第6話 第一層
最初に見えたのは、広さだった。
開いた扉の奥は、巨大な空洞だった。天井は遥か高く、肋骨のような梁が弧を描いている。壁も床も、苔に覆われた灰色の何か。石ではない。継ぎ目のない、滑らかな素材。壁の高い位置を走る細い光の帯が、冷たい青白さで、空間をぼんやりと照らしていた。
その中央に、大きな穴が口を開けていた。
幅は十メートルほど。縁は欠け、錆びた金属の格子が、半ば崩れてぶら下がっている。底は見えない。風が下から吹き上がり、湿った鉄の匂いを運んでくる。
穴の向こう側から、三つの影が近づいてきた。
狼より小さい。体高は人の腰ほどで、四本の脚が細い。琥珀色ではなく、赤い目をしていた。脇腹の装甲板は黒く、継ぎ目が青白く光っている。かち、かち、かち、と関節が鳴り、十一秒ごとに、三体が同時に止まる。
防衛区の番犬、とアルクは解析した。侵入者の排除に特化した小型の自律兵器。狼や飛竜と同じ制御系の末端。
受動の解析は、すぐに結論を出した。
――停止命令は、通る。
十一秒の門が開くたび、一語で三体まとめて止められる。それは、あまりに簡単だった。
舌の上に、《停止》が乗った。
アルクは、それを飲み込んだ。
「……使わない」
小さく呟いた。
腰のナイフを抜く。ヨルグがくれた、パンを切るための刃。刃渡りは、掌より少し長いだけ。背嚢から縄の束を取り出し、手首に巻く。
三体が、穴の縁を回り込んでくる。
アルクは息を吐き、ゆっくりと、全体を眺めた。
三体の肩。関節の動き。足の指先。ガルドの声が、耳の奥に蘇った。
――見ようとするな。感じろ。
計算は、止めた。
十一秒の静止が来た。三体が、一斉に止まる。
今だ、と身体が言った。
アルクは走った。穴の縁に沿って、右の壁際へ。柱が一本、立っている。錆びた鉄の円柱。縄の端を柱に結ぶ。もう片方の端を握って、床を這うように低く、反対側の柱まで引く。
かち、と音がした。三体が、動き出す。
縄は、床からわずか膝の高さに張られていた。
先頭の一体が、脚を踏み出す。縄に、細い脚の関節が、引っかかった。
金属が軋み、一体が、前のめりに傾いた。
倒れる。そう思った瞬間、残りの二体が左右に散った。一体は縄を跳び越え、もう一体は柱の反対側へ回り込む。
「……読まれたか」
縄を引っ張る。倒れた一体の脚は絡んだが、完全には封じられていない。三体の赤い目が、アルクに向いた。
かち、かち、かち。
跳びかかってきた一体の爪が、肩をかすめた。外套が裂け、熱い痛みが走る。ナイフで関節を狙う。刃が装甲に弾かれ、手首に衝撃が返る。
もう一体が、脇腹に噛みついた。
「くっ」
牙が、肋骨の下に食い込んだ。血の匂いが立つ。身体を捻って振りほどき、背後の柱に背中を預ける。
息が上がる。足が重い。三体が、ゆっくりと、距離を詰めてくる。
力を使えば、終わる。
その考えが、何度も頭を叩いた。一語で、三体まとめて止まる。血も止まる。リーナも守れる。
――手で、助けろ。
ガルドの声が、再び聞こえた。
「……二」
かすれた声が、遠くから響いた。
アルクは目を見開いた。岩陰から、リーナが身を起こしていた。顔は蒼白で、鼻と唇に血の跡が乾いている。それでも、目は、まっすぐ前を向いていた。
「二、三……アルク、次の停止まで、あと、……五」
彼女が数えていた。
かつて、アルクが彼女に教えた通り。十一秒の周期。三体が止まる、その一瞬の隙。
「三」
「四」
アルクの身体が、自然に動いた。
三体が、止まる。
リーナの声が、鋭く叫んだ。
「今!」
アルクは床を蹴った。穴の縁に沿って、一直線に。左端の一体の脇に回り込む。細い脚の関節に、縄を巻きつける。もう一体の脚にも。力を込めて、引く。
「引いて! もう少し!」
リーナの声が響く。数え続けている。「八、九」
アルクは縄を引きながら、穴の縁に背中を向けた。三体の脚が縄に絡み、じりじりと引きずられる。
「十!」
三体が再び動き出す直前、アルクは縄を放した。同時に、力を込めて、一番近い一体を蹴り飛ばした。
鉄の身体が、縁を越えた。
二体目、三体目も、縄に足を取られたまま、重心を崩す。細い脚が空を掻き、金属の悲鳴が上がる。
三体は、穴の中へ、落ちていった。
長い、長い落下の音が続いた。やがて、遥か下で、鈍い衝撃が響いた。
静寂が戻った。
アルクは膝をついた。肩と脇腹が、燃えるように痛い。ナイフを握った指が、離れない。それでも、立っている。
「……やった」
背後で、リーナがへたり込んだ。
「やったね、アルク」
「君が、数えてくれたから」
「でも、倒したのはあなたよ」
彼女は笑った。血のついた顔で。
アルクは、脇腹の傷を押さえながら、這うようにして彼女の傍へ戻った。差し出された手を握る。小さく、冷たかった。けれど、確かに温かかった。
「怪我、見せて」
「大したことは」
「見せて」
リーナは背嚢から布を取り出し、慣れた手つきで傷を縛った。銀露草の残りを、噛んで押し当てる。苦い匂いが立った。
「ひどいことになってる。……力を使えば、治るんじゃないの」
「使わない」
「頑固だね」
「ああ」
「でも」
彼女は、少し俯いて、言った。
「ガルドさんに、何か言われてたんでしょう。戦うとき、いつもと違う顔してたもの」
「……『手で助けろ』と、言われた。力ではなく、普通の人間と同じ手で、と」
「いい言葉だね」
アルクは、苦笑した。
「ガルドは、……こういうとき、きっと、何も言わずに頷いたと思う」
「うん。そうだね」
リーナも、小さく笑った。
「じゃあ、私たちも、頷いておこうよ」
二人は、顔を見合わせて、頷いた。
それから、広間の奥を見渡した。穴の向こう側の壁に、半ば崩れた階段が見える。下へ続く、細い石段。その先に、淡い光が揺れていた。
「行こう」
「うん」
リーナは立ち上がろうとして、ふらついた。アルクが肩を貸す。二人は互いを支えながら、ゆっくりと、穴の縁を回った。
階段の入口で、アルクは一度だけ振り返った。
扉の向こう、森の木々の合間から、薄い午後の光が射していた。外の世界が、遠く、小さく見える。
彼は前を向き、階段を下り始めた。




