第1話 弔い
街が、息を潜めていた。
葬列は、夜明けとともに大聖堂へ向かった。松葉杖をついた者、包帯を巻いた者、騎士団の外套を肩に掛けた者。ヴェルトリアの目抜き通りの両側に、人々が無言で立ち並んでいる。店は戸を閉ざし、窓には黒い布が掛けられていた。
棺は、飾り気のない松の板でできていた。その上に、擦り切れた騎士団の外套が畳んで載せられている。担ぐのは騎士六人。先頭の一人は、左膝を庇うように、慎重に歩いていた。ミハエルだった。腹の傷は癒えきらず、顔は蒼白だったが、誰にも代わらせなかった。
「アルク」
隣で、リーナが小声で呼んだ。
「後ろに、いよう。前に出たら、レクスさんが」
「ああ」
アルクは頷き、群衆の最後尾に立った。昨日、殴られた頬が、まだ熱を持っている。
列の先頭を歩く若い騎士の背が見えた。レクスだった。腰に長剣を佩いている。柄が擦り切れて、黒光りしていた。顔は動かず、まっすぐ前だけを見ている。
大聖堂の前庭は、騎士団の隊列で埋まっていた。整列した数十人が、直立不動で棺を迎える。誰も声を出さない。咳ひとつ聞こえなかった。
ミレイユが、白い法衣で石段の上に立っていた。いつもの灰色のショールは羽織っていない。首の鐘の飾りだけが、朝の光を受けて鈍く光った。
「ガルド・ヴァイン」
大司教の声が、前庭に響いた。
「ヴェルトリア騎士団長。五十二年の生涯を、街と、仲間と、名もなき民のために使い果たされた方。……この街は、その恩を忘れません」
棺が、石段の前に下ろされた。
その時、レクスが列から一歩、前へ出た。
「騎士団の古い慣わしに従い、団長に代わって、名を読み上げます」
声は、震えていなかった。震えを押し殺した声だった。
彼は懐から、一枚の古い羊皮紙を取り出した。広げ、読み始める。
「ヴェルトリア騎士団、戦没者。……ハンス・ミューラー」
静寂に、名が落ちた。
「オットー・ブランケ。ゲルト・シュタイン。ベルンハルト・リヒト。ヨナス・クライン」
一人一人の名前を、レクスは区切って読んだ。その度に、隊列のどこかで、誰かが息を呑む音がした。
十一の名前が、続いた。第七小隊。
それから、さらに長く名が続いた。ここ数十年の間に、この街のために死んだ者たち。それぞれの名の後に、レクスは必ず一拍、置いた。
アルクは、名前を聞いていた。
一つも、取りこぼさないように。HUDが自動で記録を取ろうとするのを、意識して止めた。これは記録ではない。耳で、心で、覚えるのだ。
最後に、レクスの声が、わずかに乱れた。
「……ガルド・ヴァイン」
静けさが、凝縮した。
彼は、そこで一度、目を閉じた。唇が震え、喉が動いた。それでも、それ以上は、何も言わなかった。羊皮紙を畳み、胸元にしまう。
誰かが、嗚咽を漏らした。それが連鎖するように、前庭のあちこちから、堪えきれない声が広がっていった。
ミレイユが、一歩、前に出た。
「皆さんに、お伝えします」
声は静かだったが、前庭の隅々まで届いた。
「ガルド・ヴァインが逝った朝から、祈りの鐘は止めております。この服喪の七日が明けるまで、止めたままにいたします。正午の鐘も、夕刻の鐘も」
ざわめきが走った。
「猊下!」
鋭い声が割って入った。ダミアンだった。黒い法衣の裾を翻し、石段を駆け上がる。
「鐘を止めるなど、お考えなのですか。七日も、鐘を止めたら、蓋が」
言葉が、途切れた。
ダミアンの顔から、血の気が引いた。周囲の視線が、一斉に彼に集まっていた。細い目が見開かれ、唇が硬く結ばれる。
「……蓋が?」
ミレイユが、静かに問い返した。
長い沈黙のあと、ダミアンは頭を下げた。
「いえ。……何でもありません。失言でした」
「七日間だけです」
ミレイユは言った。
「ガルド・ヴァインのために。それくらいの猶予は、許されるはずです」
その声には、反論を許さない、澄んだ重みがあった。ダミアンは唇を噛み、黙って後ろへ下がった。
アルクは、その一部始終を、じっと見ていた。
――鐘を止めたら、蓋が。
その先の言葉を、ダミアンは知っている。そして、ミレイユもまた、それを承知の上で、鐘を止めると決めたのだ。
葬儀が終わると、棺は大聖堂の地下の墓所へ運ばれた。騎士たちが一人ずつ献花し、去っていく。人波が引き、前庭に静けさが戻った頃、アルクは石段の脇に立つレクスの背に、近づいた。
「レクス」
若者は、振り向かなかった。
「何ですか」
「頼みがある」
「聞きたくありません」
「聞いてほしい」
アルクは、そこで言葉を切った。昨日の拳の痛みを思い出した。殴られた分だけの権利があるとは、思わなかった。ただ、言わなければならなかった。
「ガルドが覚えていた、全員の名前を、私も覚えたい」
レクスの肩が、微かに動いた。
「あなたが読んだ名前を、一つずつ聞いた。でも、聞いただけでは足りない。顔も、癖も、好きだったものも、知りたい。……教えてもらえないか」
長い沈黙が、落ちた。
やがて、レクスがゆっくりと振り向いた。目の下が赤く腫れていた。それでも、涙は落ちていない。
「なぜ、あなたが」
「約束したからだ。ガルドに」
「約束?」
「全員の名前を、覚える、と」
レクスは、アルクの顔を長く見つめた。それから、懐に手を入れた。
取り出されたのは、黒い革の手帳だった。角が擦り切れ、表紙に深い皺が刻まれている。
「団長のです」
彼は、ぎこちなく手帳を開いた。
頁いっぱいに、名前が並んでいた。小さな、角ばった字。そして、各々の名の横に、細い文字で、書き添えがある。
《ハンス:左利き。干し葡萄が好き》
《ゲルト:歌がうまい。雨の日に眠れない》
《ミハエル:兄が二人。蜂蜜入りの茶》
いくつもの短い言葉が、名前の横に並んでいた。それは、記録ではなく、記憶のかたちだった。
「これは」
「団長は毎晩、これを見ていました」
レクスの声が、かすれた。
「死んだ人間を、一人ずつ。……忘れないように。忘れて、楽になってしまわないように」
アルクは、息を詰めた。
「俺は、あなたを許していません」
若者は、手帳を閉じた。
「これからも、許せるかどうか、分かりません。団長が死んだのは、あなたが動かなかったからだ。……それは、変わらない」
「ああ」
「でも」
レクスは、手帳を胸に押し当てた。
「団長は、最後に、あなたに『自由だ』と言った。……あの人が、そう言ったなら」
声が、止まった。唇を噛んで、堪えた。
「俺が、教えます」
「レクス」
「一人ずつ。何日かかっても。ただし、条件があります」
「何でも聞く」
「間違えたら、殴ります。一回ごとに」
アルクは、微かに口の端を上げた。
「構わない」
「……笑うな」
「すまない」
「団長みたいな顔をするな」
レクスは顔を背け、目元を乱暴に拭った。それから、手帳を懐にしまい直し、背を向けて歩き出した。数歩進んで、立ち止まる。
「今夜、詰所に来てください。……最初の十人を、教えます」
「分かった」
足音が、遠ざかった。
医院の特別室に入ると、リーナが、母の寝台の傍の椅子に座っていた。窓から差す午後の光が、白いシーツを淡く染めている。
セレナは眠っていた。呼吸は浅いが、穏やかだった。
「おかえり」
リーナが、小声で言った。
「どうだった」
「……送ってきた」
「うん」
彼女は多くを聞かなかった。代わりに、母の手を見下ろした。
「ねえ、アルク。気づいた?」
「何を」
「母さんの熱。昨日から、下がってきてるの。それと、濃度」
アンナが、静かに近づいてきた。手に、小さな記録板を持っている。
「ハートウェル様の魔力値は、昨日の朝から変化していません。七パーセントのまま、動いていないのです」
アルクは、セレナの顔を見た。
HUDの数字は、確かに、七で止まっていた。これまでは、日を追うごとに、一つ、二つと下がっていた。それが、止まっている。
「いつから」
「鐘の音が止まった、あの朝からです」
アンナの声は、低かった。
「偶然、かもしれませんが」
アルクは答えなかった。偶然ではない、と確信していた。
鐘が鳴ると、セレナの濃度は落ちる。鐘が止まると、落ちない。二つの事実が、一本の線で繋がった。
窓の外で、夕暮れの空が、鐘のない静けさに沈んでいた。
「猊下から、お使いがありました」
廊下から、ユリウスが入ってきた。法衣の裾に、塵がついている。
「約束のものを、お見せしたい、と。夜明け前に、大聖堂の地下へ、来てほしいとのことです」
リーナが、アルクを見上げた。
「約束って」
「原典庫を、開く」
アルクは、眠るセレナの顔を、もう一度見た。七日。服喪が明ければ、鐘が再び鳴り始める。それまでに、答えを見つけなければならない。
彼は、静かに頷いた。
夜明け前の大聖堂の地下は、凍りつくほど冷たかった。
ミレイユが、燭台を手に、鉄扉の前に立っていた。肩に灰色のショールを羽織り、首の鐘の飾りを握りしめている。
「お待ちしておりました」
彼女は、古い鍵を取り出した。鎖が、一本ずつ外されていく。錠前が、重い音を立てて回った。
扉が、軋みながら、開いた。
暗闇の奥から、長い年月に閉じ込められた紙と埃の匂いが、流れ出してきた。




