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堕天のアルケー  作者: 山本田38ページ
第3章 迷宮
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第7話 第二層

 階段を下りきると、暖かい色の光があった。


 青白い光の帯ではなかった。壁の窪みに据えられた、小さな橙の灯りが、アルクとリーナの足音に応えるように、ひとつ、またひとつと点っていく。長い通路の先に、木の扉があった。


 金属でも、石でもない。木だ。丁寧に削られ、取っ手には真鍮の輪がつけられている。


「ここだけ、違う……」


 リーナが、息を詰めて呟いた。


 アルクは扉に手をかけた。鍵は、掛かっていなかった。軽く押すと、乾いた蝶番の軋みとともに、ゆっくり開いた。


 小さな部屋があった。


 中央に丸い卓。椅子が二脚。壁際に簡素な寝台と、本棚。隅に石組みの炉があり、鉄の鍋が掛けられている。窓はなかったが、天井から柔らかい光が降りていて、まるで夕暮れの部屋のようだった。


 空気が、止まっていた。


 埃が積もり、紙の匂いが濃い。それでも、傷んではいなかった。時間が、ここだけ、ゆっくり流れていたような。


「誰かの、家だ」


 アルクは言った。


「何千年も前の」


 リーナが、そっと床に膝をついた。足から力が抜けたのだ。顔色は、まだ悪い。濃度は十一のまま、動かない。


「リーナ。ここで、少し休もう」


「でも、時間が」


「分かっている。だが、君が倒れては、意味がない」


 彼は寝台の端に彼女を座らせ、背嚢からパンの包みを取り出した。ピップが焼いたものだ。まだ、ほんのりと、温もりが残っているような気がした。


「食べろ」


「アルクも」


「ああ。半分ずつだ」


 二人は黙ってパンを割り、口に入れた。素朴な麦の味が、疲れた身体に染み込んだ。リーナの肩から、ゆっくりと、力が抜けていく。


「……おいしい」


「ああ」


「ピップ、頑張って焼いたんだろうね。形、ちょっと歪んでる」


 小さく笑って、彼女は目を閉じた。


 アルクは傷の手当てを自分で済ませた。脇腹の傷は、思ったより浅かった。肩の裂傷には、布を重ねて縛った。それが終わる頃には、リーナの呼吸が、規則的なものに変わっていた。


 眠っている。


 彼は、静かに立ち上がった。


 部屋の中を、ゆっくりと歩く。壁際の本棚には、革で綴じた薄い冊子が数冊、並んでいた。卓の上に、二つのカップ。陶器の縁が欠けている。その中に、乾いた茶の滓が、黒く固まって残っていた。


 二つ。


 誰かと、二人で飲んでいた。


 視線を巡らせると、寝台の枕元に、小さな木彫りの人形があった。長い髪を持つ、素朴な少女の像。指先で触ると、表面がつるりと磨り減っている。何度も何度も、小さな手で握られた跡だ。


 子供の玩具。


 アルクは息を吸った。


 イオンは、ここで、家族を持っていた。


 炉の脇の小さな棚には、乾いた草が瓶に挿されていた。細い銀色の茎。彼は近づいて、目を凝らした。


 銀露草だった。


 褪せた色で、ぱりぱりに乾いている。それでも、確かに、あの薬草の形をしていた。瓶の傍には、小さな布袋がいくつも並び、それぞれに刺繍の印がついている。袋の口を開くと、中には、細かな種が入っていた。


 アルクは、それを掌に載せた。


 このひと粒が、アシュフェンの森の岩陰に、銀の葉を茂らせたのだろうか。リーナが夜明けの露を探して集め、母のために煎じた、あの草が。


 卓の中央に、一冊の冊子が置かれていた。


 革の表紙は擦り切れ、紐で綴じられている。他の冊子より、明らかに、読み込まれていた。


 アルクは手を伸ばしかけて、止まった。


 リーナの寝息が、静かに部屋を満たしている。


 ――彼女が起きてから、一緒に読もう。


 そう決めた。隠さずに、共有する。村で学んだことを、ここでも続けるべきだった。


 けれど、頁の隙間に挟まった、乾いた何かが、目に入った。


 摘まみ上げた。それは、押し花だった。銀露草の一輪。茎がなめらかに折り畳まれ、紙のように平たくなっている。


 そして、冊子の表紙に、小さな文字が書かれていた。


 《イオン・十二》


 アルクの指が、凍りついた。


 それは、識別名だった。数万年前の、旧い言葉。〈イオン-12〉。マザー・スフィアの、ノード番号。


 ――同じ、場所から来た。


 彼の中の何かが、小さく鳴った。


 どれくらい、立ち尽くしていただろう。気づくと、背後で、衣擦れの音がした。


「……アルク?」


 リーナが、寝台から身を起こしていた。目をこすり、卓の上の冊子に気づく。


「それ、もしかして」


「ああ。先駆者の、日記だ」


「読んだ?」


「まだだ。君が起きるのを、待っていた」


 リーナは、目を瞬いた。それから、静かに微笑んだ。


「ありがとう」


 彼女は寝台から降り、卓の傍に歩み寄った。二人は並んで椅子に座った。蝋燭のような柔らかな灯りが、擦り切れた革の表紙を照らす。


 アルクは、そっと頁を開いた。


 古い言葉が、HUDの受動処理で、現地の言葉に変わっていく。最初の頁に、短い文があった。


 《降りて三十日目》


 《足の指が、凍える。これが寒さだと知識では知っていた。知識と実感の間には、なぜこれほどの隔たりがあるのか》


 アルクは、息を止めた。


 リーナが、横から覗き込んでいる。


 《パンを焼く女が、私に一切れ分けてくれた。礼を言うと、笑った。私はその笑顔の意味を解析しようとして、失敗した。解析の外側に、何かがある》


 《胸のあたりが、熱い。生体ノイズだ、と判断した。しかし、判断の後も、熱は消えなかった》


 喉の奥が、詰まった。


「アルク」


 リーナの声が、柔らかかった。


「これ、あなたの話みたい」


「……ああ」


「ううん」


 彼女は首を振った。


「同じ人なんだね。きっと」


 頁を繰る。


 次の頁。インクの色が、わずかに濃くなっている。


 《一年目。私の知識は、半分も使い物にならない》


 《それでも、この星の人間たちは、私を受け入れた。何も持たない旅人として》


 《私は、彼らを観察する目的で降りた。しかし、気づけば、観察ではなく、暮らしていた》


 アルクは、ページの端を、そっと押さえた。


 ここに、数千年前の自分がいる。同じ場所から来て、同じ寒さに凍え、同じ温もりに戸惑った男が。


 その先の頁に、短い一文があった。


 《娘が眠らない。毎晩、歌をせがむ》


 リーナが、顔を上げた。


「娘……」


 《私は、旋律を作った。眠りの歌として。しかし、本当の目的は別にある》


 《あの扉の鍵を、この旋律に隠した》


 リーナの手が、口元を覆った。


「あの歌……」


 《私が去った後も、誰かが辿り着けるように。娘の娘に、そのまた娘に、歌い継がれるように。意味を忘れても構わない。ただ、歌い継げ》


 アルクは、頁の上に落ちた小さな文字を、一つずつ辿った。


 鍵は、歌に隠された。子守唄は、遠い父が、娘に遺した最後の贈り物だった。それを、セレナは、リーナに歌った。


 何千年もの、歌い継ぎの果てに、今日、扉は開いたのだ。


「……母さんは、知らなかったんだね」


 リーナの声が、震えていた。


「ただ、子守唄を歌ってただけで」


「ああ」


「でも、ちゃんと、届いてた」


 涙が、頬を伝った。彼女は慌てて袖で拭った。


「ごめん、止まらない」


「いい」


 アルクは、ただ隣にいた。


 やがて、リーナが鼻をすすり、頁の端に指をかけた。


「次、読もう」


「ああ」


 頁を繰った。


 そこに、見慣れない宛名が書かれていた。インクが少し滲んだ、丁寧な文字。


 《いつか、私と同じ堕天をする者へ》


 アルクの指が、止まった。


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