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堕天のアルケー  作者: 山本田38ページ
第2章 大賢者
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第11話 飛竜の夜

 最初に砕けたのは、窓だった。


 咆哮が夜空を裂き、大聖堂前の広場に面した家々の硝子が、一斉に弾け飛んだ。歓声は悲鳴に変わった。人々が押し合い、子供が泣き、杯や灯りが石畳に転がる。


「全員、下がれ! 広場から出ろ!」


 ガルドの怒号が響いた。左膝を引きずりながら、驚くほどの速さで人波の中へ走っていく。アルクは、その背を追った。足がもつれた。血の味が、まだ口の中に残っている。


「医院の方へ誘導しろ! 女子供が先だ!」


 騎士たちが駆け回る。その中に、レクスの姿があった。北の塔から駆け戻ってきたのだろう、息を切らし、額に汗を光らせている。ガルドが彼の肩を掴んだ。


「レクス。お前は東の列を頼む。一人も置いていくな」


「はい! 団長は」


「俺は、あれを見る」


 ガルドが指差した空で、影が、大きくなっていた。


 翼だった。蝙蝠のような膜の翼が、端から端まで二十メートル近く。灰色の鱗は、狼と同じ、陶器のような光沢を帯びていた。長い首の先に、琥珀色の目が二つ、瞳孔のない光を放っている。


 飛竜が、降りてくる。


「結界は」


 誰かが叫んだ。


「結界はどうした! さっき、直ったんじゃないのか!」


 アルクの視界に、HUDが警告を重ねた。


 ――結界は、反応していない。


 青い膜は、確かに空に広がっていた。だが、その飛竜に対しては、何も働いていない。膜はまるで門を開けるように、巨大な影を素通りさせた。


 理由は、すぐに分かった。


 アルクが書き換えたのだ。三十六基の塔を、同期した一つの網にした。主幹線の先にある、同じ網の一部として。


 飛竜は、侵入者ではない。味方として登録されている。


「……私の、せいだ」


 声が、勝手に漏れた。


 ガルドが、振り向いた。血の気の引いたアルクの顔を、短く見た。


「アルク」


「結界は、あれを通す。私が、網を繋いだから」


「止められるか」


 ガルドの声は、低く、揺らがなかった。


「あれを、お前の言葉で」


 アルクは、飛竜を見た。


 狼と同じ制御系なら、停止命令は通るはずだ。ただし、同期の門が開く瞬間を捉えなければならない。あれほどの巨体が相手では、どれほどの猶予があるか、分からない。しかも、先ほどの大規模命令の消耗が、まだ頭の芯に残っている。


「やる」


 アルクは答えた。


「やってみる」


「よし」


 ガルドは頷いた。それから、剣を抜いた。


「時間は、俺が稼ぐ」


 飛竜が、広場に降り立った。


 石畳が震え、噴水の水が跳ねる。巨大な爪が、敷石に深い傷を刻んだ。長い尾が地面を掃き、屋台の残骸が吹き飛ぶ。


 その正面に、一人の若い騎士が立っていた。


 レクスだった。


 避難誘導のために、広場に取り残されていた子供を抱えて、立ち尽くしていた。腕の中の少女が、泣き声を上げている。彼の足が、動かなかった。


「レクス!」


 ガルドが叫んだ。


「子供を連れて走れ! 早く!」


 若者の目が、団長の声に反応して揺れた。足がようやく動く。子供を抱え、駆け出そうとする。


 その瞬間、飛竜が口を開いた。


 咆哮が、空気を砕いた。


 見えない衝撃が広場を薙いだ。立っていた者は全員、地面に叩きつけられた。アルクも例外ではなかった。背中を打ち、肺から空気が抜ける。耳の奥が、鐘の中に閉じ込められたように鳴った。


 起き上がろうとして、視界の端に、レクスが倒れているのが見えた。少女を庇った格好で、うつ伏せになっている。剣は、離れた場所に転がっていた。


 彼は立ち上がれない。


 飛竜が、首をもたげた。爪が、ゆっくりと持ち上がる。


 狙いは、レクスだった。


 アルクは立ち上がった。ふらつく足で、数歩、前に出た。


 掌を、飛竜に向けた。


 視界が切り替わる。巨大な制御系。複雑に絡み合った構文。無数の命令が、層になって動いている。どこに停止の鍵があるのか。どの門が開いているのか。


 演算が、追いつかない。


 頭の奥で、警告が鳴り響いていた。


 ――また、間違えたら。


 その思考が、割り込んだ。


 村で、狼を起こした。結界を繋いで、飛竜を通した。力を使えば何かが動く。何かが目を覚ます。そして誰かが傷つく。


 もし、この停止命令も、間違っていたら。


 もし、これが新たな何かを起こしたら。


 ――怖い。


 その感情が、喉を締めつけた。言葉が、出なかった。


 一。


 飛竜の爪が、振り上がる。


 二。


 レクスが、顔を上げた。迫る爪を見ている。口が開き、何かを叫びかけている。


 三。


 アルクの口は、まだ動かなかった。


「――馬鹿野郎!」


 怒号が、鼓膜を叩いた。


 黒い影が、アルクの横を駆け抜けた。左膝を引きずる、不揃いな足音。ガルドだった。


 男は、全力でレクスの方へ跳んでいた。剣を投げ捨て、両腕を広げ、若者の身体を横へ突き飛ばした。


 レクスと少女が、石畳を転がる。


 そのまま、ガルドの身体は止まらなかった。振り向きざまに、アルクの襟首を掴んだ。


「お前は、立っているだけで、いい」


 低い声が、耳元で聞こえた。


「怖がれ。……それで、いい」


 彼の腕が、アルクの身体を、後ろへ投げ飛ばした。


 視界が回る。石畳に背中が叩きつけられた。起き上がろうとしたその目に、見えた。


 飛竜の爪が、振り下ろされる。


 ガルドの胸に。


 音は、しなかった。いや、音はあったのかもしれない。ただアルクの耳には、何も届かなかった。男の身体が、ゆっくりと宙に浮き、石畳に叩きつけられた。外套が広がり、剣が転がる。


 赤い液体が、敷石の上に、じわりと広がっていく。


「……団長?」


 レクスの声が、遠くで聞こえた。


 アルクは、立ち上がれなかった。


 自分の手が、まだ飛竜に向けて伸びたままだった。掌の下で、震えが止まらない。


 三秒。


 あの三秒が、何を失わせたのかを、彼は初めて知った。


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