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堕天のアルケー  作者: 山本田38ページ
第3章 迷宮
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第3話 母の背中

 名前は、十個覚えた。


 昨夜の詰所で、レクスは黒い手帳を片手に、一人ずつ名前を教えてくれた。ハンス、ゲルト、ヨナス。その人の癖、好きだったもの、笑い方。アルクは一度だけ、ゲルトとヨナスの特徴を取り違えた。レクスは何も言わず、拳をアルクの肩に叩きつけた。痛かった。そして、それが妙に、ありがたかった。


 肩の鈍い痛みを抱えたまま、アルクは医院の廊下を歩いていた。


 特別室の扉を開ける。


 窓際の椅子に、リーナが座っていた。寝台の母の手を、両手で包んでいる。セレナは眠っていた。呼吸は浅いが、乱れてはいない。


「おかえり」


 リーナは顔を上げずに言った。


「原典庫、どうだった」


 アルクは扉を閉め、静かに近づいた。


 隠さずに話す、と決めていた。リーナには、全てを。


「鐘守の祈りは、天蓋に力を送るための儀式だった」


 声は、低く出た。


「天啓の鐘も、正午と夕刻の鐘も。鐘守が己の魔力を鐘の音に乗せて、天蓋に注ぐ。その代償が、枯れだ。志願した者が、少しずつ、枯れていく」


 リーナの手が、止まった。


「教会は、知っていた。千年、ずっと。上層の者だけが」


「それと、もう一つ。最新の記録の数頁が、何者かに切り取られていた。半年前の頁だ。誰が、何を隠したのか、まだ分からない。それを、確かめたい」


 長い沈黙が、落ちた。


 リーナはゆっくりと、母の手を寝台の上に置いた。それから、立ち上がった。背中が、細かく震えている。


「……ふざけないで」


 絞り出すような声だった。


「千年。千年も、人を枯らして。それを、誇りだとか名誉だとか言って、笑って送り出して。母さんだって、そうやって」


「リーナ」


「母さんは、私に何も教えてくれなかった。鐘を打っていたことも、病気のことも、全部。それは、守るためだって思ってた。違った。教会が、黙らせてたんだ」


「違う」


 寝台から、掠れた声がした。


 セレナだった。薄く開いた目が、天井を見ている。


「違うのよ、リーナ」


「母さん、起きて」


「いえ。……まだ、もう少しだけ、このまま」


 彼女は目を閉じたまま、弱々しく笑った。


「あなたは、アルクさんに、何を言おうとしていたの」


 リーナは唇を噛んだ。それから、アルクに向き直った。目が赤く、潤んでいた。


「アルク。お願い」


「何を」


「力を使って。母さんを、助けて」


 部屋の空気が、凍りついた。


「あなたは、魔物を一言で止められるんでしょう。結界も、一晩で直した。だったら、母さんを治すことだって、できるはず」


「リーナ」


「できるよね。お願い。一度だけでいいの。母さんの病気を、治して」


「できない」


 アルクは静かに言った。


「できないんじゃなくて、したくないんでしょう」


 リーナの声が、跳ねた。


「ガルドさんが死んだから。あなたは、怖くなっただけでしょう。もう力を使いたくないだけ。それで、母さんを見殺しにするの?」


 痛い言葉だった。


 アルクは目を逸らさなかった。


「……そうだ」


「え」


「怖い。力を使えば、何かが動く。誰かが傷つく。ガルドが死んだのは、私が動けなかったからだ。その前に、私が動いたからだ。……私は、怖い」


 リーナの目が、見開かれた。


「それに、材料が足りない。この街のナノマシンは、結界に吸い上げられて、ほとんど残っていない。使えたとしても、セレナを治すには、足りない。そして、無理に引き出せば、セレナの回路が、さらに枯れる」


「でも」


「治せる確証が、ない。ないのに、使えば、君の母を壊す。……それだけは、できない」


 声が、少し、掠れた。


「すまない」


「謝らないでよ」


 リーナは、握りしめた拳で、自分の太腿を叩いた。


「謝られたって、母さんは、治らない」


「ああ」


「あなたが一番、分かってるくせに」


 彼女の目から、涙が落ちた。拭わなかった。ただ、俯いて、肩を震わせた。


 重い沈黙の中で、寝台から、小さな咳払いが聞こえた。


「リーナ。こちらに、来なさい」


 セレナが、ゆっくりと目を開けた。瞳の奥は、驚くほど澄んでいた。


「アルクさんも。二人とも」


 リーナは袖で顔を拭い、寝台の傍に膝をついた。アルクも、少し離れた位置に立った。


「聞きなさい」


 セレナは、天井を見たまま言った。


「私が鐘守になったのはね、二十のときだったの。誰に頼まれたわけでもなかった。自分で、手を挙げた」


「母さん」


「村の鐘楼の、古い鐘が好きだった。小さい頃から、あの音を聞くと、胸が温かくなった。……そしてね、私が打つ音が、空の向こうで、誰かを守っているのだと教わった。それが、嬉しかった」


 声は、柔らかだった。


「知っていたの。枯れるかもしれないと。先輩の鐘守たちが、少しずつ、いなくなっていくのを見ていたから。それでも、手を挙げた」


「どうして」


「誰かが、やらなければならなかったから。……そして、それを、誇りに思ったから」


 セレナは、リーナの手を取った。


「後悔は、していないわ。一度も」


「……」


「ただ、あなたには、同じ道を歩かせたくなかった。だから、何も教えなかった。それは、私の勝手な臆病さよ。ごめんなさいね」


「そんなの」


 リーナの声が、詰まった。


「そんなの、ずるいよ。私にも、知る権利が」


「ええ。あるわ」


 セレナは頷いた。


「あなたには、知る権利がある。この病のことも、鐘のことも、アルクさんのことも。全部。……だから、行きなさい」


「え」


「灰の口へ」


 リーナの顔が、ゆっくりと上がった。


「アルクさんと、行きなさい。そして、見てきなさい。あなたの目で。この病の始まりと、終わりを」


「でも、母さんが」


「私は、ここにいる。アンナさんも、ユリウスさんもいる。……鐘が止まっているうちは、私は、持ちこたえられるわ」


 セレナは、少し笑った。


「私を看取るために、ここに座っていることは、あなたの望みじゃないでしょう。あなたは、最後までここで見ているよりも、知るために走る人よ」


 リーナの唇が、わなないた。


「分かってるの、私。……母さんが、私をそう育てたんだもの」


「そうよ」


 セレナは、枕元に畳まれた青い肩掛けに、震える指を伸ばした。


「これを、持っていきなさい」


「それは、母さんの」


「鐘守の仕事のとき、いつも羽織っていたの。……寒い夜に、あなたを包んだこともある。覚えてる?」


「覚えてる」


 リーナは嗚咽を堪えながら、肩掛けを受け取った。色褪せた青い布が、彼女の肩に掛けられた。


「似合うわ」


「……母さん」


「大丈夫。必ず、戻ってきなさい」


 リーナは、母の胸に顔を押しつけた。セレナの細い手が、娘の栗色の髪を、ゆっくりと撫でた。


 アルクは、扉の傍で、その光景を見ていた。


 やがて、リーナが顔を上げた。涙の跡が残る顔で、アルクを見た。


「さっきは、ごめんなさい」


「いや」


「怖いって、言ってくれて、ありがとう。……嘘をつかないでくれて」


「リーナ」


「でも、許したわけじゃないからね」


 彼女は、涙目のまま、少し笑った。


「帰ってきたら、ちゃんと、母さんを治す方法を、一緒に探してもらうから」


「約束する」


 アルクは頷いた。


 セレナが、そっと目を閉じた。微笑みが、唇に残っている。


「いってらっしゃい、二人とも」


 出立は、その日の午後だった。


 大聖堂の裏門に、二頭立ての軽い馬車が待っていた。ユリウスが手綱を握り、護衛の騎士が一人、馬に跨っている。教会の早馬の継ぎ場を使えば、アシュフェンまで二日で着く、と彼は言った。


「猊下からです」


 ユリウスが、封のされた書状を差し出した。


「通行の許可と、途中の宿の手配です」


 アルクが受け取ろうとしたとき、背後から、静かな声がした。


「アルク殿」


 ミレイユだった。


 大聖堂の石段の上に、一人で立っていた。灰色のショールが、風に揺れている。


「灰の口へ、行かれるのですね」


「はい」


「止めは、いたしません」


 彼女は、首の鐘の飾りを、そっと握りしめた。


「どうか、見てきてください。……そして、戻ってきてください」


 その声には、懇願に近い響きがあった。


 アルクは、彼女の顔を見た。灰色の瞳は、深く、静かで、何かを覚悟した人間の色をしていた。


「必ず、戻ります」


 そう答えて、馬車に乗り込んだ。リーナが隣に座る。肩に、青い肩掛けを羽織っていた。


 車輪が、石畳を鳴らした。


 大聖堂の尖塔が、遠ざかっていく。鐘は、鳴っていなかった。


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