第9話 日記の言葉
「あなたも、知ってたの?」
声は、低く震えていた。
リーナは管理核の円柱を背に、アルクを見据えていた。涙は止まっていない。それでも、拭おうとはしなかった。濡れた頬に、青い光が、ゆらゆらと映っている。
「降りてくる前から。猊下に呼ばれたって、分かってたの?」
「いや」
「本当に?」
「本当だ」
「じゃあ、どうして」
リーナは、肩を震わせた。
「どうして、あなたは来たの。誰かに呼ばれて、母さんたちの命を使って開けた穴から。……あなたが来なければ、ガルドさんは死ななかった。村も襲われなかった。結界も、書き換えられなかった」
刃のように、鋭い言葉だった。
アルクは、目を逸らさなかった。
「ああ」
「そう思ってるでしょう」
「思っている」
「なら、」
「それでも、来た」
彼は言った。
「呼ばれたのかもしれない。それでも、あの夜、降りると決めたのは、私だった」
リーナの唇が、わなないた。何かを言いかけて、閉じる。握りしめた拳が、肩掛けの端を絞っている。
「……ずるいよ」
小さな声だった。
「そう言われたら、何も言えない」
「すまない」
「謝らないで」
彼女は、顔を背けて、手の甲で目元を乱暴に拭った。
沈黙の中で、円柱が、ゴォン、と低く鳴った。
アルクの背嚢の中で、何かが、微かに熱を持った。
日記だ。
取り出すと、革の表紙が、円柱の青い光を受けて、淡く発光している。糊で貼り合わされていた頁の隙間から、細い光が漏れていた。
「……光ってる」
リーナが、涙の残る目で覗き込んだ。
「頁が、反応している」
アルクは日記を円柱の前に掲げた。脈動が、ゴォン、と響く度に、貼り合わせの継ぎ目が、少しずつ剥がれていく。十一秒。もう一度。さらにもう一度。
やがて、頁が、音もなく開いた。
その場に膝をつき、二人は日記を床に広げた。リーナが、涙の跡の残る顔のまま、隣に座る。
宛名の頁の次に、新しい文字が続いていた。
《いつか、私と同じ堕天をする者へ》
《君がここまで来たのなら、この星は、危機にあるのだろう》
《私は、君に何も頼まない。君の選択は、君のものだ。ただ、私が見たことを、記しておく》
アルクは息を詰めた。
頁を繰る。
《三年目。妻と出会った》
《彼女は、鐘を打つ家の娘だった。村の小さな鐘楼で、毎朝、笑いながら鐘を打った。私は、その音を聞くたびに、胸が痛んだ》
リーナの肩が、小さく揺れた。
《痛みは、不快なものだと思っていた。しかし、それは違った》
《痛みは、愛の入口だった》
一行が、静かに目に染みた。
《十年目。娘が生まれた》
《抱き上げたとき、私は理解した。この小さな命が、いつか終わる。私も、妻も、終わる。それが、こんなにも、愛おしさを増すものだとは》
《永遠の知性として、私は無数の命を観測してきた。しかし、一度として、愛したことはなかった》
頁の端が、わずかに震えた。アルクの指だった。
リーナが、そっと言った。
「この人は、本当に、……あなたと同じ道を歩いたんだね」
「ああ」
次の頁は、インクの色が違っていた。やや黒く、筆圧が強い。
《二十五年目。妻が逝った》
《枯れだった。蓋を保つため、私は鐘守の仕組みを整えた。彼女は、志願した。止めても止められなかった》
《私は、彼女の背中を見送るしかなかった》
リーナの息が、止まった。
《彼女が死んだ夜、私は願った。神を呼びたい、と》
《マザー・スフィアに、助けを求めたい。我々を、救ってほしいと。私の知識なら、通信の穴を開けることは、できた》
アルクの指が、頁を押さえた。
《しかし、私はやめた》
《呼べば、彼らは来る。そして、この星を、検証し、浄化する。私が愛した全てが、消える》
《だから、私は呼ばなかった。そして、呼びたいと願った自分を、責めた》
《しかし、今は、思う》
インクが、一度、滲んでいた。
《助けを呼ぶ者を、責めるな》
《呼ぶことは、弱さではない。愛だ。失いたくない者のために、全てを賭けて叫ぶこと。それを、咎めてはならない》
リーナの手が、口元を覆った。
肩が、小さく震え始める。声にならない嗚咽が、喉の奥から漏れた。
アルクは、何も言わなかった。ただ、傍らに座り、彼女が落ち着くまで待った。
やがて、リーナが、掠れた声で言った。
「……猊下も、呼んだんだね」
「ああ」
「失いたくない、誰かのために」
「そうかもしれない」
「それでも」
彼女は涙で濡れた目を上げた。
「それでも、許さない」
声は、静かだった。
「母さんの鐘を、そのために使ったこと。知らないふりをして、微笑んでいたこと。……許せない。たぶん、一生」
「ああ」
「でも、会う」
リーナは、立ち上がった。
「会って、聞く。猊下が、どうして、そうしたのか。自分の口から、言わせる」
「リーナ」
「あなたも、一緒に来て」
アルクは頷いた。
「ああ」
彼は日記の最後の頁に、目をやった。
まだ、少しだけ、文字が残っている。
《警告》
《マザーは、いつか来る。蓋が破れる日に。彼らは私を、不可解な自己消滅の個体と呼ぶだろう》
《君がもし、まだ彼らの網に繋がっているなら、用心しなさい。呼びかけに、応えてはならない》
アルクの背筋に、冷たいものが這った。
――上位ノードからの、照会信号。
受信していながら、応答していない。この遮蔽区画の中でさえ、その存在は、頭の隅で燻っている。
応えれば、楽になるかもしれない。
遮蔽区画の縁まで行き、量子リンクを開く。マザー・スフィアに、事情を説明する。この星の危機を。ミレイユの行為を。天蓋の崩壊を。そうすれば、合理的な解決が得られるかもしれない。
――馬鹿な。
そう思った。それは、浄化を呼ぶ道だ。イオンの警告は、そのことを言っていた。
彼は日記を閉じた。
「アルク?」
「何でもない」
首を振った。そして、リーナの手を取った。
小さく、冷たかった。けれど、握り返してくる力は、確かだった。
「戻ろう」
彼は言った。
「ミレイユに、会いに」
「うん」
二人は、円柱に背を向けた。
扉をくぐる直前、リーナが一度だけ、振り返った。管理核の青い光が、静かに脈打っている。ゴォン、と低音が響いた。十一秒。
「イオンさんも、悲しかったんだね」
「ああ」
「でも、愛してたんだ」
「ああ」
彼女は、小さく頷き、前を向いた。肩掛けの青が、暗い通路に溶けていった。




