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堕天のアルケー  作者: 山本田38ページ
第2章 大賢者
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第12話 借りは返した

 飛竜の首が、ゆっくりと、倒れたガルドの方へ向いた。


 琥珀色の目が、瞳孔のない光を放つ。爪が持ち上がる。その下には、動かない男と、膝をついたまま叫んでいるレクスがいた。


 アルクは、声を出した。


「《停止》」


 古い言葉が、喉から滑り落ちた。


 視界が白くなった。同期の門が、ほんの一瞬、開いた。そこに、一語を叩き込む。命令は、巨大な制御系の中を貫いて、核へ届いた。


 世界が、止まった。


 飛竜の爪が、レクスの頭上、指二本分のところで凍りついた。翼が半ば広がったまま、尾が石畳を掃きかけたまま、巨体全体が、彫像のように静止した。


 風だけが、広場を吹き抜けた。


 アルクの鼻から、血が噴き出した。膝が崩れる。耳の奥で、大きな音が鳴った。HUDが赤く点滅する。


 《外部信号漏洩:大》


 それを、読まなかった。


 四つん這いで、這った。ガルドの方へ。石畳を掴む爪が割れた。気づかなかった。


「団長! 団長!」


 レクスが、男の肩を揺さぶっていた。ガルドの胸の革鎧が、裂けていた。赤黒い血が、噴き出し続けている。レクスの両手が血に染まり、押さえても押さえても、指の間から溢れた。


「どいてくれ」


 アルクは、レクスの手の上に、自分の手を重ねた。


 視界が切り替わる。傷の内側が、立体図のように浮かんだ。肋骨が砕け、片方の肺が潰れ、心臓の近くの太い血管が裂けている。


 修復の手順が、演算に流れ込む。ナノマシンへの命令。組織の再構築。止血。時間は、あと二分。


 ――やれる。


 命令を、組み立てた。古い言葉を、喉に乗せる。


 けれど、何も起きなかった。


 アルクの周囲を、粒子が漂っている。街全体の濃度は、先ほどの再書き換えで、ほとんどが結界へ吸い上げられていた。残っているのは、基準値の三パーセントにも満たない。


 治すだけの量が、ない。


 命令は、空回りした。もう一度。もう一度。血が、止まらない。


「どうして」


 レクスが叫んだ。


「どうして、治せないんですか。あなたは、大賢者でしょう。九体の魔物を一言で止めたって」


「足りない」


 声が、掠れた。


「材料が、足りない。……私が、結界に、使い果たした」


 レクスの顔が、一瞬、空白になった。


 その時、男の指が、動いた。


 血まみれの手が、アルクの手首を掴んだ。力は弱かった。けれど、離させない意志があった。


「……やめろ」


 ガルドだった。


 目が、薄く開いていた。焦点は定まらない。それでも、まっすぐに、アルクを見ていた。


「ガルド」


「もう、いい。無駄だ」


「喋るな」


「いや、喋らせろ。……時間がない」


 咳が出た。赤い泡が、唇に滲んだ。ガルドは笑ったようだった。


「止めたな。……あれを」


「止めた」


「遅かった、が……間に合った」


 アルクの喉が、焼けた。


「私が、動かなかった。三秒、動かなかった。私が、間違えたから」


「ああ。……そうだ」


 男は、否定しなかった。


「お前は、間違えた。……俺も、六年前に、間違えた。……同じだ。だから」


 血が喉に絡んで、言葉が途切れる。


「だから、……分かる。怖かったろう」


 アルクは、答えられなかった。


「怖がれ、と言った。……怖がれる奴は、……まだ、人間だ」


「ガルド」


「ミハエルを、助けてくれたな」


 唐突な言葉だった。アルクは、瞬きをした。


「あの日。……ミハエルの、傷を、手で押さえた。……あれは、俺が、お前に借りた」


「借りじゃない」


「俺の、流儀だ」


 ガルドの唇が、僅かに持ち上がった。


「借りは、返す。……今、返した」


「やめろ。そんな計算は」


「計算じゃ、ない」


 男の指が、アルクの手首を、ぎゅっと握った。


「お前が、笑ったのを、見た。……あの夜。……あれが、……いちばん、うまい酒だった」


 アルクは、息ができなくなった。


「席は、空けておく、と言ったろう。……あれは、……本気だ」


「……ああ」


「だから、……来い。いつか。……ゆっくりで、いい」


 血の泡が、また唇を濡らした。ガルドはゆっくりと、レクスに目を向けた。


「レクス」


「団長……」


「……すまなかった」


「そんな」


「お前の親父を、……連れて帰れなかった」


「いいんです、もう、いいんですから」


 若者の顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。ガルドは目を細め、微かに頷いた。


「剣を、……取れ。……俺の、剣を」


 レクスが、転がった長剣を拾った。柄が擦り切れて、黒光りしている。若者は両手で、それを胸に抱いた。


「名前は」


 ガルドが、呟いた。


「全員、……覚えて、……いるな」


「はい。全員、覚えています」


「ならいい」


 最後に、彼はアルクを見た。


「借りは、……返した。お前は、……自由だ」


 手首を握る力が、ふっと抜けた。


 目が、閉じた。呼吸が、止まった。


 広場に、風が吹いた。


 誰も、何も言わなかった。


 最初に動いたのは、レクスだった。


 彼は、ガルドの身体を、そっと石畳に横たえた。外套を胸元に引き上げ、血に濡れた顔を、袖で拭った。それから、ゆっくりと、立ち上がった。


 アルクの襟首を、掴んだ。


「あなたが」


 声は、低く、震えていた。


「あなたが、止めていれば」


「そうだ」


「あの時、すぐに止めていれば」


「そうだ」


「団長は、死ななかった!」


 拳が、アルクの頬を打った。


 痛みは、鋭かった。口の中が裂け、血の味が広がる。アルクは、避けなかった。


 もう一発。さらにもう一発。レクスは泣きながら、殴り続けた。獣のような声が、喉から漏れていた。


「返せ! 返してください! 団長を、返して!」


 アルクは、石畳に倒れた。レクスはその上に馬乗りになり、振り上げた拳を、止めた。


 彼の手が、震えていた。


「……なんで」


 涙が、アルクの顔に落ちた。


「なんで、言い訳、しないんですか」


「言い訳は、ない」


 アルクは、静かに言った。


「あなたの言うとおりだ。私が、殺した」


 レクスの顔が、くしゃりと歪んだ。拳が、ほどける。若者はアルクの胸に額を押しつけ、声を上げて泣き出した。


 その傍らに、小さな足音が近づいた。


 リーナだった。


 裸足で走ってきたのだろう、足は泥だらけだった。彼女は何も言わなかった。倒れたアルクの傍に膝をつき、血まみれの顔を、両手で挟んだ。


「……私のせいだ」


 アルクが言った。


「うん」


「ガルドが、死んだ」


「うん」


「私が」


「うん。分かってる」


 リーナは、静かに言った。否定も、慰めも、しなかった。ただ、彼の頬に、自分の額を寄せた。


「分かってるよ」


 東の空が、白み始めていた。


 騎士たちが、集まってくる。誰もが、ガルドの身体を囲み、黙って頭を垂れた。一人ずつ、名前を呼んでいる。ミハエルの名前もあった。腹の傷を押さえながら、担架で運ばれてきたのだろう、彼は泣いていた。


 ミレイユも、いた。広場の端に立ち、両手で口を覆っている。灰色の瞳が、凍りついたように、停止した飛竜と、倒れた男を見ていた。


 アルクは、ゆっくりと身体を起こした。


 飛竜の巨体が、朝焼けの中に黒く浮かんでいる。その胸の核から、微弱な信号が洩れていた。同じ系統。同じ言葉。


 地下の、あの同期源から。


 彼は、レクスの肩に手を置きかけて、やめた。代わりに、ガルドの傍に膝をついた。


「覚えている」


 誰にも聞こえない声で、言った。


「全員の名前を。あなたが覚えていた、全員を。……私も、覚える」


 それは、約束だった。借りの、受け取りだった。


 立ち上がる。足は、まだ震えていた。


 もう、使わない。


 力を。この手を。


 あの言葉を、二度と口にしない。何かを動かす前に、必ず考える。ガルドが教えたとおりに。怖がりながら、歩く。


 それが、彼の遺した借りの、返し方だ。


「リーナ」


「なに」


「灰の口へ、行く」


 彼女は目を見開き、それから、ゆっくりと頷いた。


「うん。私も行く」


「危険だ」


「知ってる。でも、逃げないって約束した」


 その時、視界の隅で、HUDが小さく光った。


 《上位ノードからの照会信号を受信》


 《宛先:アルケー-704》


 《応答を要求。応答なし》


 アルクは目を閉じた。


 朝の鐘が、遠くで鳴り始めた。祈りの鐘ではなかった。弔いの、ゆっくりした音だった。


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