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堕天のアルケー  作者: 山本田38ページ
第3章 迷宮
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第8話 管理核

 宛名の頁には、短い文が、三行だけ書かれていた。


 《いつか、私と同じ堕天をする者へ》


 《この先は、管理核の前でお読みなさい》


 《鍵の歌を知る誰かが、共にいることを願う》


 それ以降の頁は、糊で貼り合わされていた。指でなぞっても、剥がれない。何かの仕掛けか、イオンの意志か。


「……ここから先は、扉の向こう、ってこと?」


「そうらしい」


 アルクは日記を畳み、革の背嚢に収めた。リーナは卓の傍で、人形をそっと撫でていた。木彫りの少女は、彼女の掌の中で、何千年もの時間をいっぺんに返されたように見えた。


「持っていく?」


「いや。ここに置いていこう。……必要なら、また戻ってくればいい」


 彼女は頷き、人形を枕元に戻した。


 部屋の奥に、もう一つの扉があった。居住区の入口と同じ木の扉だが、取っ手は金属で、表面に細い線が刻まれていた。


 開けると、下へ続く螺旋階段があった。


 二人は無言で、段を降りた。一段ごとに、空気が冷たく、静かになっていく。壁の灯りは、青白い光の帯に戻っていた。足音が、遠く、深く反響する。


 底に着いたとき、アルクは立ち止まった。


 ――信号が、消えた。


 受動の解析にも、何も引っかからない。軌道との待機波も、遠くの通信の揺らぎも。耳の奥に、澄んだ静寂だけがあった。


「どうしたの?」


「ここは、遮蔽されている」


 アルクは、HUDの端に表示された数字を見た。


 《外部信号漏洩:零》


「外には、何も漏れない。ここにいる限り、軌道からも、見つからない」


「……安全な場所ってこと?」


「ある意味では」


 彼は階段の先にある扉を見上げた。


 それは今までの扉より、さらに大きかった。黒い金属の板に、青い線が幾重にも走っている。中央に、小さな窪みがひとつ。リーナの掌に、ちょうど収まるくらいの。


「また、歌?」


「最後の一句だけらしい。他の句は、もう、通ってきたから」


 アルクは、リーナの顔を見た。


 彼女はまだ蒼白だった。唇の端に、乾いた血の跡が残っている。濃度は十一。ここで歌えば、さらに下がるだろう。


「やめようか」


「ううん」


 リーナは、首を振った。


「大丈夫。短いなら。……一句だけだから」


「無理は」


「無理じゃない。……これが最後の鍵なんでしょう?」


 彼女は窪みに掌を押し当てた。冷たい金属に、細い指が触れる。


 息を吸った。


 最後の旋律を、静かに歌った。


 短い句だった。十一秒。静けさの中に、リーナの声が、澄んで響いた。最後の音を、レイと、長く伸ばす。


 扉が、音もなく開いた。


 リーナの身体が、ふらりと傾いた。アルクが受け止める。濃度は、八。


「……ごめん、また、ちょっと」


「謝るな」


「頑張ったでしょう?」


「ああ。頑張った」


 彼女は力なく笑い、アルクの腕に寄りかかった。


 扉の向こうに、広大な空洞があった。


 円形の広間。天井は、見上げるほど高い。壁は滑らかな黒で、無数の細い青い線が、血管のように走っている。中央に、巨大な柱がそびえていた。透明な結晶でできた、直径数メートルの円柱。その内部で、淡い光が、ゆっくりと脈打っている。


 十一秒に一度。


 ゴォン、と、地の底から低音が響いた。扉の外で聞こえていたのと同じ音だ。ここが、その源だった。


「これが、……管理核」


 リーナが、息を呑んだ。


 円柱の周囲に、環状の台が巡っていた。石でも金属でもない素材の表面に、小さな光の窓が、いくつも浮かんでいる。アルクは、そこへ近づいた。


 読む。


 古い言葉が、HUDの受動処理で、少しずつ意味に変わっていく。


 《天蓋 出力状況》


 円グラフのような図が、光の窓に浮かぶ。大半が、灰色の空白だった。その中に、細い帯が、ところどころに点滅している。


 《自律供給:不足。外部給電:鐘塔経由、四百十二基》


 アルクは、リーナの言葉を思い出した。各地の鐘塔。アシュフェンの、小さな鐘楼。それが、四百十二基。


 《外部給電 供給者:鐘守。生体回路経由》


 《蓋の健全性:四十一パーセント》


 《予測 崩壊まで:十八か月》


 数字が、淡々と並んでいた。十八か月。それが、この星の寿命だった。


「……天蓋が、持たない」


 アルクは声に出した。


「あと、一年半しかない。鐘守の祈りだけでは、支えきれなくなっている」


「じゃあ、母さんたちは」


「ああ。蓋を保つために、枯れ続けている。……だが、それでも足りない」


 リーナは唇を噛んだ。


 別の窓を開く。


 《防衛ユニット 起動ログ》


 狼、番犬、飛竜。全てが、この施設の防衛ユニットだった。休眠状態から目覚めた日付と時刻が、並んでいる。


 《侵入者プロトコル:発動》


 《起因:高エネルギー体、大気圏突入》


 アルクの降下時刻と、ぴたりと一致していた。第一層の戦いも、飛竜も、村の襲撃も、この記録の一行から始まっていた。


 ――わかっていたことだ。


 そう思った。けれど、続く行が、彼の目を止めた。


 《侵入経路:天蓋の裂け目(外部信号送出に起因)》


 裂け目。


 それは、降下の直前、彼が観測空白域の端で捉えた、微弱な重力歪みと結界の綻びのことだった。


 偶然、だと思っていた。


 《裂け目の生成 原因:外部信号送出》


 指が、冷たくなった。


「アルク?」


 リーナが覗き込む。アルクは答えず、次の窓を開いた。


 《外部信号送出 履歴》


 長い一覧が、光の窓に流れ出した。


 日付と、時刻。何千行もある。最初の行は、五年前。それ以降、毎日。正午と夕刻。鐘の音に合わせて。


 《送出内容:呼びかけ(識別不能)》


 《宛先:天蓋外 全方位》


 《結果:応答なし》


 《試行回数:三千六百五十二》


 リーナの声が、掠れた。


「三千六百五十二回……」


「五年間、毎日、二度ずつ」


「誰かが、外に向かって、呼びかけてたの?」


「ああ」


 アルクは、最後の行までスクロールした。


 《外部信号送出:大規模》


 《日付:天啓の夜》


 《給電転用率:九割》


 《結果:天蓋に裂け目生成。外部から応答》


 息が、止まった。


 天啓の夜に、鐘守の祈りの九割が、蓋への給電ではなく、外への呼びかけに回された。そのせいで、蓋が破れた。裂け目から、彼は降りてきた。


 ――呼ばれたのだ。


 その確信が、背筋を這い上がった。


 鐘の周期と、軌道からの待機波が一致していたのも。降下の夜が半年前から指定されていたのも。観測空白域に、偶然、裂け目が開いたのも。


 全て、一人の意思から出ていた。


「送出の認証者は」


 アルクは呟き、最後の窓を開いた。


 光の文字が、浮かび上がった。


 《送出権限:天蓋の鍵 保有者》


 《認証:鐘守 生体署名》


 《認証名:ミレイユ・アウレリア》


 静寂が、広間を満たした。


 円柱の脈動が、十一秒に一度、低く響く。


 リーナの身体が、小さく震え始めた。


「……猊下が?」


 囁くような声だった。


「猊下が、あなたを、呼んだの?」


 アルクは、答えられなかった。


 ミレイユの灰色の瞳が、頭に浮かんだ。「長らく、お待ち申しておりました」。鐘の飾りを握る指。震える肩。窓辺で空に祈る背中。


 全てが、一つに繋がった。


 リーナは、唇を震わせて、円柱を見上げた。


「鐘守の、署名……」


 彼女は、掠れた声で呟いた。


「猊下は、母さんが鐘で苦しむのを、知ってたんだよね。毎日、同じ鐘で、……その力で、あなたを呼んでたってこと?」


「そう、なる」


 涙が、ゆっくりと溢れてくる。

 怒りなのか、悲しみなのか、アルクには分からなかった。ただ、彼女の手が、強く、強く、彼の袖を握りしめていた。


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