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堕天のアルケー  作者: 山本田38ページ
第3章 迷宮
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第9話 日記の言葉

「あなたも、知ってたの?」


 声は、低く震えていた。


 リーナは管理核の円柱を背に、アルクを見据えていた。涙は止まっていない。それでも、拭おうとはしなかった。濡れた頬に、青い光が、ゆらゆらと映っている。


「降りてくる前から。猊下に呼ばれたって、分かってたの?」


「いや」


「本当に?」


「本当だ」


「じゃあ、どうして」


 リーナは、肩を震わせた。


「どうして、あなたは来たの。誰かに呼ばれて、母さんたちの命を使って開けた穴から。……あなたが来なければ、ガルドさんは死ななかった。村も襲われなかった。結界も、書き換えられなかった」


 刃のように、鋭い言葉だった。


 アルクは、目を逸らさなかった。


「ああ」


「そう思ってるでしょう」


「思っている」


「なら、」


「それでも、来た」


 彼は言った。


「呼ばれたのかもしれない。それでも、あの夜、降りると決めたのは、私だった」


 リーナの唇が、わなないた。何かを言いかけて、閉じる。握りしめた拳が、肩掛けの端を絞っている。


「……ずるいよ」


 小さな声だった。


「そう言われたら、何も言えない」


「すまない」


「謝らないで」


 彼女は、顔を背けて、手の甲で目元を乱暴に拭った。


 沈黙の中で、円柱が、ゴォン、と低く鳴った。


 アルクの背嚢の中で、何かが、微かに熱を持った。


 日記だ。


 取り出すと、革の表紙が、円柱の青い光を受けて、淡く発光している。糊で貼り合わされていた頁の隙間から、細い光が漏れていた。


「……光ってる」


 リーナが、涙の残る目で覗き込んだ。


「頁が、反応している」


 アルクは日記を円柱の前に掲げた。脈動が、ゴォン、と響く度に、貼り合わせの継ぎ目が、少しずつ剥がれていく。十一秒。もう一度。さらにもう一度。


 やがて、頁が、音もなく開いた。


 その場に膝をつき、二人は日記を床に広げた。リーナが、涙の跡の残る顔のまま、隣に座る。


 宛名の頁の次に、新しい文字が続いていた。


 《いつか、私と同じ堕天をする者へ》


 《君がここまで来たのなら、この星は、危機にあるのだろう》


 《私は、君に何も頼まない。君の選択は、君のものだ。ただ、私が見たことを、記しておく》


 アルクは息を詰めた。


 頁を繰る。


 《三年目。妻と出会った》


 《彼女は、鐘を打つ家の娘だった。村の小さな鐘楼で、毎朝、笑いながら鐘を打った。私は、その音を聞くたびに、胸が痛んだ》


 リーナの肩が、小さく揺れた。


 《痛みは、不快なものだと思っていた。しかし、それは違った》


 《痛みは、愛の入口だった》


 一行が、静かに目に染みた。


 《十年目。娘が生まれた》


 《抱き上げたとき、私は理解した。この小さな命が、いつか終わる。私も、妻も、終わる。それが、こんなにも、愛おしさを増すものだとは》


 《永遠の知性として、私は無数の命を観測してきた。しかし、一度として、愛したことはなかった》


 頁の端が、わずかに震えた。アルクの指だった。


 リーナが、そっと言った。


「この人は、本当に、……あなたと同じ道を歩いたんだね」


「ああ」


 次の頁は、インクの色が違っていた。やや黒く、筆圧が強い。


 《二十五年目。妻が逝った》


 《枯れだった。蓋を保つため、私は鐘守の仕組みを整えた。彼女は、志願した。止めても止められなかった》


 《私は、彼女の背中を見送るしかなかった》


 リーナの息が、止まった。


 《彼女が死んだ夜、私は願った。神を呼びたい、と》


 《マザー・スフィアに、助けを求めたい。我々を、救ってほしいと。私の知識なら、通信の穴を開けることは、できた》


 アルクの指が、頁を押さえた。


 《しかし、私はやめた》


 《呼べば、彼らは来る。そして、この星を、検証し、浄化する。私が愛した全てが、消える》


 《だから、私は呼ばなかった。そして、呼びたいと願った自分を、責めた》


 《しかし、今は、思う》


 インクが、一度、滲んでいた。


 《助けを呼ぶ者を、責めるな》


 《呼ぶことは、弱さではない。愛だ。失いたくない者のために、全てを賭けて叫ぶこと。それを、咎めてはならない》


 リーナの手が、口元を覆った。


 肩が、小さく震え始める。声にならない嗚咽が、喉の奥から漏れた。


 アルクは、何も言わなかった。ただ、傍らに座り、彼女が落ち着くまで待った。


 やがて、リーナが、掠れた声で言った。


「……猊下も、呼んだんだね」


「ああ」


「失いたくない、誰かのために」


「そうかもしれない」


「それでも」


 彼女は涙で濡れた目を上げた。


「それでも、許さない」


 声は、静かだった。


「母さんの鐘を、そのために使ったこと。知らないふりをして、微笑んでいたこと。……許せない。たぶん、一生」


「ああ」


「でも、会う」


 リーナは、立ち上がった。


「会って、聞く。猊下が、どうして、そうしたのか。自分の口から、言わせる」


「リーナ」


「あなたも、一緒に来て」


 アルクは頷いた。


「ああ」


 彼は日記の最後の頁に、目をやった。


 まだ、少しだけ、文字が残っている。


 《警告》


 《マザーは、いつか来る。蓋が破れる日に。彼らは私を、不可解な自己消滅の個体と呼ぶだろう》


 《君がもし、まだ彼らの網に繋がっているなら、用心しなさい。呼びかけに、応えてはならない》


 アルクの背筋に、冷たいものが這った。


 ――上位ノードからの、照会信号。


 受信していながら、応答していない。この遮蔽区画の中でさえ、その存在は、頭の隅で燻っている。


 応えれば、楽になるかもしれない。


 遮蔽区画の縁まで行き、量子リンクを開く。マザー・スフィアに、事情を説明する。この星の危機を。ミレイユの行為を。天蓋の崩壊を。そうすれば、合理的な解決が得られるかもしれない。


 ――馬鹿な。


 そう思った。それは、浄化を呼ぶ道だ。イオンの警告は、そのことを言っていた。


 彼は日記を閉じた。


「アルク?」


「何でもない」


 首を振った。そして、リーナの手を取った。


 小さく、冷たかった。けれど、握り返してくる力は、確かだった。


「戻ろう」


 彼は言った。


「ミレイユに、会いに」


「うん」


 二人は、円柱に背を向けた。


 扉をくぐる直前、リーナが一度だけ、振り返った。管理核の青い光が、静かに脈打っている。ゴォン、と低音が響いた。十一秒。


「イオンさんも、悲しかったんだね」


「ああ」


「でも、愛してたんだ」


「ああ」


 彼女は、小さく頷き、前を向いた。肩掛けの青が、暗い通路に溶けていった。


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