↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
堕天のアルケー  作者: 山本田38ページ
第3章 迷宮
PR
29/48

第5話 灰の口

 刻印の線は、呼吸していた。


 アルクは扉の三歩手前に立ち、手を出さずに見つめていた。灰色の表面に彫られた幾何学の線が、青く明滅している。明るくなる。暗くなる。その周期は、地底から響く低音と、寸分違わず重なっていた。


 十一秒。


 受動の解析だけを走らせた。扉に触れず、信号も送らない。ただ、そこから漏れる光と音を読む。


 《錠:音声認証。形式:旋律》


 眉が動いた。


 命令語でも、周波数配列でもない。旋律。一定の高低と長さで編まれた、歌の形をした鍵だ。村の詠唱が、線の読み上げだったように、この扉は、節回しを要求している。


「アルク、開けられそう?」


 背後で、リーナが小声で言った。


「開けられる」


「え」


「だが、使わない」


 アルクは扉から視線を外さなかった。


「ルート権限なら、旋律の認証など無視して、一語で解錠できる。ただ、それは露出を生む。それに」


 言葉が、少し詰まった。


「誓った。何かを動かす前に、考える、と」


 リーナは小さく頷いた。


「じゃあ、普通に開ける方法を、探さなきゃ」


「ああ。……この旋律を知っている者が、いれば」


 その言葉を口にしたとき、アルクの頭の中で、何かが、小さく鳴った。


 旋律。節回し。十一秒の周期。


 耳に残っている。ずっと前から。炉の前で、粥の湯気の中で、寝台の枕元で。


「リーナ」


「なに」


「君の母が、歌っていた歌を、覚えているか」


 リーナは目を瞬いた。


「子守唄? 灰の森の子守唄のこと?」


「そうだ」


「覚えてる。……小さい頃、毎晩聞いてた。意味は、よく分からないけど」


「歌ってみてくれないか」


「ここで?」


「頼む」


 リーナは戸惑いながら、口を開いた。


 声が、静かな森に落ちた。細く、高く、柔らかい。母の歌い方に似ていた。意味の取れない古い言葉が、ゆっくりと節に乗って流れていく。


 アルクは目を閉じて聞いた。


 一小節。二小節。区切りの度に、音が上がり、また下がる。そして、一つの句の長さが、ちょうど十一秒だった。


 扉の線が、変わった。


 青い光が、強くなった。線が、歌の節に合わせて、波打っている。低音が、わずかに震えた。


「リーナ、止めて」


 歌が止まった。光が、ゆっくり元に戻った。


「……今の、見た?」


「見た」


 リーナが、息を呑んだ。


「扉が、反応した」


「これが、鍵だ。この旋律が」


 アルクは確信した。


 子守唄は、鐘守たちが代々伝えてきた、古い言葉の一部だった。意味を失った、ただの歌として。けれど、その中に、扉を開く鍵が隠されていた。


「母さんは、知っていたの?」


「分からない。多分、歌の意味は、知らなかったと思う。ただ、受け継いだ」


 リーナは、唇を噛んだ。それから、顔を上げた。


「私が歌う」


「リーナ」


「あなたは、使わないって決めた。それなら、これは私の役目でしょう」


「危険だ。この扉が要求する出力は、普通の詠唱より、はるかに大きい。君の回路は、すでに」


 言いかけて、やめた。


 リーナの目は、静かだった。


「知ってる」


 彼女は言った。


「前に、灯りを成功させたとき、あなたは言ったよね。『使うほど負担がかかる』って。……母さんみたいに、枯れちゃうかもしれないって」


「ああ」


「私、考えたの。ずっと」


 彼女は母の肩掛けの端を、強く握りしめた。


「母さんは、自分で手を挙げた。誰かを守りたくて。……私も、同じことをしたい。母さんの歌で、母さんの病気の始まりに、行きたい」


「リーナ」


「お願い。歌わせて」


 声が、少し震えた。


「母さんの歌だもの」


 アルクは、長い間、黙っていた。


 止めたかった。全身が、止めろと叫んでいた。彼女の回路が枯れていくのを、見たくなかった。濃度が下がる数字を、もう二度と見たくなかった。


 けれど、止める権利が、自分にあるのか。


 ガルドは言った。助けられる力があるなら、助けたくなる。それが怖い、と。


 ――彼女の選択を、奪うことは、助けではない。


「分かった」


 アルクは、リーナの前に立った。


「歌ってくれ。……ただし、手を握る」


「え」


「何もできない。だが、倒れたら、支える。それだけだ」


 リーナは目を丸くして、それから、小さく笑った。


「うん」


 差し出された手を、アルクは両手で包んだ。小さく、冷たい手だった。


 リーナは息を吸った。


 歌い始めた。


 最初の句は、細かった。声が震え、音程が揺れる。それでも、旋律は流れた。十一秒。扉の線が、波打ち、光を増す。


 第二句。声が、少し強くなる。


 第三句。リーナの額に、汗が滲んだ。


 アルクのHUDに、数字が映った。リーナの周囲の濃度。三十一パーセントから、二十八、二十五、二十二。


 まだ、落ちる。


「リーナ」


「……歌わせて」


 彼女は目を閉じたまま言った。歌の合間の、細い息だった。


 第四句。第五句。数字が、十八になった。十五。


 鼻から、赤い筋が一本、垂れた。リーナの足が、ふらついた。アルクは握る手に力を込めた。支えた。それしかできなかった。


 第六句。扉の光が、激しく脈打つ。地面が、震え始めた。刻印の線が、一本ずつ、扉の中心へと収束していく。


 第七句。リーナの声が、掠れた。ほとんど、息だけになった。


「あと、少し」


 アルクは言った。


「あと、一句だ」


 第八句。最後の旋律。


 リーナは、息を吸い込んだ。そして、涙をこぼしながら、最後の音を、長く伸ばした。


 ――レイ。


 声が、途切れた。


 世界が、止まった。


 扉の線が、一斉に消えた。低音が、止んだ。静寂が、森を満たした。


 やがて、重い石の擦れる音が、地の底から響いた。


 灰色の扉が、真ん中から、ゆっくりと開いていく。


 内側から、冷たい空気が流れ出した。古い金属と、湿った石と、乾いた何かの匂い。暗闇が、斜面の奥に口を開けた。


 リーナの膝が、崩れた。


 アルクは彼女を抱きとめた。腕の中の身体は、驚くほど軽かった。濃度の数字が、十一と表示されている。


「リーナ」


「……開いた?」


「開いた」


「そっか」


 彼女は、血のついた唇で、笑った。


「母さんの歌、……すごいね」


「ああ。すごい」


「よかった」


 その言葉の直後、リーナの頭が、アルクの肩に傾いた。気を失ってはいない。ただ、疲れ果てて、力が抜けたのだ。


 アルクは、彼女の背を撫でながら、開いた扉の奥を見た。


 闇の向こうに、赤い光が、一つ、灯った。


 続いて、二つ。三つ。


 金属の足音が、規則正しく、近づいてくる。かち、かち、かち。


 十一秒おきに、一斉に止まる。


「……来る」


 アルクは、リーナをそっと岩陰に横たえた。腰のナイフに、手を伸ばす。ヨルグがくれた、パンを切るための刃を。


 力は、使わない。


 そう決めたのだと、自分に言い聞かせながら、彼は立ち上がった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。