第4話 灰の森へ
「ヨナスは、雨の日に歌う」
継ぎ場の宿の屋根裏で、アルクは小さく言った。
木の梁がむき出しの、狭い部屋だった。二つの寝台の間に、細い蝋燭が一本立っている。リーナは母の肩掛けを膝に載せ、寝台の端に腰かけていた。眠れずにいるのは、互いに分かっていた。
「歌?」
「下手だそうだ。でも、本人は気づいていなかった。聞く者が笑うと、もっと大きな声で歌った」
「それ、レクスさんが教えてくれたの」
「ああ。もう一人、ハンスは左利きで、干し葡萄が好きだった。ゲルトは、雨の日に眠れなかった」
アルクは、一人ずつ名前を挙げていった。十人分。口にするたび、彼らの顔のない顔が、少しずつ輪郭を持っていくような気がした。
リーナは黙って聞いていた。やがて、膝の上の肩掛けを、そっと撫でた。
「……ガルドさんの名前も、そこに入ってるんだよね」
「ああ」
「私も、覚えるよ」
「え」
「ガルド・ヴァイン。左膝が悪くて、酒場の卓を二回叩く癖があって、借りは必ず返す人」
彼女は小さく息を吐いた。
「あなたが一人で背負うことじゃない。私も、ガルドさんには、助けられたから」
アルクは何も言えなかった。ただ、蝋燭の火が揺れるのを見ていた。
「……まだ、許してないからね」
リーナが、ぽつりと言った。
「分かっている」
「でも、隣にはいるから」
その言葉は、そっけなかった。それなのに、胸の奥が、ふっと温かくなった。
翌日の昼過ぎ、馬車はアシュフェンの村に着いた。
柵は、以前より高くなっていた。見張りの櫓が二つ増え、門の脇に、新しい槍が何本も立てかけてある。それでも、村の入口には人が集まっていた。
「リーナ!」
最初に駆けてきたのは、ピップだった。
「アルク兄ちゃん! リーナ姉ちゃん!」
少年は両腕を広げて、二人の脚に抱きついた。リーナが笑って、その頭を撫でる。
「大きくなったね」
「二週間ぶりだよ」
「そんなに経つのね」
笑い声が、村の入口に広がった。
オットーが杖をついて現れた。白い髭は少し伸び、顔には疲れが滲んでいたが、目はしっかりしていた。
「戻ったか」
「ご無沙汰しております、村長」
「無事で何よりだ。……王都の様子は、聞き及んでおる」
老人は、アルクの顔を見て、静かに言った。
「ガルド殿を、亡くしたそうだな」
「はい」
「そうか」
それ以上は、何も言わなかった。ただ、杖の頭を握る手に、力がこもった。
ヨルグが、少し離れたところから歩いてきた。頬の傷が、日に焼けて黒ずんでいる。彼はアルクの前で立ち止まり、短く頭を下げた。
「話は、司祭補の方から聞いた。……灰の口に、行くんだな」
「ああ」
「一人で行くな。俺も行く」
アルクは、首を振った。
「だめだ」
「なぜだ」
「中は、分からない。何が出てくるか。あなたが傷つけば、村は誰が守る」
「あんたが傷ついたらどうなる」
「私は、……戻る」
「約束できるか」
ヨルグの目が、まっすぐに彼を見た。かつて、憎しみと恐れだけを湛えていた目が、今は、静かに揺れている。
「できない」
アルクは、正直に答えた。
「だから、村を頼みたい。ピップを。リーナの家を。……私が戻らなかったときに、ここに残る人たちを」
長い沈黙のあと、ヨルグが唇を結んだ。
「……分かった」
「ありがとう」
「礼はいらん。ただ」
男は、懐から縄の束と小さな革袋を取り出した。
「持っていけ。縄は丈夫だ。袋の中身は、火打ち石と干し肉。……戻らなければ、三日後に探しに行く。止めても無駄だぞ」
「分かった」
アルクは縄と袋を受け取った。ヨルグの手の温度が、袋にわずかに残っていた。
出発の前に、リーナは自分の家に寄った。扉を開けると、空気が籠っていた。埃を被った炉の前で、彼女はしばらく立ち尽くし、小さく息を吐いた。
「ここで、母さんと暮らしてたんだよね」
「ああ」
「また、帰ってくるね」
誰にともなく呟いて、リーナは戸を閉めた。
隣家の前で、老婆が椅子に座っていた。以前、冷ややかな目でアルクを見ていた、あの老婆だった。名前は、マルタ。彼女は日向に背を丸めて、ゆっくり茶をすすっている。
「おや、嬢ちゃん」
「マルタさん。お久しぶりです」
「母さんは、元気かい」
「……あまり」
「そうかい」
マルタは頷き、遠くの空を見上げた。
「あの鐘楼ね、今、わたしが打ってるんだよ」
アルクの足が止まった。
「セレナがいなくなってから、二十年。ずっと、わたしが」
「マルタさんが……」
「正午と、夕刻に。何十年やったか。腰が曲がったのも、息が切れるのも、年のせいだと思ってたんだけどねえ」
彼女は、湯呑みを膝に置いた。
「二日前に、教会の使いが来て、言ったんだよ。『しばらく鐘を打たないでください』って。理由は教えてくれなかった。……だから、打たずにいた」
皺だらけの顔に、不思議そうな色が浮かんでいた。
「そしたらね」
彼女は、背筋を伸ばした。ゆっくりと、椅子の上で、腰を伸ばして見せた。
「伸びたんだよ。腰が。……息も、深く吸える。膝も、軽い。こんなの、何年ぶりだろうねえ」
リーナが、息を呑んだ。
「鐘を、打たなくなったから?」
「どうだかね。偶然かもしれない。でも、ありがたいよ」
マルタは、にこりと笑った。それから、ふと表情を曇らせた。
「ただね、七日が明けたら、また打たなきゃならないんだろう? ……あれを聞くと、胸が、きゅっとなるんだよ。わたしのお役目だから、仕方ないけどねえ」
アルクは、その言葉を、噛みしめた。
鐘を打つ者の身体に、鐘は、確かに負担をかけている。打たなければ、楽になる。セレナの濃度が止まったことと、同じ事実が、もう一つ、ここにあった。
マルタに礼を言い、二人は村を出た。
北の斜面へ続く、森の小道。リーナが前を歩く。木々が深くなり、苔の匂いが濃くなる。数日前に通った道だ。そのはずなのに、空気が違った。
鳥の声が、ない。
風が、止んでいる。
湿った静けさの中を、二人は黙って進んだ。ピップが焼いたパンが、リーナの背嚢の中で、まだ温かかった。「また帰ってきてね」と言った少年の目を、アルクは思い出した。
やがて、木々が途切れた。
斜面に半ば埋もれた、灰色の巨大な扉が、そこにあった。
以前より、輪郭がはっきり見えた。苔の下の刻印が、うっすらと青く光っている。線の一本一本が、呼吸するように明滅していた。
「……光ってる」
リーナが呟いた。
「前は、こんなじゃなかった」
「ああ」
アルクは扉に近づいた。
その瞬間、耳の奥に、低い音が響いた。
鐘の音のようだった。遠く、深く、地面の下から湧き上がってくる。ゴォン、と、ゆっくりと、震えるように。周期がある。十一秒。
彼の背筋に、冷たいものが這った。
「アルク?」
「……何でもない」
首を振った。けれど、分かっていた。
扉の向こうで、何かが、目を覚ましている。
二人は、顔を見合わせた。リーナの手が、青い肩掛けの端を、強く握りしめていた。




