第3話 母の背中
名前は、十個覚えた。
昨夜の詰所で、レクスは黒い手帳を片手に、一人ずつ名前を教えてくれた。ハンス、ゲルト、ヨナス。その人の癖、好きだったもの、笑い方。アルクは一度だけ、ゲルトとヨナスの特徴を取り違えた。レクスは何も言わず、拳をアルクの肩に叩きつけた。痛かった。そして、それが妙に、ありがたかった。
肩の鈍い痛みを抱えたまま、アルクは医院の廊下を歩いていた。
特別室の扉を開ける。
窓際の椅子に、リーナが座っていた。寝台の母の手を、両手で包んでいる。セレナは眠っていた。呼吸は浅いが、乱れてはいない。
「おかえり」
リーナは顔を上げずに言った。
「原典庫、どうだった」
アルクは扉を閉め、静かに近づいた。
隠さずに話す、と決めていた。リーナには、全てを。
「鐘守の祈りは、天蓋に力を送るための儀式だった」
声は、低く出た。
「天啓の鐘も、正午と夕刻の鐘も。鐘守が己の魔力を鐘の音に乗せて、天蓋に注ぐ。その代償が、枯れだ。志願した者が、少しずつ、枯れていく」
リーナの手が、止まった。
「教会は、知っていた。千年、ずっと。上層の者だけが」
「それと、もう一つ。最新の記録の数頁が、何者かに切り取られていた。半年前の頁だ。誰が、何を隠したのか、まだ分からない。それを、確かめたい」
長い沈黙が、落ちた。
リーナはゆっくりと、母の手を寝台の上に置いた。それから、立ち上がった。背中が、細かく震えている。
「……ふざけないで」
絞り出すような声だった。
「千年。千年も、人を枯らして。それを、誇りだとか名誉だとか言って、笑って送り出して。母さんだって、そうやって」
「リーナ」
「母さんは、私に何も教えてくれなかった。鐘を打っていたことも、病気のことも、全部。それは、守るためだって思ってた。違った。教会が、黙らせてたんだ」
「違う」
寝台から、掠れた声がした。
セレナだった。薄く開いた目が、天井を見ている。
「違うのよ、リーナ」
「母さん、起きて」
「いえ。……まだ、もう少しだけ、このまま」
彼女は目を閉じたまま、弱々しく笑った。
「あなたは、アルクさんに、何を言おうとしていたの」
リーナは唇を噛んだ。それから、アルクに向き直った。目が赤く、潤んでいた。
「アルク。お願い」
「何を」
「力を使って。母さんを、助けて」
部屋の空気が、凍りついた。
「あなたは、魔物を一言で止められるんでしょう。結界も、一晩で直した。だったら、母さんを治すことだって、できるはず」
「リーナ」
「できるよね。お願い。一度だけでいいの。母さんの病気を、治して」
「できない」
アルクは静かに言った。
「できないんじゃなくて、したくないんでしょう」
リーナの声が、跳ねた。
「ガルドさんが死んだから。あなたは、怖くなっただけでしょう。もう力を使いたくないだけ。それで、母さんを見殺しにするの?」
痛い言葉だった。
アルクは目を逸らさなかった。
「……そうだ」
「え」
「怖い。力を使えば、何かが動く。誰かが傷つく。ガルドが死んだのは、私が動けなかったからだ。その前に、私が動いたからだ。……私は、怖い」
リーナの目が、見開かれた。
「それに、材料が足りない。この街のナノマシンは、結界に吸い上げられて、ほとんど残っていない。使えたとしても、セレナを治すには、足りない。そして、無理に引き出せば、セレナの回路が、さらに枯れる」
「でも」
「治せる確証が、ない。ないのに、使えば、君の母を壊す。……それだけは、できない」
声が、少し、掠れた。
「すまない」
「謝らないでよ」
リーナは、握りしめた拳で、自分の太腿を叩いた。
「謝られたって、母さんは、治らない」
「ああ」
「あなたが一番、分かってるくせに」
彼女の目から、涙が落ちた。拭わなかった。ただ、俯いて、肩を震わせた。
重い沈黙の中で、寝台から、小さな咳払いが聞こえた。
「リーナ。こちらに、来なさい」
セレナが、ゆっくりと目を開けた。瞳の奥は、驚くほど澄んでいた。
「アルクさんも。二人とも」
リーナは袖で顔を拭い、寝台の傍に膝をついた。アルクも、少し離れた位置に立った。
「聞きなさい」
セレナは、天井を見たまま言った。
「私が鐘守になったのはね、二十のときだったの。誰に頼まれたわけでもなかった。自分で、手を挙げた」
「母さん」
「村の鐘楼の、古い鐘が好きだった。小さい頃から、あの音を聞くと、胸が温かくなった。……そしてね、私が打つ音が、空の向こうで、誰かを守っているのだと教わった。それが、嬉しかった」
声は、柔らかだった。
「知っていたの。枯れるかもしれないと。先輩の鐘守たちが、少しずつ、いなくなっていくのを見ていたから。それでも、手を挙げた」
「どうして」
「誰かが、やらなければならなかったから。……そして、それを、誇りに思ったから」
セレナは、リーナの手を取った。
「後悔は、していないわ。一度も」
「……」
「ただ、あなたには、同じ道を歩かせたくなかった。だから、何も教えなかった。それは、私の勝手な臆病さよ。ごめんなさいね」
「そんなの」
リーナの声が、詰まった。
「そんなの、ずるいよ。私にも、知る権利が」
「ええ。あるわ」
セレナは頷いた。
「あなたには、知る権利がある。この病のことも、鐘のことも、アルクさんのことも。全部。……だから、行きなさい」
「え」
「灰の口へ」
リーナの顔が、ゆっくりと上がった。
「アルクさんと、行きなさい。そして、見てきなさい。あなたの目で。この病の始まりと、終わりを」
「でも、母さんが」
「私は、ここにいる。アンナさんも、ユリウスさんもいる。……鐘が止まっているうちは、私は、持ちこたえられるわ」
セレナは、少し笑った。
「私を看取るために、ここに座っていることは、あなたの望みじゃないでしょう。あなたは、最後までここで見ているよりも、知るために走る人よ」
リーナの唇が、わなないた。
「分かってるの、私。……母さんが、私をそう育てたんだもの」
「そうよ」
セレナは、枕元に畳まれた青い肩掛けに、震える指を伸ばした。
「これを、持っていきなさい」
「それは、母さんの」
「鐘守の仕事のとき、いつも羽織っていたの。……寒い夜に、あなたを包んだこともある。覚えてる?」
「覚えてる」
リーナは嗚咽を堪えながら、肩掛けを受け取った。色褪せた青い布が、彼女の肩に掛けられた。
「似合うわ」
「……母さん」
「大丈夫。必ず、戻ってきなさい」
リーナは、母の胸に顔を押しつけた。セレナの細い手が、娘の栗色の髪を、ゆっくりと撫でた。
アルクは、扉の傍で、その光景を見ていた。
やがて、リーナが顔を上げた。涙の跡が残る顔で、アルクを見た。
「さっきは、ごめんなさい」
「いや」
「怖いって、言ってくれて、ありがとう。……嘘をつかないでくれて」
「リーナ」
「でも、許したわけじゃないからね」
彼女は、涙目のまま、少し笑った。
「帰ってきたら、ちゃんと、母さんを治す方法を、一緒に探してもらうから」
「約束する」
アルクは頷いた。
セレナが、そっと目を閉じた。微笑みが、唇に残っている。
「いってらっしゃい、二人とも」
出立は、その日の午後だった。
大聖堂の裏門に、二頭立ての軽い馬車が待っていた。ユリウスが手綱を握り、護衛の騎士が一人、馬に跨っている。教会の早馬の継ぎ場を使えば、アシュフェンまで二日で着く、と彼は言った。
「猊下からです」
ユリウスが、封のされた書状を差し出した。
「通行の許可と、途中の宿の手配です」
アルクが受け取ろうとしたとき、背後から、静かな声がした。
「アルク殿」
ミレイユだった。
大聖堂の石段の上に、一人で立っていた。灰色のショールが、風に揺れている。
「灰の口へ、行かれるのですね」
「はい」
「止めは、いたしません」
彼女は、首の鐘の飾りを、そっと握りしめた。
「どうか、見てきてください。……そして、戻ってきてください」
その声には、懇願に近い響きがあった。
アルクは、彼女の顔を見た。灰色の瞳は、深く、静かで、何かを覚悟した人間の色をしていた。
「必ず、戻ります」
そう答えて、馬車に乗り込んだ。リーナが隣に座る。肩に、青い肩掛けを羽織っていた。
車輪が、石畳を鳴らした。
大聖堂の尖塔が、遠ざかっていく。鐘は、鳴っていなかった。




