第2話 原典庫
闇の底に、書架が眠っていた。
ミレイユが燭台を高く掲げると、橙の光が、背の高い鉄の棚を一本ずつ浮かび上がらせた。革の背表紙が、金の箔押しの文字を鈍く光らせる。空気は冷たく、乾いていて、紙と埃と、わずかな金属の匂いがした。
「ご自由にお読みください」
ミレイユは燭台を、入口の脇の台に置いた。
「ただし、持ち出しはなりません。明け方までに、わたくしは戻ります」
「猊下は、お残りにならないのですか」
「ええ」
彼女は少し笑った。首の鐘の飾りに、指が触れている。
「わたくしがここにいては、あなたは、わたくしの顔を見ながら読むことになります。それは、フェアではありません」
そう言い残して、石段を上がっていく。灰色のショールの裾が、闇に溶けた。
扉の方に、別の足音が近づいた。
「見張りは、私が務めます」
ダミアンだった。黒い法衣の袖を組み、入口の柱に背をつけている。細い目が、アルクの手元を逃さず追っていた。
「猊下のご命令ゆえ、止めはしません。ただ、一冊でも持ち出せば、その場で人を呼びます」
「分かった」
アルクは書架に向き直った。
棚の分類は、年代順だった。奥へ進むほど古い。彼は端から、背表紙を指で辿った。古い言葉が、HUDの受動処理で、少しずつ意味に変わっていく。これは力ではない、と自分に言い聞かせた。読むための、ただの補助だ。
《天啓の夜 儀式次第》
その一冊を、手に取った。
頁を開く。丁寧な筆跡が、細い罫線の間に並んでいた。冒頭に、短い序があった。
《聖者イオンの遺せし蓋は、人の祈りによって保たれる。鐘守は祈りを捧げ、蓋に力を注ぐ。これを天啓の鐘と呼ぶ》
アルクは息を止めた。
頁を繰る。儀式の手順が、細かく記されていた。冬至の前夜、全鐘守が大聖堂に集い、七日の斎戒を経て、鐘を打つ。鐘の音に、己の魔の根を乗せる。その響きが、天へ昇り、蓋を支える。
《鐘守は己が魔の根を捧げる者なり。その身に宿る力を、蓋に注ぐ》
《故に、鐘守は志願によってのみ選ばれる》
志願。その言葉に、指が止まった。
さらに頁をめくる。次の項の見出しは、《日々の祈りについて》。
《正午と夕刻の鐘は、小さき天啓なり。各地の鐘塔にて、鐘守が一日二度、蓋に力を送る。これにより蓋は、年の巡りの間、保たれる》
各地の鐘塔。アシュフェンの小さな鐘楼が、頭に浮かんだ。セレナは毎日、あの鐘を打っていた。何十年も。村の鐘楼は、ただの時報ではなかった。天蓋への給電を中継する、送電線の端だったのだ。
身体の芯が、冷たくなった。
もう一冊。《鐘守名簿》。
開くと、各期ごとの名が並んでいた。第一期、第二期、と遡る。名前の横に、小さな墨の点が打たれている。点の意味は、凡例に書いてあった。
《黒点は、枯れにて没せし者》
第一期は七名中二名が黒点。第二期、三名。第三期、四名。期を追うごとに、黒点が増えていく。
第四期。七名のうち五名が、黒点だった。
第五期、六名。第六期、六名。
第七期。
七名のうち、五つの黒点。一つは、生存の白。そして最後の行は、墨で塗り潰されていた。
アルクは、最後の頁を閉じた。
「……知っていたのか」
声は、思ったより低く出た。
「あなたたちは。鐘守が枯れて死ぬことを。最初から」
背後で、衣擦れがした。ダミアンが、柱から背を離していた。
「知っていました」
感情の抜けた声だった。
「教会の上層の、ごく限られた者だけが。大司教と、司教と、原典庫の番人だけが」
「なぜ、隠した」
「公にすれば、誰が志願しますか」
ダミアンの細い目が、初めて、アルクを正面から見た。
「鐘守は、名誉ある職です。民は、尊敬の念をもって、鐘守を見送ります。その尊敬が、鐘守に誇りを与え、次の志願を生む。……真実を告げれば、その連鎖が途切れる」
「それで、蓋はどうなる」
「落ちます」
即答だった。
「蓋が落ちれば、星は丸裸になります。天より、浄めの光が降りてくる。……古い言い伝えです。この星が、外の神々に見つかれば、全てが焼かれる、と」
アルクの喉が、小さく鳴った。
それは、言い伝えではない。事実だ。マザー・スフィアが、他系統のAI巨星が、観測空白域の存在を知れば、検証し、消去する。そのために、先代の堕天者が、この蓋を張った。
「教会は、それを、信じているのか」
「信じる、信じないの問題ではない」
ダミアンは、書架の一つに手を触れた。
「蓋が落ちれば、街ごと、民ごと、消える。それを防ぐために、鐘守が何人か、先に逝く。……私は、そう教わった」
「何人か、ではない」
アルクは名簿を示した。
「七名のうち五人だ。それが、七期続いている。千年、これを続けて、教会は何を」
「千年も続けてきたのです!」
初めて、ダミアンの声が裏返った。
静寂の中に、その叫びが響いた。彼はすぐに口を閉じ、荒く息をついた。拳が、書架の縁を握りしめている。
「……失礼」
「いや」
「あなたに怒鳴る筋合いはない。あなたの怒りは、もっともだ」
ダミアンは、顔を伏せた。蝋燭の火が、その頬の影を揺らした。
「第四期の名簿を、もう一度、ご覧なさい」
アルクは、頁を繰った。
第四期。七名のうち五名が、黒点。
その一行に、小さな名があった。
《エルザ・ヴァイス》
黒点がついている。没年は、二十七年前。
「私の妹です」
ダミアンの声が、ひどく静かになっていた。
「十九の年に、志願しました。私は止めた。止められなかった。……三年後に、咳が出て、半年で亡くなった」
「ダミアン」
「妹が死んだとき、私は思いました。この死に、意味がなければならない、と。蓋を守るという意味が。民を守るという意味が。そうでなければ、あの子は、何のために」
言葉が、詰まった。
「私は、この秘密を守ります。妹の死を、無駄にしないために。誰に何と言われようと」
アルクは、何も言わなかった。
怒りは、確かにあった。教会は、人を殺している。それを知りながら、隠し続けてきた。リーナの母は、その犠牲の途中にいる。
けれど、目の前の男は、妹の名を墨の海の中に探して、ここに立っていた。
――怒鳴りつけることは、できる。
だが、それは、何も動かさない。
「……あなたの妹の名前は、エルザ・ヴァイス」
アルクは静かに言った。
「覚えた」
ダミアンの肩が、びくりと震えた。
「名前を覚える、ことなら、私にもできる。あなたの妹も、その中の一人として」
男は何も答えなかった。ただ、深く、頭を下げた。長い間、そのままだった。
夜が明け始めた頃、アルクはさらに奥の棚を探った。
最も新しい巻に、《天啓の夜 今期記録》という題があった。手に取り、開く。
前半は、通常の記録だった。第七期の鐘守たちの名、斎戒の日程、鐘の打数。
途中で、頁が途切れていた。
刃物で切り取られたような、鋭い断面。紙の端が、綴じ糸の根元から、きれいに残っている。数頁分。
アルクは、断面を指でなぞった。
「ここ」
彼は顔を上げた。
「頁が、切り取られている。誰が」
ダミアンが近づき、断面を見た。その顔が、固まった。
「……知りません」
「本当に」
「本当です。私はこの巻を、半年前から開いていない」
男の声に、嘘の色はなかった。
「半年前」
アルクは、呟いた。
天啓の夜が前倒しされた、あの布告の時期だ。
「誰が、この原典庫の鍵を持っている」
「大司教猊下と、私と、……ヨハン師だけです」
ダミアンの声が、細くなった。
アルクは、切り取られた頁の断面を、もう一度見つめた。誰かが、これを隠した。何を。何のために。
窓のない地下室に、遠く、石段を下りてくる足音が響いた。
ミレイユが、戻ってくる。
アルクは、巻を静かに棚へ戻した。そして、ダミアンに向き直った。
「この件は、まだ、猊下には言わない」
「なぜ」
「確かめたいことがある。……それまで、黙っていてほしい」
ダミアンは、長い間、アルクを見つめていた。それから、小さく頷いた。
「……いいでしょう」
足音が、近づく。ミレイユの燭台の光が、石壁に揺れた。
アルクは、胸の奥で、一つの名前を繰り返した。エルザ・ヴァイス。その名は、今日から、彼の覚える名前の一つになった。




