第11話 飛竜の夜
最初に砕けたのは、窓だった。
咆哮が夜空を裂き、大聖堂前の広場に面した家々の硝子が、一斉に弾け飛んだ。歓声は悲鳴に変わった。人々が押し合い、子供が泣き、杯や灯りが石畳に転がる。
「全員、下がれ! 広場から出ろ!」
ガルドの怒号が響いた。左膝を引きずりながら、驚くほどの速さで人波の中へ走っていく。アルクは、その背を追った。足がもつれた。血の味が、まだ口の中に残っている。
「医院の方へ誘導しろ! 女子供が先だ!」
騎士たちが駆け回る。その中に、レクスの姿があった。北の塔から駆け戻ってきたのだろう、息を切らし、額に汗を光らせている。ガルドが彼の肩を掴んだ。
「レクス。お前は東の列を頼む。一人も置いていくな」
「はい! 団長は」
「俺は、あれを見る」
ガルドが指差した空で、影が、大きくなっていた。
翼だった。蝙蝠のような膜の翼が、端から端まで二十メートル近く。灰色の鱗は、狼と同じ、陶器のような光沢を帯びていた。長い首の先に、琥珀色の目が二つ、瞳孔のない光を放っている。
飛竜が、降りてくる。
「結界は」
誰かが叫んだ。
「結界はどうした! さっき、直ったんじゃないのか!」
アルクの視界に、HUDが警告を重ねた。
――結界は、反応していない。
青い膜は、確かに空に広がっていた。だが、その飛竜に対しては、何も働いていない。膜はまるで門を開けるように、巨大な影を素通りさせた。
理由は、すぐに分かった。
アルクが書き換えたのだ。三十六基の塔を、同期した一つの網にした。主幹線の先にある、同じ網の一部として。
飛竜は、侵入者ではない。味方として登録されている。
「……私の、せいだ」
声が、勝手に漏れた。
ガルドが、振り向いた。血の気の引いたアルクの顔を、短く見た。
「アルク」
「結界は、あれを通す。私が、網を繋いだから」
「止められるか」
ガルドの声は、低く、揺らがなかった。
「あれを、お前の言葉で」
アルクは、飛竜を見た。
狼と同じ制御系なら、停止命令は通るはずだ。ただし、同期の門が開く瞬間を捉えなければならない。あれほどの巨体が相手では、どれほどの猶予があるか、分からない。しかも、先ほどの大規模命令の消耗が、まだ頭の芯に残っている。
「やる」
アルクは答えた。
「やってみる」
「よし」
ガルドは頷いた。それから、剣を抜いた。
「時間は、俺が稼ぐ」
飛竜が、広場に降り立った。
石畳が震え、噴水の水が跳ねる。巨大な爪が、敷石に深い傷を刻んだ。長い尾が地面を掃き、屋台の残骸が吹き飛ぶ。
その正面に、一人の若い騎士が立っていた。
レクスだった。
避難誘導のために、広場に取り残されていた子供を抱えて、立ち尽くしていた。腕の中の少女が、泣き声を上げている。彼の足が、動かなかった。
「レクス!」
ガルドが叫んだ。
「子供を連れて走れ! 早く!」
若者の目が、団長の声に反応して揺れた。足がようやく動く。子供を抱え、駆け出そうとする。
その瞬間、飛竜が口を開いた。
咆哮が、空気を砕いた。
見えない衝撃が広場を薙いだ。立っていた者は全員、地面に叩きつけられた。アルクも例外ではなかった。背中を打ち、肺から空気が抜ける。耳の奥が、鐘の中に閉じ込められたように鳴った。
起き上がろうとして、視界の端に、レクスが倒れているのが見えた。少女を庇った格好で、うつ伏せになっている。剣は、離れた場所に転がっていた。
彼は立ち上がれない。
飛竜が、首をもたげた。爪が、ゆっくりと持ち上がる。
狙いは、レクスだった。
アルクは立ち上がった。ふらつく足で、数歩、前に出た。
掌を、飛竜に向けた。
視界が切り替わる。巨大な制御系。複雑に絡み合った構文。無数の命令が、層になって動いている。どこに停止の鍵があるのか。どの門が開いているのか。
演算が、追いつかない。
頭の奥で、警告が鳴り響いていた。
――また、間違えたら。
その思考が、割り込んだ。
村で、狼を起こした。結界を繋いで、飛竜を通した。力を使えば何かが動く。何かが目を覚ます。そして誰かが傷つく。
もし、この停止命令も、間違っていたら。
もし、これが新たな何かを起こしたら。
――怖い。
その感情が、喉を締めつけた。言葉が、出なかった。
一。
飛竜の爪が、振り上がる。
二。
レクスが、顔を上げた。迫る爪を見ている。口が開き、何かを叫びかけている。
三。
アルクの口は、まだ動かなかった。
「――馬鹿野郎!」
怒号が、鼓膜を叩いた。
黒い影が、アルクの横を駆け抜けた。左膝を引きずる、不揃いな足音。ガルドだった。
男は、全力でレクスの方へ跳んでいた。剣を投げ捨て、両腕を広げ、若者の身体を横へ突き飛ばした。
レクスと少女が、石畳を転がる。
そのまま、ガルドの身体は止まらなかった。振り向きざまに、アルクの襟首を掴んだ。
「お前は、立っているだけで、いい」
低い声が、耳元で聞こえた。
「怖がれ。……それで、いい」
彼の腕が、アルクの身体を、後ろへ投げ飛ばした。
視界が回る。石畳に背中が叩きつけられた。起き上がろうとしたその目に、見えた。
飛竜の爪が、振り下ろされる。
ガルドの胸に。
音は、しなかった。いや、音はあったのかもしれない。ただアルクの耳には、何も届かなかった。男の身体が、ゆっくりと宙に浮き、石畳に叩きつけられた。外套が広がり、剣が転がる。
赤い液体が、敷石の上に、じわりと広がっていく。
「……団長?」
レクスの声が、遠くで聞こえた。
アルクは、立ち上がれなかった。
自分の手が、まだ飛竜に向けて伸びたままだった。掌の下で、震えが止まらない。
三秒。
あの三秒が、何を失わせたのかを、彼は初めて知った。




