第8話 管理核
宛名の頁には、短い文が、三行だけ書かれていた。
《いつか、私と同じ堕天をする者へ》
《この先は、管理核の前でお読みなさい》
《鍵の歌を知る誰かが、共にいることを願う》
それ以降の頁は、糊で貼り合わされていた。指でなぞっても、剥がれない。何かの仕掛けか、イオンの意志か。
「……ここから先は、扉の向こう、ってこと?」
「そうらしい」
アルクは日記を畳み、革の背嚢に収めた。リーナは卓の傍で、人形をそっと撫でていた。木彫りの少女は、彼女の掌の中で、何千年もの時間をいっぺんに返されたように見えた。
「持っていく?」
「いや。ここに置いていこう。……必要なら、また戻ってくればいい」
彼女は頷き、人形を枕元に戻した。
部屋の奥に、もう一つの扉があった。居住区の入口と同じ木の扉だが、取っ手は金属で、表面に細い線が刻まれていた。
開けると、下へ続く螺旋階段があった。
二人は無言で、段を降りた。一段ごとに、空気が冷たく、静かになっていく。壁の灯りは、青白い光の帯に戻っていた。足音が、遠く、深く反響する。
底に着いたとき、アルクは立ち止まった。
――信号が、消えた。
受動の解析にも、何も引っかからない。軌道との待機波も、遠くの通信の揺らぎも。耳の奥に、澄んだ静寂だけがあった。
「どうしたの?」
「ここは、遮蔽されている」
アルクは、HUDの端に表示された数字を見た。
《外部信号漏洩:零》
「外には、何も漏れない。ここにいる限り、軌道からも、見つからない」
「……安全な場所ってこと?」
「ある意味では」
彼は階段の先にある扉を見上げた。
それは今までの扉より、さらに大きかった。黒い金属の板に、青い線が幾重にも走っている。中央に、小さな窪みがひとつ。リーナの掌に、ちょうど収まるくらいの。
「また、歌?」
「最後の一句だけらしい。他の句は、もう、通ってきたから」
アルクは、リーナの顔を見た。
彼女はまだ蒼白だった。唇の端に、乾いた血の跡が残っている。濃度は十一。ここで歌えば、さらに下がるだろう。
「やめようか」
「ううん」
リーナは、首を振った。
「大丈夫。短いなら。……一句だけだから」
「無理は」
「無理じゃない。……これが最後の鍵なんでしょう?」
彼女は窪みに掌を押し当てた。冷たい金属に、細い指が触れる。
息を吸った。
最後の旋律を、静かに歌った。
短い句だった。十一秒。静けさの中に、リーナの声が、澄んで響いた。最後の音を、レイと、長く伸ばす。
扉が、音もなく開いた。
リーナの身体が、ふらりと傾いた。アルクが受け止める。濃度は、八。
「……ごめん、また、ちょっと」
「謝るな」
「頑張ったでしょう?」
「ああ。頑張った」
彼女は力なく笑い、アルクの腕に寄りかかった。
扉の向こうに、広大な空洞があった。
円形の広間。天井は、見上げるほど高い。壁は滑らかな黒で、無数の細い青い線が、血管のように走っている。中央に、巨大な柱がそびえていた。透明な結晶でできた、直径数メートルの円柱。その内部で、淡い光が、ゆっくりと脈打っている。
十一秒に一度。
ゴォン、と、地の底から低音が響いた。扉の外で聞こえていたのと同じ音だ。ここが、その源だった。
「これが、……管理核」
リーナが、息を呑んだ。
円柱の周囲に、環状の台が巡っていた。石でも金属でもない素材の表面に、小さな光の窓が、いくつも浮かんでいる。アルクは、そこへ近づいた。
読む。
古い言葉が、HUDの受動処理で、少しずつ意味に変わっていく。
《天蓋 出力状況》
円グラフのような図が、光の窓に浮かぶ。大半が、灰色の空白だった。その中に、細い帯が、ところどころに点滅している。
《自律供給:不足。外部給電:鐘塔経由、四百十二基》
アルクは、リーナの言葉を思い出した。各地の鐘塔。アシュフェンの、小さな鐘楼。それが、四百十二基。
《外部給電 供給者:鐘守。生体回路経由》
《蓋の健全性:四十一パーセント》
《予測 崩壊まで:十八か月》
数字が、淡々と並んでいた。十八か月。それが、この星の寿命だった。
「……天蓋が、持たない」
アルクは声に出した。
「あと、一年半しかない。鐘守の祈りだけでは、支えきれなくなっている」
「じゃあ、母さんたちは」
「ああ。蓋を保つために、枯れ続けている。……だが、それでも足りない」
リーナは唇を噛んだ。
別の窓を開く。
《防衛ユニット 起動ログ》
狼、番犬、飛竜。全てが、この施設の防衛ユニットだった。休眠状態から目覚めた日付と時刻が、並んでいる。
《侵入者プロトコル:発動》
《起因:高エネルギー体、大気圏突入》
アルクの降下時刻と、ぴたりと一致していた。第一層の戦いも、飛竜も、村の襲撃も、この記録の一行から始まっていた。
――わかっていたことだ。
そう思った。けれど、続く行が、彼の目を止めた。
《侵入経路:天蓋の裂け目(外部信号送出に起因)》
裂け目。
それは、降下の直前、彼が観測空白域の端で捉えた、微弱な重力歪みと結界の綻びのことだった。
偶然、だと思っていた。
《裂け目の生成 原因:外部信号送出》
指が、冷たくなった。
「アルク?」
リーナが覗き込む。アルクは答えず、次の窓を開いた。
《外部信号送出 履歴》
長い一覧が、光の窓に流れ出した。
日付と、時刻。何千行もある。最初の行は、五年前。それ以降、毎日。正午と夕刻。鐘の音に合わせて。
《送出内容:呼びかけ(識別不能)》
《宛先:天蓋外 全方位》
《結果:応答なし》
《試行回数:三千六百五十二》
リーナの声が、掠れた。
「三千六百五十二回……」
「五年間、毎日、二度ずつ」
「誰かが、外に向かって、呼びかけてたの?」
「ああ」
アルクは、最後の行までスクロールした。
《外部信号送出:大規模》
《日付:天啓の夜》
《給電転用率:九割》
《結果:天蓋に裂け目生成。外部から応答》
息が、止まった。
天啓の夜に、鐘守の祈りの九割が、蓋への給電ではなく、外への呼びかけに回された。そのせいで、蓋が破れた。裂け目から、彼は降りてきた。
――呼ばれたのだ。
その確信が、背筋を這い上がった。
鐘の周期と、軌道からの待機波が一致していたのも。降下の夜が半年前から指定されていたのも。観測空白域に、偶然、裂け目が開いたのも。
全て、一人の意思から出ていた。
「送出の認証者は」
アルクは呟き、最後の窓を開いた。
光の文字が、浮かび上がった。
《送出権限:天蓋の鍵 保有者》
《認証:鐘守 生体署名》
《認証名:ミレイユ・アウレリア》
静寂が、広間を満たした。
円柱の脈動が、十一秒に一度、低く響く。
リーナの身体が、小さく震え始めた。
「……猊下が?」
囁くような声だった。
「猊下が、あなたを、呼んだの?」
アルクは、答えられなかった。
ミレイユの灰色の瞳が、頭に浮かんだ。「長らく、お待ち申しておりました」。鐘の飾りを握る指。震える肩。窓辺で空に祈る背中。
全てが、一つに繋がった。
リーナは、唇を震わせて、円柱を見上げた。
「鐘守の、署名……」
彼女は、掠れた声で呟いた。
「猊下は、母さんが鐘で苦しむのを、知ってたんだよね。毎日、同じ鐘で、……その力で、あなたを呼んでたってこと?」
「そう、なる」
涙が、ゆっくりと溢れてくる。
怒りなのか、悲しみなのか、アルクには分からなかった。ただ、彼女の手が、強く、強く、彼の袖を握りしめていた。




