上位ノード 照会信号:再受信》
《強度:上昇中》
《宛先:アルケー-704》
《応答を要求。応答なし》
背筋が、凍った。
近づいている。何かが。
そのとき、北の空に、一本の細い光が走った。
星々の間を、すっと、引かれた線。北から南へ。ごく細く、音もなく、数秒で消えた。流れ星のようで、そうではなかった。軌跡が直線的すぎる。まるで、誰かが、定規で線を引いたように。
「……今の、見た?」
リーナが、窓に額を寄せていた。
「流れ星……?」
「いや」
アルクは、窓から目を離さなかった。
リーナが森で見たと語った、あの光の筋と、同じだった。この星に降りた夜の、彼自身の軌跡と。
――誰かが、降りてくる。
直感が、言った。
「リーナ」
「なに」
「急ごう」
彼は御者窓を叩いた。
「ユリウス殿。できるだけ、速く」
「分かりました!」
鞭の音が響き、馬が駆けた。
翌日の夕暮れ、馬車はヴェルトリアの正門をくぐった。
街は、静まり返っていた。服喪の最後の日。店は閉まり、窓の黒布が風に揺れている。鐘楼は沈黙を保ち、黄昏の空に、黒い影として立っていた。
夜になれば、鐘が鳴る。
七日の服喪が明けるのは、今夜の日没だった。
馬車を降り、アルクとリーナは大聖堂へ向かった。石段の前で、ユリウスが足を止める。
「私は、ここで。……猊下は、屋上におられるはずです」
「ありがとう」
「どうか、猊下を」
ユリウスは言いかけて、口を閉じた。若い目が、一瞬だけ潤んでいた。
アルクは、頷いた。
重い扉を押し開け、大聖堂の中へ入る。
薄暗い回廊の奥に、黒い影が立っていた。
ダミアンだった。
黒い法衣に、燭台を一つ持ち、石の柱の前で待ち受けている。細い目が、二人を静かに見据えていた。
「お戻りになりましたか」
「ダミアン司教」
「猊下は、どなたにもお会いになりません」
男は、静かに言った。
「お引き取りを」
「会う」
アルクは前へ出た。
「迷宮で、見てきた。天蓋の管理核で。外部への信号送出の記録を」
ダミアンの顔が、微かに強張った。
「あれは、猊下の認証だった。……そして、原典庫の最新の巻の頁を切ったのも」
「それは、」
「確かめに来た。ただ、聞きに来ただけだ」
アルクは、静かに言った。
「通してほしい」
沈黙が、長く続いた。蝋燭の火が、ダミアンの頬を照らす。細い目が、ゆっくりと伏せられた。
「……屋上です」
男は、背を向けた。
「階段を、上がってください。私は、ここに残ります」
「ダミアン」
「猊下を、……どうか」
その声は、掠れていた。
アルクとリーナは、顔を見合わせた。そして、螺旋階段を登り始めた。
一段ごとに、風の音が近づく。夕暮れの空の匂いが、石の隙間から降りてくる。
やがて、最上段の扉の前に、辿り着いた。
リーナが、息を吸った。アルクは、彼女の手を握った。
扉を、押し開けた。




