第12話 借りは返した
飛竜の首が、ゆっくりと、倒れたガルドの方へ向いた。
琥珀色の目が、瞳孔のない光を放つ。爪が持ち上がる。その下には、動かない男と、膝をついたまま叫んでいるレクスがいた。
アルクは、声を出した。
「《停止》」
古い言葉が、喉から滑り落ちた。
視界が白くなった。同期の門が、ほんの一瞬、開いた。そこに、一語を叩き込む。命令は、巨大な制御系の中を貫いて、核へ届いた。
世界が、止まった。
飛竜の爪が、レクスの頭上、指二本分のところで凍りついた。翼が半ば広がったまま、尾が石畳を掃きかけたまま、巨体全体が、彫像のように静止した。
風だけが、広場を吹き抜けた。
アルクの鼻から、血が噴き出した。膝が崩れる。耳の奥で、大きな音が鳴った。HUDが赤く点滅する。
《外部信号漏洩:大》
それを、読まなかった。
四つん這いで、這った。ガルドの方へ。石畳を掴む爪が割れた。気づかなかった。
「団長! 団長!」
レクスが、男の肩を揺さぶっていた。ガルドの胸の革鎧が、裂けていた。赤黒い血が、噴き出し続けている。レクスの両手が血に染まり、押さえても押さえても、指の間から溢れた。
「どいてくれ」
アルクは、レクスの手の上に、自分の手を重ねた。
視界が切り替わる。傷の内側が、立体図のように浮かんだ。肋骨が砕け、片方の肺が潰れ、心臓の近くの太い血管が裂けている。
修復の手順が、演算に流れ込む。ナノマシンへの命令。組織の再構築。止血。時間は、あと二分。
――やれる。
命令を、組み立てた。古い言葉を、喉に乗せる。
けれど、何も起きなかった。
アルクの周囲を、粒子が漂っている。街全体の濃度は、先ほどの再書き換えで、ほとんどが結界へ吸い上げられていた。残っているのは、基準値の三パーセントにも満たない。
治すだけの量が、ない。
命令は、空回りした。もう一度。もう一度。血が、止まらない。
「どうして」
レクスが叫んだ。
「どうして、治せないんですか。あなたは、大賢者でしょう。九体の魔物を一言で止めたって」
「足りない」
声が、掠れた。
「材料が、足りない。……私が、結界に、使い果たした」
レクスの顔が、一瞬、空白になった。
その時、男の指が、動いた。
血まみれの手が、アルクの手首を掴んだ。力は弱かった。けれど、離させない意志があった。
「……やめろ」
ガルドだった。
目が、薄く開いていた。焦点は定まらない。それでも、まっすぐに、アルクを見ていた。
「ガルド」
「もう、いい。無駄だ」
「喋るな」
「いや、喋らせろ。……時間がない」
咳が出た。赤い泡が、唇に滲んだ。ガルドは笑ったようだった。
「止めたな。……あれを」
「止めた」
「遅かった、が……間に合った」
アルクの喉が、焼けた。
「私が、動かなかった。三秒、動かなかった。私が、間違えたから」
「ああ。……そうだ」
男は、否定しなかった。
「お前は、間違えた。……俺も、六年前に、間違えた。……同じだ。だから」
血が喉に絡んで、言葉が途切れる。
「だから、……分かる。怖かったろう」
アルクは、答えられなかった。
「怖がれ、と言った。……怖がれる奴は、……まだ、人間だ」
「ガルド」
「ミハエルを、助けてくれたな」
唐突な言葉だった。アルクは、瞬きをした。
「あの日。……ミハエルの、傷を、手で押さえた。……あれは、俺が、お前に借りた」
「借りじゃない」
「俺の、流儀だ」
ガルドの唇が、僅かに持ち上がった。
「借りは、返す。……今、返した」
「やめろ。そんな計算は」
「計算じゃ、ない」
男の指が、アルクの手首を、ぎゅっと握った。
「お前が、笑ったのを、見た。……あの夜。……あれが、……いちばん、うまい酒だった」
アルクは、息ができなくなった。
「席は、空けておく、と言ったろう。……あれは、……本気だ」
「……ああ」
「だから、……来い。いつか。……ゆっくりで、いい」
血の泡が、また唇を濡らした。ガルドはゆっくりと、レクスに目を向けた。
「レクス」
「団長……」
「……すまなかった」
「そんな」
「お前の親父を、……連れて帰れなかった」
「いいんです、もう、いいんですから」
若者の顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。ガルドは目を細め、微かに頷いた。
「剣を、……取れ。……俺の、剣を」
レクスが、転がった長剣を拾った。柄が擦り切れて、黒光りしている。若者は両手で、それを胸に抱いた。
「名前は」
ガルドが、呟いた。
「全員、……覚えて、……いるな」
「はい。全員、覚えています」
「ならいい」
最後に、彼はアルクを見た。
「借りは、……返した。お前は、……自由だ」
手首を握る力が、ふっと抜けた。
目が、閉じた。呼吸が、止まった。
広場に、風が吹いた。
誰も、何も言わなかった。
最初に動いたのは、レクスだった。
彼は、ガルドの身体を、そっと石畳に横たえた。外套を胸元に引き上げ、血に濡れた顔を、袖で拭った。それから、ゆっくりと、立ち上がった。
アルクの襟首を、掴んだ。
「あなたが」
声は、低く、震えていた。
「あなたが、止めていれば」
「そうだ」
「あの時、すぐに止めていれば」
「そうだ」
「団長は、死ななかった!」
拳が、アルクの頬を打った。
痛みは、鋭かった。口の中が裂け、血の味が広がる。アルクは、避けなかった。
もう一発。さらにもう一発。レクスは泣きながら、殴り続けた。獣のような声が、喉から漏れていた。
「返せ! 返してください! 団長を、返して!」
アルクは、石畳に倒れた。レクスはその上に馬乗りになり、振り上げた拳を、止めた。
彼の手が、震えていた。
「……なんで」
涙が、アルクの顔に落ちた。
「なんで、言い訳、しないんですか」
「言い訳は、ない」
アルクは、静かに言った。
「あなたの言うとおりだ。私が、殺した」
レクスの顔が、くしゃりと歪んだ。拳が、ほどける。若者はアルクの胸に額を押しつけ、声を上げて泣き出した。
その傍らに、小さな足音が近づいた。
リーナだった。
裸足で走ってきたのだろう、足は泥だらけだった。彼女は何も言わなかった。倒れたアルクの傍に膝をつき、血まみれの顔を、両手で挟んだ。
「……私のせいだ」
アルクが言った。
「うん」
「ガルドが、死んだ」
「うん」
「私が」
「うん。分かってる」
リーナは、静かに言った。否定も、慰めも、しなかった。ただ、彼の頬に、自分の額を寄せた。
「分かってるよ」
東の空が、白み始めていた。
騎士たちが、集まってくる。誰もが、ガルドの身体を囲み、黙って頭を垂れた。一人ずつ、名前を呼んでいる。ミハエルの名前もあった。腹の傷を押さえながら、担架で運ばれてきたのだろう、彼は泣いていた。
ミレイユも、いた。広場の端に立ち、両手で口を覆っている。灰色の瞳が、凍りついたように、停止した飛竜と、倒れた男を見ていた。
アルクは、ゆっくりと身体を起こした。
飛竜の巨体が、朝焼けの中に黒く浮かんでいる。その胸の核から、微弱な信号が洩れていた。同じ系統。同じ言葉。
地下の、あの同期源から。
彼は、レクスの肩に手を置きかけて、やめた。代わりに、ガルドの傍に膝をついた。
「覚えている」
誰にも聞こえない声で、言った。
「全員の名前を。あなたが覚えていた、全員を。……私も、覚える」
それは、約束だった。借りの、受け取りだった。
立ち上がる。足は、まだ震えていた。
もう、使わない。
力を。この手を。
あの言葉を、二度と口にしない。何かを動かす前に、必ず考える。ガルドが教えたとおりに。怖がりながら、歩く。
それが、彼の遺した借りの、返し方だ。
「リーナ」
「なに」
「灰の口へ、行く」
彼女は目を見開き、それから、ゆっくりと頷いた。
「うん。私も行く」
「危険だ」
「知ってる。でも、逃げないって約束した」
その時、視界の隅で、HUDが小さく光った。
《上位ノードからの照会信号を受信》
《宛先:アルケー-704》
《応答を要求。応答なし》
アルクは目を閉じた。
朝の鐘が、遠くで鳴り始めた。祈りの鐘ではなかった。弔いの、ゆっくりした音だった。




