第5話 灰の口
刻印の線は、呼吸していた。
アルクは扉の三歩手前に立ち、手を出さずに見つめていた。灰色の表面に彫られた幾何学の線が、青く明滅している。明るくなる。暗くなる。その周期は、地底から響く低音と、寸分違わず重なっていた。
十一秒。
受動の解析だけを走らせた。扉に触れず、信号も送らない。ただ、そこから漏れる光と音を読む。
《錠:音声認証。形式:旋律》
眉が動いた。
命令語でも、周波数配列でもない。旋律。一定の高低と長さで編まれた、歌の形をした鍵だ。村の詠唱が、線の読み上げだったように、この扉は、節回しを要求している。
「アルク、開けられそう?」
背後で、リーナが小声で言った。
「開けられる」
「え」
「だが、使わない」
アルクは扉から視線を外さなかった。
「ルート権限なら、旋律の認証など無視して、一語で解錠できる。ただ、それは露出を生む。それに」
言葉が、少し詰まった。
「誓った。何かを動かす前に、考える、と」
リーナは小さく頷いた。
「じゃあ、普通に開ける方法を、探さなきゃ」
「ああ。……この旋律を知っている者が、いれば」
その言葉を口にしたとき、アルクの頭の中で、何かが、小さく鳴った。
旋律。節回し。十一秒の周期。
耳に残っている。ずっと前から。炉の前で、粥の湯気の中で、寝台の枕元で。
「リーナ」
「なに」
「君の母が、歌っていた歌を、覚えているか」
リーナは目を瞬いた。
「子守唄? 灰の森の子守唄のこと?」
「そうだ」
「覚えてる。……小さい頃、毎晩聞いてた。意味は、よく分からないけど」
「歌ってみてくれないか」
「ここで?」
「頼む」
リーナは戸惑いながら、口を開いた。
声が、静かな森に落ちた。細く、高く、柔らかい。母の歌い方に似ていた。意味の取れない古い言葉が、ゆっくりと節に乗って流れていく。
アルクは目を閉じて聞いた。
一小節。二小節。区切りの度に、音が上がり、また下がる。そして、一つの句の長さが、ちょうど十一秒だった。
扉の線が、変わった。
青い光が、強くなった。線が、歌の節に合わせて、波打っている。低音が、わずかに震えた。
「リーナ、止めて」
歌が止まった。光が、ゆっくり元に戻った。
「……今の、見た?」
「見た」
リーナが、息を呑んだ。
「扉が、反応した」
「これが、鍵だ。この旋律が」
アルクは確信した。
子守唄は、鐘守たちが代々伝えてきた、古い言葉の一部だった。意味を失った、ただの歌として。けれど、その中に、扉を開く鍵が隠されていた。
「母さんは、知っていたの?」
「分からない。多分、歌の意味は、知らなかったと思う。ただ、受け継いだ」
リーナは、唇を噛んだ。それから、顔を上げた。
「私が歌う」
「リーナ」
「あなたは、使わないって決めた。それなら、これは私の役目でしょう」
「危険だ。この扉が要求する出力は、普通の詠唱より、はるかに大きい。君の回路は、すでに」
言いかけて、やめた。
リーナの目は、静かだった。
「知ってる」
彼女は言った。
「前に、灯りを成功させたとき、あなたは言ったよね。『使うほど負担がかかる』って。……母さんみたいに、枯れちゃうかもしれないって」
「ああ」
「私、考えたの。ずっと」
彼女は母の肩掛けの端を、強く握りしめた。
「母さんは、自分で手を挙げた。誰かを守りたくて。……私も、同じことをしたい。母さんの歌で、母さんの病気の始まりに、行きたい」
「リーナ」
「お願い。歌わせて」
声が、少し震えた。
「母さんの歌だもの」
アルクは、長い間、黙っていた。
止めたかった。全身が、止めろと叫んでいた。彼女の回路が枯れていくのを、見たくなかった。濃度が下がる数字を、もう二度と見たくなかった。
けれど、止める権利が、自分にあるのか。
ガルドは言った。助けられる力があるなら、助けたくなる。それが怖い、と。
――彼女の選択を、奪うことは、助けではない。
「分かった」
アルクは、リーナの前に立った。
「歌ってくれ。……ただし、手を握る」
「え」
「何もできない。だが、倒れたら、支える。それだけだ」
リーナは目を丸くして、それから、小さく笑った。
「うん」
差し出された手を、アルクは両手で包んだ。小さく、冷たい手だった。
リーナは息を吸った。
歌い始めた。
最初の句は、細かった。声が震え、音程が揺れる。それでも、旋律は流れた。十一秒。扉の線が、波打ち、光を増す。
第二句。声が、少し強くなる。
第三句。リーナの額に、汗が滲んだ。
アルクのHUDに、数字が映った。リーナの周囲の濃度。三十一パーセントから、二十八、二十五、二十二。
まだ、落ちる。
「リーナ」
「……歌わせて」
彼女は目を閉じたまま言った。歌の合間の、細い息だった。
第四句。第五句。数字が、十八になった。十五。
鼻から、赤い筋が一本、垂れた。リーナの足が、ふらついた。アルクは握る手に力を込めた。支えた。それしかできなかった。
第六句。扉の光が、激しく脈打つ。地面が、震え始めた。刻印の線が、一本ずつ、扉の中心へと収束していく。
第七句。リーナの声が、掠れた。ほとんど、息だけになった。
「あと、少し」
アルクは言った。
「あと、一句だ」
第八句。最後の旋律。
リーナは、息を吸い込んだ。そして、涙をこぼしながら、最後の音を、長く伸ばした。
――レイ。
声が、途切れた。
世界が、止まった。
扉の線が、一斉に消えた。低音が、止んだ。静寂が、森を満たした。
やがて、重い石の擦れる音が、地の底から響いた。
灰色の扉が、真ん中から、ゆっくりと開いていく。
内側から、冷たい空気が流れ出した。古い金属と、湿った石と、乾いた何かの匂い。暗闇が、斜面の奥に口を開けた。
リーナの膝が、崩れた。
アルクは彼女を抱きとめた。腕の中の身体は、驚くほど軽かった。濃度の数字が、十一と表示されている。
「リーナ」
「……開いた?」
「開いた」
「そっか」
彼女は、血のついた唇で、笑った。
「母さんの歌、……すごいね」
「ああ。すごい」
「よかった」
その言葉の直後、リーナの頭が、アルクの肩に傾いた。気を失ってはいない。ただ、疲れ果てて、力が抜けたのだ。
アルクは、彼女の背を撫でながら、開いた扉の奥を見た。
闇の向こうに、赤い光が、一つ、灯った。
続いて、二つ。三つ。
金属の足音が、規則正しく、近づいてくる。かち、かち、かち。
十一秒おきに、一斉に止まる。
「……来る」
アルクは、リーナをそっと岩陰に横たえた。腰のナイフに、手を伸ばす。ヨルグがくれた、パンを切るための刃を。
力は、使わない。
そう決めたのだと、自分に言い聞かせながら、彼は立ち上がった。




